八十年目の火 ― 広島から世界への悔い改めと平和の証し

八十年目の火 ― 人類への警告
八十年前の夏の朝、広島の空は澄み切っていた。人々は日常の音に囲まれていた。魚を売る声、子どもの笑い声、井戸から汲み上げる水の音。その一瞬後、白い閃光が世界を裂き、街の輪郭は音もなく吹き飛んだ。爆心地近くでは、人も建物も影の形だけを地面に焼き付け、生命の輪郭は空気に溶けた。
皮膚は溶け、垂れ下がり、衣服の裂け目から赤黒く膨らんだ肉が露わになった。目は焼かれ、見えぬまま、両手を突き出して歩く者。声を失った喉から、獣にも似た呻きが漏れる。川岸には、水を求めて倒れた人の層が重なり、その下の層がすでに息をしていない。川面には燃える油が浮かび、そこに身を投げた者は水ではなく炎に包まれた。生まれたばかりの赤子を抱いたまま黒焦げとなった母の姿が、瓦礫の間に横たわっていた。
その日から長く、街は死臭に包まれ、瓦礫の下からは小さな骨が無言で掘り出された。焼け残った石段や樹木の幹には、人影の痕が今も残る。それは、音もなく叫び続ける影である。
火の記憶を裏切らないために
この記憶は、過去の出来事ではない。あの日、広島に刻まれた惨禍は、人類の罪と愚かさの証であり、いまなお私たちを見つめている。核兵器は「二度と使わない」と誓われたはずだった。しかし、いま世界では再び核の使用が語られ、力の誇示が正義を名乗ろうとしている。八十年の時を越えて、火は再び人類の心の奥で燃えはじめている。
私たちは、黙してはならない。あの日の焼け焦げた手の跡は、未来を握る私たちの掌の中にある。無関心は加担であり、沈黙は次の炎への許可証である。
説教 ― いのちの選択
人は、火と光を選び取る自由を与えられている。その自由は、単なる可能性ではなく、創造主が人に委ねられた厳粛な責務である。火は、冷たい闇を照らし、いのちを温め、飢えた者の食を用意することもできる。しかし同じ火は、瞬く間にすべてを焼き尽くし、いのちの連鎖を断ち切ることもできる。八十年前、私たちはその火を、いのちを奪うために解き放った。そのとき、世界は光ではなく炎を選び、人の心はその熱で焼かれた。あの日の炎は街を溶かし、身体を崩し、魂をも切り裂いた。だが、もっと深く焼かれたのは人類自身の心の奥底である。
その記憶を心の奥底に封じたまま、私たちは未来を語ることはできない。忘却は、同じ過ちへの道標である。記憶は痛みを伴う。しかしその痛みは、単なる苦しみではない。悔い改めへの入り口であり、再び選び直すための唯一の鍵である。記憶なき平和は、砂上の楼閣にすぎない。核の閃光に焼かれたあの影が、地上の石に今も刻まれているのは、偶然ではない。それは、私たちの選択がいかなるものかを問い続ける刻印である。
あなたが立つその場所は、選択の場である。ここで選ばれるものは、単なる政治的立場や感情的好悪ではない。それは、いのちを守るか、危うくするかの分岐点である。平和を口にするだけでは足りない。平和は、口先の言葉によってではなく、血の通った行いによって築かれる。平和は、無関心の中では育たない。平和は、恐れや自己保身の中では根を張らない。平和は、行動を通してのみ、現実となる。
だから、平和を創るために立ち上がる時が、今である。力による支配は、力が衰えるとき必ず崩れ去る。恐怖で縛られた秩序は、外見こそ整っていても、その内部はすでに腐敗している。真に持つべきは、弱き者を守るための勇気である。声なき者の声となり、権力に迎合せず、不正義に沈黙しない勇気である。この勇気は、戦場の英雄のものではなく、日々の生活の中で静かに試される。いのちを守る選びをするためには、自らの利益や安逸を差し出す覚悟が必要である。
過去を悔い、未来を守るための行動こそ、悔い改めのしるしである。悔い改めとは、単なる後悔ではない。方向を変えること、歩みを改めることである。八十年前の炎は、選択の結果であった。ゆえに、同じ選択を繰り返さないためには、同じ道を歩まない決意が要る。その決意は、言葉だけでは足りない。日常の中で、政治の場で、教育の場で、家庭の中で、私たちの選びを具体的な形にすることでしか示せない。
八十年前の火が、再び空を裂かぬように。私たちは、炎ではなく、光を選ばなければならない。光とは、いのちを温め、導くものである。その光は、勇気ある行動によって燃やされ、隣人への愛によって保たれる。光を選ぶとは、恐れよりも愛を、無関心よりも連帯を、憎しみよりも赦しを選び取ることである。それは容易ではない。しかし、その選びこそが、いのちを生かす唯一の道である。
あなたは今日、どちらを選ぶのか。選びは今も、あなたの手の中にある。
「彼らは、平和を知る道を知らず、その歩みには正義がない。彼らの道筋は曲がっており、それを歩む者は誰も平和を知らない。」
(イザヤ書59章8節)