教会時論 2025年11月11日特別号 「ボンヘッファーと沈黙の日本の教会」

ボンヘッファーと沈黙の日本の教会

ヒトラー暗殺計画に関わった牧師の名は、ディートリヒ・ボンヘッファーである。彼の生涯を描く映画「ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師」が、2025年11月7日から日本で公開された。東京の小さな劇場に、信徒や牧師がぱらぱらと集まり、この「抵抗する神学者」の物語を見つめている。その一方で、現実の日本社会では、高市政権のもとで軍拡と排外主義が加速し、参政党のような極右ポピュリズムが勢いを増している。それにもかかわらず、日本の教会は総じて静かだ。この対比こそが、今この映画をどう受け止めるかを、私たちに鋭く問いかけている。

 映画は、第三帝国下のベルリンで、ボンヘッファーがナチ体制と教会の癒着に抗い、「告白教会」の一員として抵抗し、最終的にはヒトラー暗殺計画に連なるネットワークの中に身を置く姿を描く。史実からの脚色や、キリスト教ナショナリズムによる「取り込み」への懸念が、ドイツの研究者や遺族から公然と表明されてきたことも事実だ。ウィキペディア+1 それでもなお、ひとりの牧師が自らの信仰に基づいて国家権力に「ノー」を突きつけ、結果として処刑されるという骨格は揺るがない。問題は、フィクションとしての出来よりも、この物語が日本の教会の足元をどう照らすかである。日本のキリスト教界は長く「政教分離」を、牧師や信徒が公共問題について沈黙する口実として用いてきた。説教は個人の罪と救いに偏り、戦争準備、貧困、差別、ジェンダー暴力、移民・難民政策への具体的な言及は、今なお例外でしかない。

 沈黙の理由は単純ではない。戦時中に国家神道と歩調を合わせた教会の罪責、敗戦後の「政治不関与」への揺り戻し、教勢の縮小による「波風を立てたくない」心理、そしてSNS時代の炎上への恐怖。だが、より深刻なのは、その沈黙が一貫していないことだ。日常的な政治的発言には「牧師が政治を語るな」と眉をひそめる一方で、世界平和統一家庭連合の解散命令に反対する運動には、「信教の自由」や「宗教迫害」の名のもとに、キリスト教の一部が積極的に連帯している。反共宣伝には躊躇なく加わりながら、貧困対策や人権保障の議論には口をつぐむ。ヘイトスピーチやジェンダー差別、LGBTQ+への攻撃と共鳴しながら、教会内部の性暴力や宗教二世の痛みには鈍感なまま。そこにあるのは「非政治」ではなく、選択的な政治性だ。福音に忠実であろうとしているのではなく、右派ナショナリズムと利害を共有する部分だけに敏感な態度であり、信頼に値しない。

 ボンヘッファーが示したのは、別の道である。彼は、政治から逃げる敬虔さではなく、政治に責任を負う信仰を選び取った。「安価な恵み」を拒み、教会が被害者の側に立たず加害構造に沈黙するとき、それを罪と呼ぶ勇気を持った。日本の教会が学ぶべきは、「ヒトラーを殺そうとした」という刺激的な見出しではない。国家権力の暴走、少数者への憎悪、戦争準備に教会がどう向き合うかという、地味だが避けられない問いである。高市政権の防衛費拡大と軍備偏重に対し、「安全保障は難しい問題だから」と沈黙するのか。参政党やネット右翼が反共・反リベラルを叫び、陰謀論と差別を煽るとき、「どちらの側にも理がある」と傍観するのか。あるいは、生活困窮者、外国人労働者、性的マイノリティー、宗教被害者の隣に立ち、制度と世論に向かって、具体的な言葉で異議を唱えるのか。

 教会が取るべき道は明らかだ。牧師と信徒は、政党の下請けになるのではなく、福音に根ざした言葉で公共空間に立つべきである。第一に、どのイデオロギーにも属さない形で、民族差別、ジェンダー差別、宗教差別、LGBTQ+への憎悪、移民・難民への排除に対し、明確に「否」と言い続けること。第二に、防衛費の肥大化や社会保障の切り捨て、気候危機への無策、刑事司法や入管行政の人権侵害など、具体的な政策が人のいのちと尊厳を損なうとき、沈黙せず事実に基づいて発言すること。第三に、礼拝と教会学校、小さな集会の場を、信徒が政策や法律について学び、祈りつつ議論し、市民として行動するための場に変えていくこと。SNSを含む公共空間で、聖職者が自らの名で発言することをためらってはならない。批判を恐れて沈黙する教会に、ボンヘッファーの名を語る資格はない。

 この映画を、一時の教養として眺めて終わらせるか、それとも自分たちの怠慢と共犯関係を照らす鏡として受け止めるか。決めるのは、観客席に座る私たちである。日本の教会、聖職者、信徒は、「福音だけを語る」という便利な盾の背後に隠れることをやめよ。戦争準備と差別の潮に対し、信仰と良心の名において、具体的に語り、行動せよ。その沈黙を破る責任は、今日、この映画館をあとにするあなた自身にある。

「実りのない闇の業に加わることなく、むしろそれを明るみに出しなさい。」
(エフェソの信徒への手紙5章11節)

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