聖霊降臨後第22主日 説教草稿「戦わずして命を守る道」

「戦わずして命を守る道」
【教会暦】
聖霊降臨後第22主日 2025年11月9日
【聖書日課】
旧約 ヨブ記19:23-27
使徒書 テサロニケの信徒への手紙二2:13-3:5
福音書 ルカによる福音書20:27,34-38
【本 文】
人が極限の苦難にあってもなお、神の正義を信じ抜くとき、その信仰は歴史を超えて輝く。ヨブは全てを失い、友に嘲られ、神の沈黙の中で叫びました。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられる。」(ヨブ19:25) ― この言葉は、絶望の只中で放たれた希望の宣言です。外の世界が滅びても、魂のうちに灯る信頼を失わなかった者の声です。いま私たちの社会もまた、この「贖う方」の生を問い直すときに立たされています。
福音書でイエスは、復活を否定するサドカイ派に対し、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と語られました。信仰とは、死の力が支配する世界の中で、なお生命の側に立つことです。戦争の予兆が高まる時代にあって、教会が問われるのはまさにこの一点 ― わたしたちは「生きている者の神」に従っているかどうかです。
台湾海峡の緊張が高まるなか、日本は再び岐路に立っています。政府内には「有事対応」の名のもとに、軍事的関与を前提とした議論が進められています。しかし、国家の第一義は国民の生命を守ることです。他国の紛争に軍事的に関われば、国力は瞬く間に消耗し、経済と社会の基盤は崩れます。戦争は一度始まれば、誰も制御できません。ヨブが耐えたのは神の沈黙でしたが、私たちが直面しているのは人間の愚かさの連鎖です。
「戦争政権の道連れは断固拒む」 ― この言葉は信仰者の倫理に通じます。イエスは剣を取る者に向かって、「剣を取る者は剣で滅びる」と言われました。私たちは怒りや義憤の名のもとに、いのちを奪う側に立つことはできません。武力による抑止が平和を守るという幻想ほど、時代を誤らせてきたものはありません。真の平和は、恐怖ではなく信頼から生まれるのです。外交と人道を磨くこと ― それが国家の成熟であり、信仰者の知恵です。
国際法と憲法の制約の中で、日本は自らの立場を明確にすべきです。武力の発動を永久に放棄した国として、戦場の外に立ち、対話と停戦の仲介を主導する責務があります。医療・物資支援、人道回廊の確保、難民受け入れの体制整備 ― これらは決して政治的中立ではなく、積極的な平和の実践です。むしろ、そこにこそ国際的信頼が築かれる。力による支配ではなく、命を守る技によって尊敬される国。それが神の国のしるしを現代に映す道なのです。
テサロニケの信徒への手紙でパウロは言います。「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とに向かわせてくださるように。」信仰は、恐怖の時代に忍耐をもって愛を保つ力です。声高に「国の誇り」や「防衛の義務」を語るよりも、傷ついた者を迎え入れる一杯の水こそが、神に喜ばれる奉仕です。教会は、戦争に向かう政治的熱狂を静かに戒めなければなりません。沈黙は中立ではなく、加担になりかねない。だからこそ、祈りと良心の声を上げ続けるのです。
戦争を拒むことは臆病ではありません。それは人間の理性と信仰の到達点です。外交を尽くし、人道支援を惜しまず、難民を受け入れ、敵と呼ばれる者のいのちにも目を向ける ― これが「生きている者の神」に仕える道です。イエスがザアカイを招いたように、神は国境や立場を越えて、あらゆる人のうちに生を見出されます。
我々の使命は、戦争を防ぐことだけではありません。戦争に備える社会から、平和を築く社会へと転換することです。教育も経済も、軍備の増強ではなく、いのちを支える知恵に資源を注ぐべきです。政治指導者は、国民を戦火の道連れにする誘惑を断ち切らねばならない。教会は、避難民を迎え、医療と住まいを整え、子どもの学びと家庭を守ることで、神の国のしるしをこの地に表すのです。
ヨブの叫びを思い出しましょう。「わたしを贖う方は生きておられる。」たとえ世界が戦争の闇に傾こうとも、神のいのちは死なない。だから私たちは、希望を手放さず、戦わずして命を守る道を選び続けるのです。それが、主の民としての誇りであり、信仰の勇気なのです。
