聖霊降臨後第18主日 説教草稿「感謝が人を立たせる――信仰の真実と虚偽」

【教会暦】
聖霊降臨後第18主日 2025年10月12日

【聖書日課】
旧約 ルツ記 1:8-19
使徒書 テモテへの手紙二 2:8-15
福音書 ルカによる福音書 17:11-19

【本 文】

感謝が人を立たせる――信仰の真実と虚偽

主イエスがサマリアとガリラヤの境を通られたとき、10人の重い皮膚病を患う人々が遠くから声を上げ、「イエスさま、どうか私たちを憐れんでください」と叫んだと、ルカ福音書は伝える。主は彼らに「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と告げられた。その言葉に従って行く途中、彼らは癒された。だが、そのうちたった1人、しかもユダヤ人から蔑まれていたサマリア人だけが、神を賛美しながら戻ってきて、主の足もとにひれ伏し感謝した。主は言われた――「清くされたのは10人ではなかったか。9人はどこにいるのか」。

この短い物語には、信仰の真実と虚偽が鮮やかに対照されている。癒しを受けた10人のうち9人は、恩寵を手にしながら、それを賜った方を忘れた。信仰は彼らにとって手段であり、感謝の心を伴わぬ祈りは、やがて信仰の形骸化に至る。対して、サマリア人は癒しを「自分の功績」とはせず、神の憐れみに全身で応答した。主は彼に言われた、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

この「立ち上がる」という言葉は、復活を意味するギリシア語「アナステーシス」と同根である。すなわち、感謝の信仰こそ人を立たせ、生き返らせる。信仰とは、自己の誇りを立てることではなく、神の愛の前に立たされることなのだ。

旧約のルツ記は、同じように「忠実に生きる信仰」を描く。ルツは異邦の女であったが、姑ナオミに従ってベツレヘムへ帰り、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と告げた。異郷に生きる孤独と貧困の中で、彼女は信仰に生き、やがてダビデ王の系譜に連なる。神は血統や地位ではなく、心の真実を見られる。

使徒パウロもまた、テモテに「福音のために苦しみにあずかれ」と語った。パウロの言葉には、教会の奉仕がいかに自己犠牲と謙遜の上にあるべきかという確信がある。彼は言う、「兵士は生活のことに煩わされず、主に喜ばれることを願う」。信仰職制にある者とは、自己の名誉や称号を求めるのではなく、ただ福音のために仕える僕(しもべ)でなければならない。

しかし今日、信仰という神聖な名のもとに、社会的承認や権威欲を満たそうとする動きがある。聖職の名を自称し、按手の正統な系譜を示さずに「監督」や「神父」を名乗ることは、教会の秩序を乱し、信徒に誤解と混乱を与えるものである。それは、主イエスが最も厳しく退けた「外見の義」の道であり、信仰を人間的欲望の手段へと堕落させる。

真の聖職とは、神に召され、共同体に遣わされ、按手を通して教会の祈りと歴史に結ばれるものだ。もしその過程を軽んじ、個人の感情や都合によって聖なる務めを装うなら、それは「感謝を忘れた9人」と同じである。恩寵を受けながら、それを与えた神を忘れる者は、たとえ宗教的な衣をまとっても、内に信仰の光は宿らない。

ルカ福音書の物語で、サマリア人が示したのは「信仰の外形」ではなく「応答の真実」であった。彼は祭司の承認を受ける前に、感謝のために戻った。つまり彼の信仰は制度の外でありながら、神の心に最も近かった。だからこそ主は彼を立たせた。神の国は、資格や称号によってではなく、感謝と愛によって開かれる。

教会もまた、このサマリア人の姿に学ばねばならない。私たちが祈り、奉仕し、語るすべての業は、「主よ、感謝します」という一言に帰着する。感謝を忘れたとき、信仰は権力に変わり、教会は支配の構造に堕する。しかし感謝を生きるとき、教会は再び「福音の体」として息づく。

兄弟姉妹よ。信仰は権威の階段を登る道ではなく、感謝のうちに主の前にひれ伏す道である。主が私たち一人ひとりを呼び、「立ち上がって行きなさい」と告げてくださるのは、地位でも名誉でもなく、ただ心からの応答を喜ばれるからである。

今日の礼拝を終え、再び世に遣わされる私たちが、その感謝をもって生きよう。福音の名によって、自らを飾るのではなく、ただ主の愛を映す器として。サマリア人のように、感謝のために戻り、再び立ち上がる者として歩もう。

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