教会時論 2025年10月12日「公明が連立政権離脱 信義の崩壊を超えて」

 四半世紀にわたる「自公連立」が終わった。2025年10月10日、公明党の斉藤鉄夫代表は、自民党の高市早苗総裁との三度目の会談で連立離脱を通告した。国会内の廊下を無言で歩く斉藤の姿は、単なる政党戦略の決裂ではない。長年の「もたれ合い」によって歪んだ政治倫理への決別の象徴である。
 発端は「政治とカネ」である。派閥裏金問題で信頼を失った自民が、企業・団体献金の継続を正当化し、旧安倍派幹部を要職に据えた。公明はこれを「倫理的破綻」とみなし、関係を断った。裏金が制度の内部で再生産される限り、国民の政治不信は癒えない。

 連立は1999年、国会過半数を確保するために始まった。理念よりも数の論理が優先され、政策協議は形骸化した。公明は「平和の党」として歯止め役を自任してきたが、第2次安倍政権で集団的自衛権の行使容認に屈し、存在意義を失った。創価学会の組織票を背景にした選挙協力は、双方にとって打算の産物であり、「信仰を政治の道具にする」という倒錯を生んだ。信仰と権力の癒着は、いずれ社会の道徳的基盤を掘り崩す。

 反論もある。保守と中道の連携こそが政治安定を生み、社会を混乱から守ったという主張だ。しかし、安定が正義を覆い隠すとき、それは平和ではなく停滞である。連立が守ってきたのは国民ではなく、既得権の分配構造だった。高市政権が靖国参拝を公言し、外国人規制を強める中で、公明は「信義の限界」を見た。政権の椅子にとどまるより、信頼を失う方がはるかに痛い。離脱は遅すぎたが、良心に立ち返る一歩ではある。

 教会の視座から言えば、政治における「信頼」は契約の中心である。契約を結ぶとは、互いに真実を語るという誓いに立つことだ。信頼を裏切る政治は、祈りを裏切ることでもある。裏金も忖度も、結局は「真実を恐れる心」から生まれる。今こそ、すべての政党は党利党略を離れ、公開の場で政治資金と倫理の原点を語り直さねばならない。市民は「誰が得をするか」でなく、「誰が正しいか」を問う責任を負う。

 必要なのは、和解と再生の政治である。第一に、企業献金を政党本部に限定し、透明性を国会に報告する制度を整えること。第二に、宗教団体による政治支援の在り方を再検証し、信仰の自由を権力の道具としない仕組みを築くこと。第三に、政権交代の可能性を常に確保し、権力が腐敗を自浄できる構造を作ることである。これらは対立ではなく、信頼を取り戻すための共同作業である。
 信仰は政治を支配しない。だが、良心の不在を放置することもまた罪である。私たちは祈りの中で問われている。真実を恐れず、誠実に語る政治を支えることができるか、と。

 年内に各党は、政治資金と倫理に関する公開協議を始めるべきである。市民社会もまた、沈黙を破り、誠実な政治を選び取る覚悟を持たねばならない。主の前に立つ者として、私たちもまた責任を負っている。

 
「偽りを憎み、正義を愛せ。門で公正を打ち立てよ。」
(アモス書5章15節)

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