聖霊降臨後第17主日 説教草稿 「信仰が生み出す応答の力」

【教会暦】
聖霊降臨後第17主日(特定22) 2025年10月5日
【聖書日課】
- 旧約 ハバクク書 1:1-6,12-13,2:1-4
- 使徒書 テモテへの手紙二 1:6-14
- 福音書 ルカによる福音書 17:5-10
【本 文】
信仰が生み出す応答の力
「わたしたちの信仰を増してください」と弟子たちは主イエスに願いました。小さな群れであった彼らは、日々の困難や人々からの拒絶の中で、自らの弱さを知っていたのでしょう。信仰は足りない、もっと大きな力を持たなければ神の働きに応えることができないのではないか。その切実な思いが、弟子たちの口からあふれ出たのです。私たちもまた、同じように思うことがあります。時代の不安、社会の分断、個人の孤独の中で、自分の信仰は小さく頼りないのではないかと感じることがあるのです。
しかしイエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と語られました。からし種は当時もっとも小さい種の一つとされました。その小さなものが大木となるように、信仰は量や大きさではなく、方向と関係において力を発揮するのだと主は示されます。神への信頼がほんの少しでも心に根を下ろせば、その命の種は思いもよらぬ働きを生み出す。つまり信仰は人間の努力による蓄積ではなく、神の愛に根ざして成長する関係の実りなのです。
イエスはさらに、主人に仕える僕のたとえを語られました。畑で働き、羊を世話した僕が帰ってきても、主人は「ご苦労さま、ゆっくり休みなさい」とは言わず、「夕食の支度をせよ」と命じます。僕にとって労苦と奉仕は当然の務めであり、それを誇りとすることはできない。イエスはこのたとえによって、信仰の実践とは見返りを求める計算ではなく、主の恵みに生かされていることを知る応答であると教えられたのです。
この言葉は、今日を生きる私たちに鋭い問いを投げかけます。私たちはしばしば、自分の行いの成果や働きの評価を求め、それを信仰の証と勘違いしてしまいます。しかし福音は、主の民に「あなたはただ恵みによって生きている」と告げます。奉仕も献身も、自らの誇りではなく、神の愛に応える自然な姿であるはずです。信仰は「大きくするもの」ではなく、「根ざすもの」。その根がしっかりと神に結びついていれば、からし種のように小さくとも世界を動かす力を持つのです。
現代社会を見渡すと、不信と恐れが人々を支配しています。SNSには分断をあおる言葉があふれ、外国人や弱者を排除する声が拡散されます。私たちは容易に「無力だ」と思わされ、小さな声は届かないと感じてしまいます。しかし主は告げられます。「からし種一粒ほどの信仰があれば」。それは、差別や偏見のただ中で、声を失った人々に寄り添う勇気であり、権力に抗して真実を語る決意であり、傷ついた隣人に手を差し伸べる愛の行為です。たとえ小さくとも、その信仰の応答は決して無駄にはならず、やがて公同の教会の交わりを通じて大きな実を結ぶのです。
そしてまた、この福音は私たち自身のあり方を静かに問い直します。奉仕を行うとき、私たちはしばしば「自分はこれだけしたのだから感謝されるはずだ」と期待してしまいます。しかしイエスは、僕のたとえを通して、感謝や報酬を超えた応答の姿を示されます。信仰に生きるとは、自分を正当化することではなく、ただ神の愛に応えること。赦された者が赦し、愛された者が愛する。その連鎖の中にこそ、神の国のしるしが現れるのです。
私たちの信仰は決して完全ではありません。時に揺らぎ、時に弱さに打ちのめされることもあるでしょう。しかしその小さな信仰を、神は見捨てられません。むしろ小ささを通して、神の力が働くのです。弟子たちが願ったように「信仰を増してください」と祈るとき、主は量を与えるのではなく、関係の深まりを与えてくださいます。そのとき私たちは、自らの務めを「当然のこと」として生きる謙遜を学び、主に仕える自由を得るのです。
今、私たちの世界は大きな変化と不安のただ中にあります。戦争と暴力、環境の危機、経済的不平等、そして孤立。こうした現実に対し、私たちができることはあまりにも小さいかもしれません。しかし主は告げられます。「からし種一粒ほどの信仰があれば」。私たちはその言葉を胸に刻み、日常の小さな応答を大切にしたいのです。隣人に耳を傾け、和解の道を探し、主の食卓に共に与かるとき、神の国はすでにここに始まっているのです。
愛する兄弟姉妹よ。私たちは「無用の僕です」と告白しつつも、その小さな信仰に生きるとき、神の愛は世界を変える力となります。どうかこの礼拝において、聖餐を受ける私たちが、からし種の信仰を携えて世に遣わされ、主の民としての応答を新たにできますように。