聖霊降臨後 第十六主日 説教草稿「裂け目を越える希望 ― 富と記憶と召命」

【教会暦】
聖霊降臨後第十六主日 二〇二五年九月二十八日
【聖書箇所】
旧約日課 :アモス書 六章一〜七節
使徒書 :テモテへの手紙一 六章一一〜一九節
福音書 :ルカによる福音書 十六章一九〜三一節
【本文】
はじめに 裂け目を見つめる季節に
九月の終わり、日本列島はようやく夏の猛暑を過ぎ、朝夕には涼しい風が吹き始めている。台風の季節もたけなわで、各地に不安定な空模様をもたらしつつ、秋の訪れを告げている。稲穂は黄金に色づき、収穫の時を迎える一方で、物価の高騰や世界情勢の不安は、生活の隅々にまで影を落としている。戦争の報道が連日流れ、難民の姿が映し出され、同じ地球に生きながら大きな裂け目が横たわっていることを私たちは思い知らされる。
聖霊降臨後第十六主日を迎える今日、与えられた聖書箇所はいずれも「安逸と富の危うさ」「無関心が生む裂け目」を鋭く照らし出す。アモスは象牙の寝台に横たわる支配者に災いを告げ、テモテへの手紙は「信仰の戦いを立派に戦え」と励ます。そしてルカ福音書は、金持ちとラザロの譬えを通して、見えない裂け目がいかにして永遠を決定づけるかを示している。これらの聖句は、単なる古代の物語や忠告ではなく、現代を生きる私たちに向けられた緊急の問いである。
日常の安逸に埋没すれば、門前のラザロの姿は見えなくなる。預言者の声に耳を閉ざせば、未来への責任は失われる。だが同時に、信仰の戦いを生き、分かち合いと記憶を共同体として担うとき、礼拝は裂け目を越える神の国のしるしとなり、そこに希望の召命が与えられる。秋の風が季節の移ろいを告げるこの時に、私たちはあらためて、裂け目を見つめ、それを埋める証し人としての召命に応えるよう招かれている。
Ⅰ節 見えない裂け目 ― 富と苦しみを隔てるもの
預言者アモスは、北イスラエル王国の繁栄のただ中で、サマリアやシオンの指導者たちに向けて鋭い言葉を放った。「安逸をむさぼる者」「宴を楽しむ者」に向けられたその言葉は、単なる道徳的非難ではない。彼らが神の裁きに無関心であること、その結果、国の崩壊が迫っているにもかかわらず気づこうとしないことを告発している。金と権力を持つ者が社会の苦しみを直視しないとき、共同体全体の土台は音もなく崩れていく。アモスの声は、時を超えて現代をも貫いている。
ルカによる福音書に記された「金持ちとラザロ」の譬えは、そのアモスの叫びを新たに響かせる物語である。絢爛な衣をまとい、日々宴を開いていた金持ちの家の門前には、傷だらけの体を犬に舐められながら飢えているラザロがいた。二人が死んだのちに、ラザロはアブラハムの懐に迎えられ、金持ちは炎の中で苦しむ。二人を隔てていた門が、死後には「大きな裂け目」となり、誰も越えることができない隔たりとなる。この譬えは、現実の社会においても、見えない「裂け目」が存在することを告げている。それは経済的格差であり、社会的無関心であり、人と人との心を隔てる冷たい壁である。
この裂け目は、決して死後に突然現れるものではない。すでに地上の現実において作られている。ラザロの苦しみを見ながらも心を閉ざした金持ちの態度は、他者の痛みを無視する社会の縮図にほかならない。現代においても、豪奢な高層マンションとホームレスの段ボール小屋が同じ街に並ぶ光景、戦争や紛争の影響で飢餓にあえぐ人々の叫びと、一方で過剰な食料廃棄が続く現実がある。そこには目に見えぬが確実に存在する裂け目が広がっている。
使徒パウロの名によるテモテへの手紙は、若い伝道者に向けて「信仰の戦いを立派に戦いなさい」と呼びかける(Ⅰテモテ6:12)。それは富や権力のためではなく、永遠の命を得るための戦いである。パウロはさらに「富む者に命じなさい。高ぶらず、不確かな富に望みを置かず、神に望みを置くように」と語る(Ⅰテモテ6:17)。ここに、金持ちの譬えと響き合う言葉がある。富そのものが罪ではない。だが、富により心が曇らされ、他者の現実を見なくなるとき、その人は裂け目のこちら側にとどまることになる。
現代社会における経済格差は拡大を続けている。世界の富の半分以上をわずかな人々が握るとされる一方で、飢えや戦争、災害によって命を失う人々がいる。この夏、日本でも物価高騰が続き、食卓に影響を受ける家庭が少なくない。中東では紛争が長期化し、子どもたちが十分な医療や教育を受けられない。こうした現実は、聖書の言葉を単なる過去の物語ではなく、私たちに突きつけられた問いとして響かせる。裂け目を広げる側に立つのか、それともそれを少しでも埋める側に立つのか。
アモスの時代、人々は「災いは遠い」と思い込み、日々の宴に興じていた。しかし国はやがてアッシリアの攻撃により滅亡する。神の裁きとは、天から雷のように突然下るだけではない。人間の無関心と不正義によって、自らを崩壊へと追い込むのである。金持ちの譬えにおいても、裂け目は神が恣意的に設けたものではない。人間の生き方が作り上げたものにすぎない。だからこそ、テモテへの手紙は「善を行い、よい行いに富み、惜しみなく施し、分かち合うように」と命じる(Ⅰテモテ6:18)。それは、裂け目を埋めるための実践である。
譬えの中で、金持ちは地獄の苦しみの中からアブラハムに懇願する。「ラザロをよこして水の先で舌を冷やさせてくれ」。だが答えは「大きな裂け目があるから、それを越えることはできない」であった。この言葉は、悔い改めの時が今であることを告げている。生きている間にしかできない選びがある。死後には遅い。アモスの叫びも、テモテへの手紙の勧めも、すべては「今」という時の緊急性を語る。富と安逸に心を奪われてはならない。他者の苦しみに向き合い、信仰の戦いを日々の選択として生きること。それが神の国に向かう歩みである。
「見えない裂け目」を前にして、人は二つの態度を選ぶことができる。無視して自らの安逸に浸り続けるか。それとも裂け目を越えようと手を差し伸べるか。聖書は後者を選ぶように私たちを招いている。なぜなら、神ご自身が人間の裂け目を越えて来られたからである。キリストは富む者ではなく、貧しい者としてこの世に来られた。人と神を隔てる罪の裂け目を十字架によって担い、その身をもって架け橋となられた。だから、私たちが裂け目を越えることは決して不可能ではない。
Ⅱ節 信仰の戦い ― 富に惑わされぬ歩み
パウロが若き伝道者テモテに向かって「信仰の戦いを立派に戦いなさい」と語った言葉は、単なる精神論ではない。信仰とは抽象的な理念の維持ではなく、具体的な生の中での選びと実践を伴う営みである。その対象は、しばしば富や権力の誘惑として迫ってくる。パウロは「富を愛することはあらゆる悪の根」(Ⅰテモテ6:10)とまで断言した。富が人の心を縛り、他者を顧みる視野を奪う危険を、彼は身近に見てきたのであろう。信仰の戦いとは、富に魂を売らず、永遠の命に目を向け続ける闘争にほかならない。
アモスは、サマリアの支配者階級が「象牙の寝台に横たわり、酒を大杯で飲み、最上の油を身に塗る」と描写した(アモス6:4-6)。その姿は、快楽の追求に生き、隣人の苦しみに無関心な人間像である。これは単なる古代の逸話ではない。今日もなお、世界経済の頂点に立つごく少数の人々が、過剰な富を享受し、無数の人々が飢えや病に苦しむ現実がある。豪奢なパーティーと難民キャンプの貧困。株式市場の上昇と、生活費の高騰に喘ぐ家庭。その落差の中で、信仰者はどちらの現実を見つめ、どちらに連帯するかを問われている。
ルカ福音書の譬えに登場する金持ちは、ラザロを自分の門前で見ながら、なお宴に明け暮れていた。彼にとってラザロの存在は「見えていながら見ない」現実であった。無関心は残酷である。見えないふりをすることは、積極的に切り捨てることに等しい。テモテへの手紙が「高ぶらず、不確かな富に望みを置くな」と勧めるのは、この残酷さを断ち切るためである。信仰の戦いとは、目をそらさずに他者を見つめることである。
現代の社会でも、「見えないラザロたち」は無数に存在する。経済統計の数字には現れない、非正規労働に疲弊する若者たち。物価高騰の中で給食費の支払いに悩む家庭。国境を越えざるを得なかった難民たち。あるいは自然災害で住まいを失い、支援の届かぬ被災者たち。こうした人々の姿を直視することは、信仰の戦いの第一歩である。祈りや礼拝は、その現実を無視する逃避ではなく、むしろ向き合うための力を与える場であるべきだ。
信仰の戦いとは、また忍耐の戦いでもある。アモスの時代、預言者の声はしばしば嘲笑され、耳を貸されなかった。真実を語る者は孤立しやすい。現代でも、不正義を告発する声は時に「空気を読まない」と批判され、沈黙が賢明とされる。しかし、信仰に立つ者はあえて語り続ける。ラザロの傷口を犬が舐める描写のような、痛ましい現実を直視し続けることは容易ではない。それでも「義を追い求め、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めよ」(Ⅰテモテ6:11)という勧めが、信仰者を支える。
さらに、信仰の戦いは「永遠の命」を視野に入れている。金持ちとラザロの譬えが示すのは、死後の世界での逆転だけではない。むしろ「今をどう生きるか」が問われている。富の幻想に従う生き方は、終わりなき裂け目に自らを閉じ込める。だが、ラザロのように神に望みを託す者は、どれほど地上で苦しんでも、最後には神の懐に抱かれる。信仰の戦いとは、単なる倫理的努力ではなく、神への信頼を選び続けることである。
日本社会の現状を顧みるとき、信仰の戦いはますます切実な響きを持つ。経済格差、少子高齢化、国際的緊張。いずれも私たちを不安と利己心へと駆り立てやすい。だからこそ、信仰に立つ共同体が「分かち合い」「施し」「連帯」を生きる姿を示す必要がある。教会は、単なる宗教施設ではなく、裂け目を埋める証し人であるべきだ。富に惑わされず、弱い者の声を聞き、神の国を指し示す。それが、パウロが語った「信仰の戦い」の今日的な意味であろう。
Ⅲ節 裂け目を越える声 ― 預言者に耳を傾けること
ルカによる福音書の譬えの中で、地獄に苦しむ金持ちは、なおも願いを口にする。「父アブラハムよ、私の家にラザロを遣わしてください。兄弟たちに警告してくだされば、彼らはこの苦しみの場所に来ることを避けられるでしょう」(ルカ16:27-28)。しかしアブラハムは答える。「彼らにはモーセと預言者がある。それに耳を傾けるがよい」。この言葉は、神の言葉がすでに与えられているにもかかわらず、それを無視し続ける人間の姿を鋭く映し出している。奇跡や驚異的な出来事ではなく、すでに語られている預言者の声こそが、真の警告である。
アモスは北イスラエルの繁栄のただ中で「災いだ」と叫んだ。しかし、彼の声は権力者にとって不都合なものだった。経済の安定と軍事的優位に酔う人々にとって、神の裁きの警告は信じがたかったからである。歴史が示すように、アッシリアの侵攻によってイスラエルは滅びた。だが、その時すでに預言者の声は語られていた。つまり「聞こうとしなかった」という事実が、彼らの罪の本質だったのである。金持ちがラザロを門前で見ていながら何もせず、死後になってようやく懇願したように、人間はしばしば「遅すぎる時」にしか気づかない。
「モーセと預言者に耳を傾けよ」というアブラハムの言葉は、単なる古代ユダヤ人への忠告ではない。今日の私たちもまた、数えきれないほどの声に囲まれている。戦争の犠牲となった人々の証言。被災地からの叫び。格差社会の中で生きる人々の声。環境破壊に苦しむ次世代の訴え。これらは現代における「預言者の声」として響いている。しかし耳をふさぎ、見なかったことにする傾向は強い。ニュースを流し見し、スマートフォンの画面をスクロールするうちに、現実の痛みは背景雑音に変わっていく。聞こうとしない姿勢が、裂け目をますます深くしていく。
テモテへの手紙が「あなたは神の人として、義を追い、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追いなさい」と勧めるのは、耳を傾けることの困難を知っているからだ。聞くことは容易ではない。なぜなら、耳に痛い言葉は自己を揺さぶるからである。預言者の言葉は、権力者や安逸をむさぼる者にとって不快である。しかし、その不快さこそが癒しの契機となる。医師の告げる厳しい診断を拒むのではなく受け入れるように、預言者の声を受け止めることが回復への第一歩なのである。
歴史の中で「耳を傾けなかった」例は少なくない。20世紀の戦争の時代、日本社会もまた、警告の声をしばしば封じてきた。戦争に反対する声は「非国民」とされた。異論は弾圧され、結果として国は破滅的な敗戦を迎えた。今日でも、異なる意見に耳をふさぐ傾向は社会の至る所に見られる。SNS上での分断や、耳障りな意見を排除する風潮。そこに「裂け目」が広がっている。聞くことを拒むことは、未来を閉ざすことである。
一方で、聞くことは新たな可能性を生む。譬えの中で、ラザロは何も語らない。だが彼の存在そのものが「声」となっている。弱くされ、痛みに満ちた人の姿が、神の問いかけを運んでいる。教会はこの声に耳を傾ける共同体であるはずだ。礼拝は、ただ聖歌や祈りを唱える時間ではない。そこに集う人々の背後にある現実の声、地域や世界の呻きを神の前に持ち出す行為である。預言者に耳を傾けることとは、今を生きるラザロたちの声に心を開くことに他ならない。
「もし死者の中から誰かがよみがえって彼らのところに行くなら、悔い改めるに違いない」と金持ちは言う。しかしアブラハムは答える。「モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死人の中からよみがえっても聞き入れはしない」(ルカ16:30-31)。この結びは衝撃的である。人は奇跡を求めながら、日常の中にある神の声を無視する。だが、神の言葉はすでに十分に与えられている。問題は「耳を傾けるか否か」である。聞く姿勢そのものが、救いと滅びを分ける分岐点となる。
現代においても、裂け目を越える唯一の道は「聞くこと」である。声なき者の声を聞くこと。歴史の記憶に耳を傾けること。聖書の言葉を今日の現実に照らして受け止めること。それらが結び合うとき、人間の築いた壁は少しずつ崩れ、裂け目を越える道が開かれる。信仰の戦いとは、聞く耳を持ち続ける戦いに他ならない。
Ⅳ節 共同体の責任 ― 分かち合いと記憶の営み
アモスの預言が厳しい響きを持つのは、それが個人の道徳的責任を超えて、共同体全体の在り方を問うからである。アモス書六章は、サマリアとシオンという二つの中心都市を名指しし、そこに安逸をむさぼる人々がいると告げる。預言者の視線は、単に一人の金持ちを批判するのではない。支配層や上層市民が自らの快楽に浸り、社会的弱者の苦しみに目を閉ざすことで、共同体全体が崩壊の道に引き込まれていく構図を描き出している。つまり、責任は「彼ら」のものにとどまらず、「私たち」のものでもある。
ルカ福音書の譬えに登場する金持ちとラザロの関係も、門前にある個人的な悲劇にとどまらない。金持ちが死後に「兄弟たちに警告してほしい」と願ったように、問題は家族、共同体、社会へと波及していく。富を独占し、他者を顧みないあり方は、一つの家族、一つの社会を歪ませる。アモスが指摘したイスラエルの危機と同じように、現代社会の裂け目もまた「共同体的責任」の結果として広がっている。
使徒書であるテモテへの手紙は、信仰共同体に属する者が「惜しみなく施し、分かち合うように」と教えている(Ⅰテモテ6:18)。これは単なる個人的な徳目ではなく、教会共同体の本質を示す言葉である。分かち合いとは、富や財の分配にとどまらず、記憶や歴史を共に担う営みでもある。弱者の痛みを自らのものとして記憶し続けること、それを共同体として忘れないことが、社会を裂け目から守る鍵となる。
近年、日本社会では「忘却の共同体」という言葉が現実味を帯びてきている。戦争の記憶が世代交代とともに薄れ、震災や災害の記憶も時間とともに風化する。だが、記憶の喪失は単なる過去の忘却にとどまらず、未来への責任の放棄につながる。アモスが訴えたのも、民が自らの歴史の教訓に耳を傾けないことだった。記憶を保ち続けることは、預言者に耳を傾ける一つの形であり、共同体の責任そのものなのである。
現代の格差社会を見渡すとき、共同体の責任はより鮮明に問われている。都市の繁華街に立つと、ネオンの光の下で困窮する人々の姿がある。経済的に豊かな国に住む私たちは、遠い国で飢餓や紛争に苦しむ子どもたちをニュースで目にしながら、翌日には忘れてしまう。忘却は習慣となり、習慣は裂け目を深める。ここで教会共同体が果たすべき役割は小さくない。分かち合いと記憶を生きる共同体として、世界に証しを立てる責務がある。
「分かち合い」とは具体的な行為を伴う。食卓を共にすること、時間や労力を捧げること、経済的に支えること。初代教会は「すべてを共有し、必要に応じて分け与えた」と使徒言行録に記される(使徒2:44-45)。この姿は単なる理想ではなく、裂け目を埋める現実的な営みであった。現代の教会がこの姿に倣うなら、社会にあって小さくとも確かな変化をもたらすことができる。分かち合いの一歩は、裂け目の向こうにいる「ラザロ」の存在を自分の隣人として受け止めることから始まる。
さらに「記憶を保つ」ことも共同体の責任である。戦争や災害の記念日を覚え、祈りをささげることは、単なる儀式ではなく、過去の声に耳を傾け続ける行為だ。聖餐の食卓で「わたしを記念してこれを行え」と主が命じられたように、記憶は信仰の中心にある。忘却は裂け目を広げ、記憶は裂け目をつなぐ。教会は記憶の共同体として、歴史の痛みを未来に橋渡ししていく使命を帯びている。
テモテへの手紙が「来るべき時のために良い基礎を自分の上に築く」(Ⅰテモテ6:19)と語るのは、まさにこの記憶と分かち合いの実践を指している。共同体が富と安逸に流されれば、未来は崩れる。だが、分かち合いと記憶の営みを続けるならば、そこに永遠の命の希望が芽生える。信仰の戦いは個人の心の中にとどまらず、共同体の生き方として形をとるのである。
Ⅴ節 礼拝の証し ― 裂け目を越える神の国のしるし
アモスの預言は、しばしば礼拝そのものへの厳しい批判を含んでいる。「わたしはあなたたちの祭りを憎み、退ける。…正義を洪水のように、恵みの業を大河のように流れさせよ」(アモス5:21,24)。形式化した礼拝や儀式が、隣人の苦しみと切り離されるなら、それは神にとって忌まわしいものとなる。預言者が告げるのは、礼拝が裂け目を広げるものであってはならないという根本的な警告である。礼拝はむしろ裂け目を越え、神と人、人と人を結びつける場であるべきだ。
ルカ福音書の譬えに登場する金持ちは、日々の宴を自らの「礼拝」としていたと言える。豪華な食卓は、富と自己満足を礼拝の対象に変えてしまった。しかし、その門前にいたラザロの存在を無視することで、彼の礼拝は神との交わりから切り離された虚しい儀式となった。礼拝が真に神の国のしるしとなるためには、ラザロの存在を受け入れ、裂け目を越える交わりが実現しなければならない。
テモテへの手紙が「善を行い、よい行いに富み、惜しみなく施し、分かち合うように」(Ⅰテモテ6:18)と勧めるのは、礼拝の延長線上にある生の姿である。礼拝は日曜の一時間に閉じ込められるべきものではなく、生活全体を方向づける力となる。共同体が礼拝において神の前に立つとき、そこには分かち合いと連帯の実践が必然的に伴う。礼拝が社会の裂け目を越えるしるしとなるのは、その後の生において現実化されるときである。
現代社会において、礼拝はしばしば「非現実的な安らぎ」と誤解される。だが本来、礼拝は現実からの逃避ではなく、現実に深く関わるための源泉である。アモスが求めた「正義の大河」とは、礼拝の場から流れ出すべきものだ。たとえば、祈りの中で戦争や災害の被災者を覚えることは、単なる象徴的行為ではない。それは、裂け目の向こう側にいる人々を自らの隣人として受け止める信仰の行為である。
礼拝における聖餐は、その最も象徴的な場面である。主イエスは「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしを記念してこれを行え」と命じられた。聖餐は分かち合いの食卓であり、記憶の共同体を形づくる。そこでは富める者と貧しい者が同じパンを受ける。人間の築いた裂け目を越えて、一つの体とされる。この礼拝行為こそ、神の国のしるしである。聖餐の食卓は、金持ちの宴とラザロの飢えの断絶を打ち破る対極の出来事である。
世界の現実に目を向けるとき、礼拝はますます預言的意味を持つ。戦争や分断、経済的不平等が深刻化する時代において、礼拝は「別世界の儀式」ではなく、現実への抵抗の場である。そこでは、人間の力では越えられない裂け目を、神の恵みが越えてくださるという信仰が告げられる。教会が礼拝を守ることは、社会に向けて「神の国は近づいた」という証しを立てることに他ならない。
だからこそ、礼拝に集う共同体は、単なる宗教的集団ではなく、社会の裂け目を埋める使命を担う群れである。祈りは沈黙の慰めではなく、声を上げる預言の行為である。賛美は心の慰安ではなく、希望を宣言する共同体の歌である。説教は教養的講義ではなく、現実に挑む神の言葉である。こうして礼拝は、裂け目を越える神の国のしるしとして、世界に向かって開かれている。
金持ちとラザロの譬えが示す裂け目は、人間には越えられない。しかし神は御子イエス・キリストにおいて、その裂け目を越えられた。十字架と復活は、神と人、人と人の間に横たわる壁を打ち砕いた出来事である。礼拝とは、この越えられた裂け目を記念し、今ここに実現させる行為である。礼拝において、私たちは裂け目の向こう側にいるラザロを兄弟姉妹として迎え入れる。そこにこそ、神の国のしるしが輝く。
Ⅵ節 希望の召命 ― 裂け目を埋める証し人として
アモスが告げた言葉は、厳しい裁きの預言であった。しかしその根底には、神が民に背を向けたのではなく、民が神に背を向けているという現実が横たわっている。神は常に人を招き続ける方である。預言者の叫びは、滅びの宣告であると同時に、悔い改めへの呼びかけでもあった。ラザロと金持ちの譬えも同じである。裂け目があることを示しながら、それを放置せず、今ここで選びを変えるように迫っている。神の裁きの言葉の奥には、なお希望の召命が響いている。
テモテへの手紙において、パウロは「永遠の命を得るために信仰の戦いを戦え」と勧める(Ⅰテモテ6:12)。これは単なる修辞ではない。信仰の戦いは、裂け目を埋めるための召命そのものである。分かち合い、施し、忍耐と柔和を生きることによって、信仰者は社会に裂け目を越える道を示す証し人となる。召命とは、聖職者や特別な奉仕者だけのものではない。すべての信仰者に与えられた神からの呼びかけである。
現代社会は、無数の裂け目に満ちている。格差、分断、戦争、環境破壊。ニュースを見れば、希望よりも絶望を感じやすい。だが、信仰は絶望の中に小さな希望を見出す力である。ラザロの名は「神は助けてくださる」という意味を持つ。彼の名そのものが、裂け目の中に置かれた希望のしるしである。たとえ門前で飢えに苦しむとしても、神はその叫びを聞いておられる。信仰者の召命は、この「神は助けてくださる」という名を現実の世界に証しすることにある。
礼拝で受けた恵みは、日常において裂け目を埋める力に変わる。小さな善行、ささやかな分かち合い、声なき者の声に耳を傾ける姿勢。その一つひとつが、神の国のしるしとなる。社会を一挙に変革する力はなくとも、裂け目を少しずつ埋める営みを続けることが、信仰の戦いであり、召命の応答である。テモテへの手紙が「来るべき時のために良い基礎を築くように」と語るのは、こうした日々の実践を積み重ねることの意味を示している。
アモスは象牙の寝台に眠る人々を非難したが、同時に「正義を洪水のように」と叫んだ。その叫びは今もなお続いている。正義を求める声に応えることは、預言者の声に耳を傾けることであり、召命の一部である。ルカ福音書の譬えにおいて、アブラハムが「モーセと預言者に聞け」と語ったのは、召命が奇跡的な出来事ではなく、日々の聞き取りと応答の中にあることを示す。召命はすでに与えられており、問題はそれにどう応えるかである。
社会の裂け目に直面するとき、人はしばしば「自分一人の力では何も変えられない」と感じる。しかし聖書は、その小さな歩みが神の国の前触れとなることを告げている。主イエスはパン五つと魚二匹を用いて五千人を養われた。裂け目を越える奇跡は、人間の力の総和ではなく、神の恵みへの委ねによって起こる。召命に応えるとは、自分の小ささを嘆くのではなく、それを神の手に委ねることである。
召命はまた、希望を語ることでもある。絶望的な現実の中で、なお神の国の希望を告げる声。それは時に嘲笑され、無力に見える。しかし、ラザロの名がそうであったように、希望は神から与えられる力である。信仰者は、裂け目に立ち、そこに希望を植える証し人として遣わされている。
結語 裂け目を越える希望の光
聖霊降臨後第十六主日の聖書日課に響くのは、いずれも「裂け目」という厳しい現実であった。アモスは安逸をむさぼる人々に災いを告げ、ルカ福音書は金持ちとラザロの譬えを通して、死後には越えられぬ大きな隔たりが存在することを示した。そしてテモテへの手紙は、その裂け目に抗う生き方として「信仰の戦い」を勧め、「分かち合い」「惜しみなく施す」共同体の姿を描いた。これらの言葉は、私たちの時代にも鋭く突き刺さる。格差、分断、戦争、環境破壊。そこにある裂け目は決して小さくない。
しかし聖書は、その裂け目をただ絶望の象徴として語るのではない。むしろ、そこにこそ神の呼びかけと希望が響いている。ラザロという名が「神は助けてくださる」という意味を持つように、苦しみのただ中で神は人を見捨てられない。裂け目の深さは、神の憐れみの深さを測るものではない。むしろ、神の愛がそれを越えて働く場である。
礼拝において私たちは、裂け目を越えてこられたキリストに出会う。十字架と復活の出来事は、人と神、人と人を隔てる壁を打ち砕いた。聖餐の食卓は、その出来事を繰り返し思い起こさせる。そこにおいて、金持ちとラザロを隔てた断絶は、神の国のしるしとして克服される。富める者と貧しい者、強い者と弱い者が同じパンを受ける姿は、この世界にあってなお、裂け目を埋める確かな証しである。
結局のところ、信仰とは「どちらの側に立つのか」という選びの積み重ねである。裂け目を広げる側にとどまるのか。それとも、わずかでも裂け目を埋める側に立つのか。預言者に耳を傾け、他者の声を聞き、分かち合いを実践することは、地道で目立たぬ歩みかもしれない。しかしそこにこそ、神の国の希望が芽生える。
九月の空に広がる秋の光は、夏の名残と冬の予感を同時に含んでいる。その光の中で、私たちは「今」という時を与えられている。金持ちの譬えが語るように、悔い改めの時は未来に先延ばしできない。アモスの叫びがそうであったように、神の言葉は今日、私たちに届いている。信仰の戦いを選び、礼拝を通して裂け目を越える群れとして生きるとき、希望の光は現実の闇を照らす。
裂け目の存在を直視しつつも、その先に差し込む希望を見失わないこと。これこそが聖書の語る信仰であり、召命である。秋の風が深まるこの季節、私たちが裂け目を埋める証し人として遣わされ、希望の光をともに担う者とされるよう祈りつつ、本説教を閉じたい。響いている。その声に応えることが、福音に生きる群れの姿である。