聖霊降臨後 第十四主日 説教草稿「憐れみを記憶し、希望を生きる ― 偶像を越えて喜びの共同体へ」

【教会暦】
聖霊降臨後 第十四主日(特定十九) 二〇二五年九月十四日

【聖書箇所】
旧約日課 :出エジプト記 三十二章一節、七〜十四節
使徒書  :テモテへの手紙一 一章十二〜十七節
福音書  :ルカによる福音書 十五章一〜十節

【本文】

はじめに 憐れみの記憶をたぐり寄せて

 九月半ばの東京の空気には、夏の熱気と秋の涼しさが交錯している。台風の余波で湿った風が吹き抜け、街路樹の葉の端には早くも色づきの気配が忍び寄る。季節は確かに移ろい、人々の生活もまた変化のただ中にある。政治の混乱や経済の不安定さが連日報じられるこの時期、社会全体がどこか落ち着かず、将来への見通しを描きにくい。こうした不安の空気は、荒れ野で金の子牛を造ったイスラエルの民の心境を思い起こさせる。見えない未来に耐えきれず、目に見える偶像に頼ろうとする人間の姿は、時代を超えて私たちの中にも潜んでいる。

 聖霊降臨後第十四主日に与えられた聖書の言葉は、この不安の時代を生きる私たちに深く語りかけている。旧約は、人間の忘却と偶像崇拝の現実を描きながらも、モーセの執り成しによって憐れみへと転じる神の思いを告げる。使徒書では、かつて教会を迫害したパウロが「罪人のかしら」としてなお憐れみを受け、新しい使命を与えられたと証言する。そして福音書は、失われた羊と銀貨を探し出す神の徹底した愛と、その回復を喜ぶ天の声を伝える。

 三つの聖書の声が響き合うとき、浮かび上がるのは「憐れみの記憶」である。忘却と偶像化に抗し、罪を直視し、悔い改めを希望とし、失われた者を迎え入れる。そのすべてが神の憐れみに根ざしている。今日の教会は、この憐れみを記憶し、現代社会に生きる人々と分かち合う使命を帯びている。

Ⅰ節 偶像と忘却の谷に立つ人間

一.荒れ野における金の子牛
 出エジプト記三十二章に記される金の子牛の物語は、信仰の根幹を揺るがす人間の弱さを鮮やかに描き出している。モーセがシナイ山に登り、四十日にわたって主の律法を受けていたとき、民は不安と焦燥に駆られた。彼らは目に見える導き手を失ったと感じ、アロンに迫り、「わたしたちを導く神々を造ってください」と求めた(出エジプト記32:1)。見えるもの、手に触れられるものにすがらなければ安心できない。その衝動は古代のイスラエルに限らない。今日の私たちも、見えない神の約束を待ちきれず、すぐに結果や保証を求めて偶像を造り上げる。偶像とは、必ずしも黄金の像や石の像だけを意味しない。それは人間が自分の不安を埋めるために形づくるすべてのもの――金銭、権力、技術、国家、あるいは「成功」という観念に至るまで――である。

 現代日本社会を振り返れば、経済の安定や安全保障が、しばしば絶対的な偶像として掲げられている。人々は「これさえあれば安心」と思い込み、見えない未来に備えて過剰に蓄え、互いに競い合う。だがその先に生まれるのは、信頼の断絶と孤立感にほかならない。イスラエルの民が荒れ野で孤独と恐怖に耐えきれず、金の子牛を造ったように、私たちもまた、見えない神を待つことの難しさに屈してしまう。

二.神の憤りとモーセのとりなし
 主はこの行為を見て、激しい怒りを燃やされた。「わたしは彼らを滅ぼし尽くそう」とまで告げられた(出エジプト記32:10)。だがモーセは民のために必死に執り成す。「どうかあなたの激しい怒りを鎮め、民への災いを思い直してください」と祈り、主は思い直された(同32:12-14)。ここに立ち現れるのは、神の義と憐れみの緊張関係である。罪は決して見過ごされない。しかし、執り成しを通じて神の憐れみはなおも働く。モーセの姿は、後にイエス・キリストにおいて完成される「とりなしの原型」として読むことができる。人間の罪は深い。けれども神の憐れみはそれ以上に深い。

 ここで注目すべきは、モーセが神に向かって大胆に語った点である。「主よ、あなたが大いなる力と御手をもって導き出された民を、なぜ滅ぼされるのですか」と。人間は神に弁明する権利をもたない。しかし信仰者は、愛と憐れみに信頼してなお神に願い得る。その姿勢は、私たちの祈りの模範となる。世界の破局的な出来事――戦争、災害、社会的な分断――を前にするとき、私たちはただ沈黙するのではなく、神に「どうか思い直してください」と祈り続ける責任を負っている。

三.偶像崇拝と現代の社会
 金の子牛は歴史の一頁に閉じ込められてはいない。むしろ、現代に形を変えて繰り返し現れている。経済成長が絶対視され、地球環境が破壊されてもなお「便利さ」や「効率」を優先する社会の姿勢は、新しい偶像礼拝に他ならない。また、政治的リーダーに対して過剰な期待や依存を寄せる風潮もまた、偶像崇拝の一形態である。そこでは主体的に生きる人間の自由が失われ、権威に依存する心が増幅される。

 偶像は人々を一時的に安心させるかもしれない。だが、それはやがて人間を束縛する。イスラエルの民が金の子牛を「祭り」として祝い踊ったとき、一瞬の熱狂はあった。しかしその背後には、真の神との契約を裏切った深刻な空虚が横たわっていた。現代における偶像の祭りも同様である。株価の上昇や新技術の成功を祝うとき、それ自体は人間の努力の結晶として価値がある。だがそれを「絶対的な救い」と錯覚するとき、私たちは信仰を見失う危険に晒される。

四.忘却と記憶の危うさ
 金の子牛の事件は、根底に「忘却」が潜んでいたことを示している。民は出エジプトの出来事をすでに忘れつつあった。エジプトで奴隷状態から救い出されたあの大いなる解放の経験を、荒れ野の苦しさの中で見失っていたのである。忘却は偶像を生み、偶像はさらに忘却を強める。記憶を保ち続けることが、信仰を守るうえでいかに重要かを、この物語は教えている。

 現代日本でも、歴史の記憶が意図的に改ざんされたり、都合よく忘れ去られたりすることがある。戦争の記憶が風化する中で、美化や修正の声が強まる。だがそれは、新しい偶像を作り出すことに通じる。神は歴史の中で人々を解放してこられた。その記憶を絶やさずに受け継ぐことこそ、私たちが偶像を退ける第一歩である。

五.赦しへの予兆
 出エジプト記三十二章は、厳しい裁きと共に赦しの予兆を含んでいる。主はモーセの祈りに応じて思い直された。ここに神の深い憐れみが示される。テモテへの手紙一章でパウロが語る「わたしはその憐れみを受けた」(一テモテ1:16)という証言と重ね合わせれば、旧約から新約にかけて一貫する神の性格が浮かび上がる。人間は偶像に屈する。だが神はその度ごとに赦しの道を開いてこられる。

 この赦しの現実は、やがてイエス・キリストにおいて完成する。罪人を探し出し、肩に担って喜ぶ羊飼い(ルカ15:5)の姿は、モーセのとりなしの延長線上にある。人間の裏切りに対して、神は忘却ではなく記憶をもって応じられる。すなわち、神は契約を覚え、憐れみによって人を呼び戻す。

六.現代に生きる私たちの問い
 私たちも荒れ野を歩んでいる。経済的な不安、社会的な分断、国際関係の緊張。こうした荒れ野のただ中で、偶像を造りたくなる衝動は強い。けれども、本当に必要なのは「待つ」ことである。見えない神の約束に耳を澄まし、忍耐をもって待つ信仰。その忍耐は、記憶と祈りに支えられる。

 だからこそ、私たちは祈り続けなければならない。「主よ、どうか思い直してください」と。社会が新しい偶像を造ろうとするとき、教会は祈りと証しによってそれを拒み、神の憐れみに人々をつなぎ直す使命を負っている。

Ⅱ節 憐れみの源泉としてのキリスト

一.迫害者から証人へ
 テモテへの手紙一章十二節から十七節に記されるパウロの言葉は、彼自身の劇的な回心の証言である。「わたしを強くしてくださったキリスト・イエス、わたしたちの主に感謝します。主はわたしを忠実な者と考えて、この務めに任じてくださいました」(一テモテ1:12)。かつてパウロは、教会を迫害する者であった。しかし、神はその罪をも赦し、キリストに仕える器として立たせられた。彼は自らを「罪人のかしら」と呼びながらも、憐れみを受けた者として生涯を証しにささげた。

 この証言は、偶像に屈したイスラエルの民の物語と響き合う。人間は容易に道を誤る。だが、神は罪のただ中に介入し、思い直し、憐れみを与える。パウロの歩みは、神の憐れみの力がいかに人を根底から変え得るかを示す生き証人である。

二.憐れみの論理
 ここで重要なのは、神の憐れみが「資格」や「功績」に基づかないという点である。パウロは律法に熱心であったが、その熱心は迫害へとねじれていた。人間の正義感は、ときに暴力へと転じる。しかし神の憐れみは、人間の失敗や誤解を超えて働く。「わたしが憐れみを受けたのは、イエス・キリストがわたしのうちに限りない忍耐をまず示してくださるためであった」とパウロは語る(一テモテ1:16)。つまり、彼は自分が赦された事実そのものを通して、神の忍耐の証しとなったのである。

 この論理は、現代社会に深く突き刺さる。罪を犯した者や失敗した者を社会が切り捨てるとき、教会は「憐れみの可能性」を証言し続けなければならない。赦しは無責任な寛容ではない。むしろ、それは人間の誤りを正直に見据え、そのうえで新しい道を開く力である。

三.憐れみと公共性
 私たちは個人の内面的な救いにとどまらず、社会全体において憐れみがどう作用するかを考える必要がある。パウロは自らの回心を個人的な物語として語りながら、同時に「これからキリストを信じる人々への模範」として提示する。赦しは個人の体験に留まらず、共同体に広がる。社会が復讐や報復を当然視するとき、憐れみは不可能な選択に見える。だが福音は、まさにその「不可能」を可能にする神の力である。

 現代の司法や刑罰制度を見れば、「更生」よりも「隔離」が優先されがちである。社会の安全のためにはある程度仕方がないとしても、それだけでは人間の尊厳を回復することはできない。憐れみの眼差しがなければ、罪を犯した者は永遠に「罪人」として固定されてしまう。パウロの証言は、その閉ざされた構造を破る希望を与える。

四.弱さを担う共同体
 教会は「完全な人々の集まり」ではなく、「赦された罪人たちの共同体」である。パウロ自身が「罪人のかしら」と名乗ったことは、この自己理解を深める。私たちが互いに赦し合い、支え合うのは、自分の正しさを誇るためではなく、神の憐れみを共に受けているからである。弱さを告白する共同体こそ、強さを持つ共同体である。

 この視点を失うとき、教会は容易に偶像化される。すなわち「清く正しい人々の集まり」として自分を誇るとき、教会は金の子牛を造ったイスラエルと同じ過ちに陥る。むしろ、教会はいつも「赦しを必要とする者」として自覚し続けることで、神の憐れみを証しし得る。

五.賛美への転換
 テモテへの手紙一章十七節は、賛美の言葉で締めくくられている。「永遠の王、不死にして見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン」。赦しの証言は最終的に賛美へと至る。人間が自分の力で歩んだのではなく、すべてが神の憐れみの働きによることを知るからである。

 賛美は、個人の救いの喜びを超えて、共同体全体を一つにする。偶像の祭りは一時的な熱狂で終わるが、真の神への賛美は永続的な共同体を築く。教会が集まって賛美するとき、そこには赦しを受けた者たちの声が重なり合い、希望が響き合う。

六.現代への適用
 現代社会においても、赦しと憐れみの証言は強く求められている。SNSやメディア空間では、人の失敗が拡散され、容赦ない非難が浴びせられる。赦しの余地がない「キャンセル文化」は、金の子牛に群がる民のような熱狂と危うさを帯びている。その中で、教会が「赦しと憐れみの文化」を証言できるかどうかは大きな課題である。

 赦しは過去を無視することではない。過ちをしっかりと記憶しながら、それでもなお人間に未来を与える。モーセのとりなしが神の思い直しを引き出したように、パウロの回心が神の忍耐を証ししたように、教会は現代において「思い直し」の場であり続けなければならない。

Ⅲ節 失われた者を探す神

一.罪人と食卓を囲むイエス
 ルカによる福音書十五章の冒頭には、イエスが徴税人や罪人たちと食卓を共にしておられた場面が描かれている。「ファリサイ派や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている』とつぶやいた」(ルカ15:2)。当時のユダヤ社会では、食事は単なる栄養摂取ではなく、交わりと連帯の象徴であった。そこに「罪人」が迎え入れられることは、社会秩序を揺るがす行為と見なされた。しかしイエスは、その批判を恐れず、むしろ彼らを探し出し、迎え入れた。

 この行動は、モーセが荒れ野で民の罪を担いながら執り成した姿とも、パウロが自らの罪を告白し赦しを受けた証言とも重なる。神は罪を見過ごさないが、罪人を排除することもなさらない。むしろ「失われた者を探して救う」ことこそ神の意志なのである。

二.失われた羊のたとえ
 イエスは譬えを語られる。「あなたがたのうちのだれが、百匹の羊を持っていて、その一匹を失ったら、九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで探し回らないだろうか」(ルカ15:4)。常識的には、九十九匹を守る方が合理的に思える。だが神の論理は異なる。神は一人の命を無視なさらない。社会が「仕方ない」と切り捨てる存在を、神は探し続けられる。

 ここで注目したいのは「見つけるまで探し回る」という表現である。神の探求は諦めない。人間が「もう無理だ」と匙を投げても、神は探し続ける。見失われた一匹は「問題児」や「不適合者」と呼ばれる人々を象徴している。だが神にとって、その一人こそ喜びの中心にある。

三.見失った銀貨のたとえ
 次に語られるのは銀貨の譬えである。十枚の銀貨のうち一枚を失った女は、家中に灯をともして探し、見つけると友人や隣人を呼んで喜ぶ(ルカ15:8-9)。この譬えは、失われた者を探す行為に忍耐と徹底が必要であることを示す。銀貨は羊よりもさらに「動かない存在」である。つまり、人間の側から神に近づく努力ができないほど失われた者をも、神は探して見いだす。

 ここには神の愛の徹底性が表れている。自ら立ち上がれない者、自分の声を発せない者も、神は見放されない。現代社会において声を奪われた人々――難民、障害を持つ人、孤立する高齢者――を思うとき、この譬えは鋭く響く。彼らを探し、見いだす責任を担うのは、神の民として召された教会である。

四.喜びの中心にあるもの
 両方の譬えに共通しているのは「見つけたときの喜び」である。羊飼いは失われた羊を見つけると「肩に担いで喜ぶ」(ルカ15:5)。銀貨を見つけた女も「友達や近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください』と言う」(15:9)。失われた者が見いだされるとき、天には大きな喜びがあるとイエスは言われた(15:7,10)。

 ここで強調されるのは、神の喜びが「道を誤った者の帰還」にこそ宿るという点である。正しく歩んできた九十九人の存在はもちろん大切である。しかし、神の心はあえて「失われた一人」に傾く。これは不公平に見えるかもしれない。だが、それは神の愛の徹底性であり、あえて人間の計算を超えるものなのである。

五.現代における「失われた者」
 今日の社会で「失われた者」とは誰を指すだろうか。経済的に取り残された人、社会的に孤立した人、移民や少数者として差別される人、あるいは家族の中で理解されない人。それぞれの共同体において、声を上げられない人々がいる。教会はその人々を探し出す使命を帯びている。

 しかし現実には、教会自身が「失われた者」を排除してきた歴史もある。異端とされた人々、性の少数者、社会的弱者。彼らを神の羊として受け入れなかった罪を、私たちは記憶し続けなければならない。忘却は再び偶像を生む。神が探し求めておられる人を、教会が拒むとき、教会は金の子牛を拝む民と変わらなくなる。

六.探し出す共同体としての召命
 ルカ十五章の譬えは、神の愛の姿を描くと同時に、教会への召命でもある。すなわち「失われた者を探す共同体」となることだ。これは単なる慈善活動ではない。神の愛に基づいた使命である。社会の片隅に置かれた一人を探し出し、その人を肩に担い、共同体に迎え入れること。その営みの中で、天の喜びが地上にも響く。

 この召命を担うことは容易ではない。時間も労力も費やす。社会の常識や効率の論理に逆らうことにもなる。しかし、それこそが福音に従う生き方である。教会は「失われた者がいないか」を問い続ける共同体でありたい。

七.結び ― 喜びの神学
 ルカ十五章の譬えに貫かれているのは「喜びの神学」である。神の憐れみは、罪人を赦すことにとどまらず、その人の存在を回復し、共同体に喜びをもたらす。これは単なる個人的な救いではなく、共同体全体を変える力である。失われた者が見いだされるとき、共同体は新しくされる。

 そしてこの喜びは、イエスの十字架と復活において完成する。十字架は失われた人間を担う出来事であり、復活は新しい命への喜びである。羊飼いが羊を肩に担い、女が銀貨を見つけて喜んだように、神はキリストにおいて私たちを担い、見いだし、喜ばれる。

Ⅳ節 記憶を担う共同体としての教会

一.忘却と偶像化の危険
 これまで見てきたように、イスラエルの民は救いの記憶を失ったとき、金の子牛という偶像を造った。忘却はただの記憶喪失ではない。それは信仰の根を掘り崩し、共同体を偶像の支配に委ねる行為である。今日の社会でも、歴史の痛みや弱者の声を忘れ去るとき、新たな偶像が立ち上がる。経済至上主義、ナショナリズム、技術信仰。いずれも「忘却」によって肥大化する。だからこそ教会は、記憶を守り、担い続ける共同体でなければならない。

二.祈りに刻まれる記憶
 教会は礼拝において、世界と歴史を祈りに差し出す。「平和のために祈る」とき、その祈りには戦争で犠牲になった者の記憶が含まれる。「病む人のために祈る」とき、その背後には社会的に取り残された人々の姿がある。祈りは記憶を神の御前に差し出し、聖霊によって新しく刻む営みである。人間の記憶はやがて薄れる。だが祈りに捧げられた記憶は、神の記憶に留まり続ける。

 現代日本における戦争記憶の風化を思うとき、この祈りの意味は一層深い。世代が交代し、語り継ぐ声が減る中で、教会は祈りによって記憶の場を作り続ける。忘却に抗う第一の営みは祈りなのである。

三.赦しと証しの務め
 記憶は痛みを伴う。過去の過ちを想起することは、不快で、時に耐えがたい。だが聖書が示す記憶は、罪を隠すのではなく、赦しへとつなげる記憶である。モーセが民の罪を覚えながらも執り成したように、パウロが自らを「罪人のかしら」と認めながら赦しを証言したように、教会もまた罪を直視しつつ赦しを語る。

 この赦しの証言は、社会にとって預言的な役割を担う。国家や社会が過去の過ちを忘れようとするとき、教会は「忘れてはならない」と語り、しかし「赦しの可能性」をも告げる。記憶と赦しの両方を担うこと、それが教会の独自の務めである。

四.失われた者と共に生きる
 ルカ十五章の譬えに描かれる「失われた者を探す神」は、教会に向けても問いを投げかけている。教会は「失われた者を探す共同体」として召されているのか。それとも「見つけにくい者」を排除し、九十九匹を守ることに安住しているのか。もし後者に偏るなら、教会自身が偶像となってしまう。

 記憶を担うとは、失われた者の声を聞き続けることでもある。難民、移民、性的少数者、障害を持つ人。社会の周縁に押しやられた人々の記憶を忘れないこと。それは、神が探し出される「一匹の羊」「一枚の銀貨」を覚えることである。教会がその人々と共に歩むとき、社会に新しい和解の可能性が開かれる。

五.召命としての記憶
 記憶は単なる保存ではない。それは召命である。歴史を覚えることは、未来を選び取る責任を伴う。戦争の悲惨を覚えることは、平和を実現するための行動を迫る。差別の歴史を覚えることは、平等を実現する努力を求める。記憶は過去を固定するのではなく、未来を開く契機である。

 その意味で、記憶を担う教会は「未来を形づくる共同体」として存在する。祈り、赦し、証し、そして行動。これらを通して記憶は生きた力となり、忘却の偶像を打ち砕く。

六.現代社会への問い
 現代日本における経済危機や政治的混乱を前に、人々は安心を求めて「金の子牛」を造りがちである。だが、その偶像は記憶の忘却の上に築かれている。歴史を忘れれば、同じ過ちを繰り返す。社会が「忘却の谷」に沈むとき、教会は「記憶の共同体」として立たなければならない。

 この役割を担うのは容易ではない。社会からは「過去にこだわる」と批判されるかもしれない。だが聖書は告げる。「失われた者が悔い改めるなら、天に大きな喜びがある」と。忘却に抗して記憶を語り継ぐことは、悔い改めと喜びの道なのである。

Ⅴ節 憐れみと正義の交差点

一.神の義と人間の正義
 出エジプト記の金の子牛の物語は、神の義と人間の正義がいかに緊張関係に置かれるかを示していた。神は罪を見過ごさない。しかし同時に、モーセの執り成しに応じて「思い直された」。ここに示されるのは、人間的な正義を超える神の義である。人間の正義はしばしば「報復」や「処罰」に傾く。悪を悪で打ち消そうとする論理である。だが神の義は、罪を直視しつつも、赦しと憐れみに開かれている。

 この視点から見ると、パウロが「罪人のかしら」と自認しながらも赦しを受けた経験は、神の義と憐れみの交差点で起こった出来事である。人間の目から見れば、迫害者は裁かれて当然だった。だが神はその人を立ち上がらせ、福音の証人とされた。そこに神の義の本質がある。

二.正義と憐れみの均衡
 社会においても正義と憐れみはしばしば対立する。犯罪者に対して厳罰を求める声は強い。しかし同時に、更生の機会や再出発の余地を与えることが社会の成熟を示す。ここで大切なのは、正義と憐れみを切り離さず、両者を結びつけて考えることだ。正義なき憐れみは無責任になり、憐れみなき正義は冷酷となる。聖書はこの均衡を示している。

 ルカ十五章の譬えにおける神の喜びは、罪を「なかったこと」にするのではなく、悔い改めを通じて新しい命を与えることにある。つまり、正義が罪を告発し、憐れみが赦しを与える。この二つが交差するとき、真の救いが生まれる。

三.現代社会の課題と教会の役割
 現代日本の社会状況を考えるとき、正義と憐れみの均衡が失われつつあるのではないかと思わされる。SNSでは失敗した人間への容赦ない非難が浴びせられ、社会全体が「断罪」に傾きやすい。そこでは赦しの余地が閉ざされている。一方で、政治や経済の不正はうやむやにされることも少なくない。ここには逆説的に「冷酷さ」と「無責任さ」が同居している。

 教会は、この歪んだ均衡に対して預言的な声を上げなければならない。すなわち、正義を軽んじてはならない。しかし同時に、憐れみを忘れてもならない。教会が「赦された罪人の共同体」であるという自己理解をもつとき、この声は説得力を帯びる。

四.和解のビジョン
 正義と憐れみの交差点に立つとき、そこから「和解」というビジョンが生まれる。和解とは、単に争いが終わることではない。それは、過去の過ちを記憶しつつ、赦しによって新しい関係を築く営みである。戦争や差別の記憶を風化させず、しかしその痛みを未来への責任に変えていく。これが和解の本質である。

 モーセの執り成しは、イスラエルの民に和解の可能性を開いた。パウロの回心は、迫害と被迫害の関係を超えた和解の証しであった。ルカ十五章の譬えは、失われた者が共同体に戻される和解の喜びを示している。聖書全体を通して流れているのは、この和解の物語である。

五.神の国のしるしとしての共同体
 教会が記憶を担い、赦しを証言し、和解を目指すとき、それは神の国のしるしとなる。神の国は完全に実現していない。だが、部分的に前味わうことができる。その前味わいこそ、正義と憐れみが交差する共同体の姿である。

 礼拝で共に祈り、赦しを分かち合い、平和を求める行為は、社会に対する強いメッセージとなる。それは「この世の偶像に従うのではなく、神の憐れみと義に立つ」という宣言である。たとえ小さな群れであっても、その姿は世界に対する証しとなる。

六.未来への責任
 正義と憐れみの交差点に立つことは、未来を担う責任を意味する。忘却に抗い、偶像を退け、失われた者を探し出す。これらの務めは容易ではない。だが、それこそが教会に与えられた召命である。

 社会の分断や国際的な緊張が高まる中で、正義だけでは対立が深まる。しかし憐れみだけでは不正が温存される。その狭間に立ち、和解を語り続けること。そこに教会の未来への使命がある。

Ⅵ節 喜びを分かち合う共同体の使命

一.天における喜び
 ルカ十五章の譬えは「失われた者が悔い改めるなら、天に大きな喜びがある」と告げる(ルカ15:7,10)。ここで示されるのは、神の喜びが人間の回復に深く結びついているという事実である。私たちはしばしば「神は厳しい裁きを下す方」と理解しがちだが、聖書は同時に「神は喜ぶ方」であることを告げる。罪人が帰ってくるとき、神はそれを自らの喜びとして受け止められる。つまり神の喜びは、人間の回復と和解の物語の中にある。

 この喜びは単なる感情ではない。それは救いの出来事そのものであり、神の国の現れである。罪が赦され、関係が回復するとき、そこに神の国がかすかに垣間見える。だから教会は、その喜びを「天の前味」として生きる共同体である。

二.喜びの分かち合い
 羊飼いが失われた羊を見つけて友人や隣人を呼び集めたように、銀貨を見つけた女が近所の女たちを招いたように、神の喜びは共同体的な性格をもつ。信仰は個人の内面だけで完結しない。それは必ず他者と分かち合われる。

 教会の礼拝はその最たる場である。赦しと回復の喜びが賛美として表現され、祈りとして共有され、聖餐において味わわれる。聖餐は「失われた者が迎え入れられる食卓」であり、そこに神の喜びが現れる。私たちが共にパンを裂き、杯を分かち合うとき、神の国の喜びがここに宿る。

三.悲しみを抱える喜び
 しかし、この喜びは単なる明るさや快楽とは異なる。それは悲しみを抱えた喜びである。なぜなら、失われた者が見つかるということは、失われていた現実を直視することを意味するからだ。偶像に仕え、罪に陥った人間の現実を認めたうえで、その人が赦されるときに初めて本物の喜びが生まれる。

 この喜びは「安易な楽観」とは正反対である。それは涙を通して到来する喜びである。赦しの場における涙、悔い改めの場における沈黙、その後に訪れる笑顔。こうした体験の中にこそ、神の喜びが宿る。

四.分断された社会における喜び
 現代社会は分断と孤立に覆われている。経済格差、世代間対立、国際紛争。これらの分断は、人々を「失われた者」として放置する。しかし、福音が告げる喜びは分断を超える。失われた者を迎え入れる共同体は、社会の分断に抗する小さな「しるし」となる。

 例えば、難民や移民を受け入れる教会の活動、社会的に孤立する高齢者を訪問する信徒の働き、LGBTQ+の人々を歓迎する礼拝の場。これらは小さな実践に見えるが、そこに神の喜びが現れる。社会の論理では「効率が悪い」と切り捨てられるかもしれない。しかし神の国は一人を探し出し、一人を喜ぶ国なのである。

五.喜びと証し
 喜びは内面に閉じ込められてはならない。喜びは証しとなる。赦しと回復の出来事を体験した者は、それを語り、分かち合うように招かれる。パウロが自らの回心を証言したのも、神の憐れみを賛美するためであった。

 現代における証しは必ずしも大げさな説教や宣教活動に限られない。家庭や職場での小さな赦しの実践、互いに耳を傾け合う対話、困っている人に寄り添う行為。これらもまた「喜びの証し」である。小さな証しが積み重なるとき、教会は「喜びを分かち合う共同体」として輝く。

六.未来を照らす喜び
 最後に、喜びは未来への希望と結びついている。失われた者が見つかるたびに、共同体は新しい未来を見出す。赦しと回復の物語は「これからも神が働かれる」という希望を生む。

 この希望は終末的な展望をもつ。完全な喜びはこの世では実現しないかもしれない。だが、礼拝と交わりにおける喜びは、その完成を先取りする出来事である。私たちが互いに喜びを分かち合うとき、それは神の国の光を未来に投げかける行為となる。

Ⅶ節 希望としての悔い改め

一.悔い改めの逆説
 ルカ十五章の譬えは「悔い改め」によって天に喜びがあることを告げる(ルカ15:7,10)。ここで大切なのは、悔い改めが罰や屈辱ではなく、むしろ希望の入り口として描かれている点である。私たちはしばしば「悔い改め」という言葉に重苦しい響きを感じる。過去の失敗を責められるように思えるからだ。しかし聖書が告げる悔い改めは、神の憐れみに向かって歩み直す新しい出発である。

 イスラエルの民が金の子牛を造ったとき、彼らは偶像に屈した。しかしモーセの執り成しによって、滅びではなく新しい歩みが開かれた。パウロもまた、自らを「罪人のかしら」と認めながらも、赦しによって使徒へと変えられた。悔い改めは失敗の告白ではあるが、それ以上に「希望への門」である。

二.悔い改めと記憶
 悔い改めは忘却と対立する。忘却は罪をなかったことにしようとするが、悔い改めは罪を直視する。そこに違いがある。忘却は偶像を生み、偶像はさらなる忘却を呼ぶ。だが悔い改めは記憶を抱えたまま未来を選び取る。

 教会が歴史の過ちを記憶にとどめ、悔い改めを語ることは、社会にとっても大きな意味を持つ。戦争や差別、排除の歴史を忘れないこと。そこから未来を築くこと。それが悔い改めの社会的な意義である。悔い改めは個人の心の中だけでは完結しない。共同体の記憶を新しくし、社会全体の希望を開く営みである。

三.悔い改めと赦しの連続性
 悔い改めは赦しと切り離せない。悔い改めがなければ赦しは安易な寛容となり、赦しがなければ悔い改めは絶望となる。両者は連続して働き、和解を生む。羊飼いが羊を肩に担い、女が銀貨を見つけて喜んだとき、そこには悔い改めと赦しが一つの物語として結びついていた。

 私たちもまた、自らの罪や弱さを告白し、それでも赦されるという経験を通じて初めて「喜び」を知る。この経験は、他者を赦す力となる。悔い改めと赦しの連鎖は、共同体全体を新しくする。

四.現代社会における悔い改めの意味
 現代の日本社会では、失敗を認めることが難しくなっている。政治家や企業の指導者が不正を犯しても、責任を曖昧にしたまま辞任する姿が繰り返される。一方で、一般の人々は一度の失敗で厳しく断罪され、立ち直る機会を失う。この不均衡は社会を疲弊させる。

 聖書が告げる悔い改めは、こうした状況への挑戦である。責任を回避するのではなく、正直に罪を告白すること。そして、その人に新しい道を開く赦しが与えられること。悔い改めは責任を伴いながらも、未来を閉ざさない。社会がこの論理を学ぶなら、より成熟した共同体へと変わり得る。

五.悔い改めの共同体性
 悔い改めは個人だけでなく、共同体全体に呼びかけられている。教会が自らの過ちを悔い改めること、国家が歴史の罪を悔い改めること。これらは痛みを伴うが、そこにこそ希望がある。和解のプロセスはしばしば困難である。だが、悔い改めを避けて和解を語ることはできない。

 「悔い改めの共同体」として教会が生きるとき、それは社会に対する強い証しとなる。過ちを隠さず、赦しを信じて告白する勇気。そこからしか、未来は開かれない。

六.終末的希望
 悔い改めは終末的な希望とも結びついている。完全な和解と喜びはこの世で実現しないかもしれない。しかし、悔い改めはその完成を先取りする行為である。悔い改めるたびに、私たちは「神の国が近づいている」という福音の核心を生きる。

 だから悔い改めは絶望ではなく希望である。罪を直視しつつも、神の赦しを信じて未来に歩み出す。そこに、信仰者としての最も大切な姿勢がある。悔い改めとは、希望の別名なのである。

Ⅷ節 神の国を映す群れとして

一.小さな群れに託された使命
 イエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)と語られた。ルカ十五章に描かれる「失われた一匹」を探す神の姿と響き合うこの言葉は、教会の現実を照らしている。社会の中で教会は小さな群れに過ぎない。信徒の数は減少し、影響力も限定される。しかし聖書は、その小ささを欠点ではなく召命として受け止めよと呼びかける。小さな群れだからこそ、失われた一人を大切にする神の国の姿を証しできるからである。

 金の子牛を造ったイスラエルの民は多数派の論理に従った。だが神が用いられたのは、孤独に見えたモーセの執り成しであった。多数ではなく、小ささの中にこそ、神の力が働く。

二.現代社会と「小ささ」の力
 現代の日本社会は効率や規模を重んじる。大きな組織、大規模な政策、目に見える成果。しかし小さな声や小さな営みはしばしば軽視される。教会もまた、この「大きさの論理」に取り込まれる危険がある。だが、神の国の論理は異なる。神は一人の罪人の悔い改めを天の喜びとされる。つまり、一人を大切にすることが神の国の尺度なのである。

 地域の中で孤立した人と食卓を囲むこと、声を上げられない人の話を傾聴すること、少数派の権利を守ること。これらの小さな実践は、目立たないが神の国を映す行為である。小ささを誇るのではなく、小ささを神の力の場とする。この姿勢こそ、教会の使命である。

三.喜びと記憶の共同体
 これまで確認してきたように、教会は記憶を担う共同体であり、赦しを証言する共同体であり、喜びを分かち合う共同体である。これらはすべて「小さな群れ」としての在り方と結びついている。

 多数派の物語が忘却をもたらすとき、教会は少数の声を記憶に留める。社会が冷酷な正義に傾くとき、教会は赦しの可能性を告げる。分断が深まるとき、教会は共に喜ぶ場を作る。これらの営みは一見、非効率で時代遅れに映るかもしれない。だがそこにこそ、神の国の光が差し込む。

 神の国は「この世の力の論理」ではなく、「失われた一人を迎える喜び」によって現れる。教会がその論理を体現するとき、たとえ小さな群れであっても、世界を照らす証しとなる。

四.預言者的な声をもって
 小さな群れとしての教会は、同時に預言者的な使命をもつ。忘却に抗し、偶像を拒み、社会に対して「悔い改め」を語る。それはしばしば歓迎されない。ファリサイ派がイエスを批判したように、社会は「罪人と共にいる教会」を怪訝に思うかもしれない。だが預言者の声は、常に時代に不都合であった。

 重要なのは、その声が単なる批判で終わらないことだ。預言者の声は、同時に希望を告げる。悔い改めを希望として提示する。赦しの可能性を開示する。社会が疲弊し、未来が閉ざされているように見えるとき、教会は小さな群れとしてなお希望を語る。それが預言者的な声の核心である。

五.未来への派遣
 モーセが荒れ野で民を導いたように、パウロが異邦人へと派遣されたように、教会もまた世界へ派遣される群れである。派遣とは、単に活動を広げることではない。それは「失われた者を探す神」の姿を自らの生活で体現することだ。職場や学校、家庭、地域社会のただ中で、赦しと喜びの証しを生きる。これが派遣の意味である。

 教会が「神の国を映す群れ」として歩むとき、その姿は小さくとも確かな光を放つ。未来を閉ざすのではなく、未来を開く群れ。これが、聖霊降臨後第十四主日に与えられた召命である。

結語 憐れみの記憶と希望の道へ

 聖霊降臨後第十四主日に与えられた三つの聖書の言葉――出エジプト記の金の子牛、テモテへの手紙におけるパウロの証言、ルカによる福音書の失われた羊と銀貨の譬え――は、偶像に屈する人間の弱さと、赦しを注がれる神の憐れみと、悔い改めを喜びとする神の国の姿を、三重の響きとして私たちに示している。

 荒れ野において民は不安に耐えきれず、金の子牛を造った。現代社会もまた、不安と焦燥の中で新しい偶像を造り続けている。経済的な安定、安全保障、効率性。これらは一時の安心を与えるが、真の命をもたらすことはない。忘却と偶像化の連鎖の中で、人間は自らを縛ってしまう。だがモーセの執り成しによって、神は思い直された。そこに示されたのは、罪を厳しく裁きながらも、なお赦しへと向かう神の憐れみである。

 その憐れみを自らの生涯において告白したのがパウロであった。迫害者から使徒へと変えられた彼の人生は、赦しがいかに人を新しくするかを証している。彼は自らを「罪人のかしら」と呼びながらも、その罪にとらわれなかった。むしろ、その赦しを証しすることが彼の務めとなった。教会もまた同じである。自らの弱さを隠すことなく、赦された共同体として生きるとき、社会に対して希望の証言となる。

 ルカ十五章の譬えに描かれる神は、「失われた一人」を見過ごさない神である。九十九を守る合理性を超えて、一人を探し出し、見つけたときに肩に担い、共に喜ぶ。神の国は多数の力ではなく、一人への徹底した愛によって現れる。教会がその論理を体現するとき、小さな群れであっても、神の国の前味を世界に映すことができる。

 ここに結びつくのが「悔い改め」である。悔い改めとは、罪を認めることにとどまらず、新しい道を選び取る希望の行為である。忘却は過ちをなかったことにするが、悔い改めは過ちを記憶にとどめつつも、未来を開く。赦しと悔い改めの連鎖は、共同体を新しくし、和解を可能にする。教会は「悔い改めを希望として語る群れ」として召されている。

 現代の日本においても、このメッセージは切実である。経済的な不安、社会の分断、国際的な緊張の中で、人々は偶像にすがりたくなる。しかし、偶像は記憶を曇らせ、未来を閉ざす。必要なのは、記憶を担い、赦しを証しし、失われた者を迎え入れる共同体である。小さな群れに過ぎないとしても、その小ささがむしろ神の国を映す鏡となる。

 結びにあたり、私は改めてこの祈りを掲げたい。
 ――全能の神よ、忘却の谷に沈む私たちを顧み、憐れみの記憶を与えてください。
 ――主イエスよ、罪人を探し出し、肩に担ってくださるあなたの喜びを、私たちの共同体にも注いでください。
 ――聖霊よ、悔い改めを希望とし、喜びを分かち合う群れとして私たちを整えてください。

 偶像の影に覆われた時代にあっても、神の憐れみは絶えることがない。その憐れみを記憶し、希望へと歩み出す群れとして、教会は遣わされている。小さな群れであっても、そこに神の国の光は確かに映し出されるのである。

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