教会時論 二〇二五年九月十四日 日曜日「民意と統治――悔い改めなくして再生なし」

はじめに いのちの尊厳を問い直す季節に

 九月の空気には、夏の名残と秋の兆しが交錯する。聖霊降臨後第十四主日を迎えるこの時期、教会は豊かな収穫を祈りつつも、同時に人間の社会が抱える不正義や暴力を直視するよう促されている。歴史を振り返れば、この国にとって九月は災厄と記憶の月でもある。関東大震災における虐殺の記憶、戦時下の犠牲者たちの痛み。そうした影が今も消えぬまま、私たちは現在の危機と向き合っている。

 今号で取り上げる三つの出来事は、互いに異なる領域に属しているように見える。国内政治の混迷、女性の権利をめぐる制度改革、そして中東での武力衝突。だが深く掘り下げれば、いずれも「人間のいのちと尊厳をどう守るか」という一点で結びついている。派閥と裏金に翻弄される総裁選は、民意よりも権力の維持を優先させる政治の姿を露わにした。緊急避妊薬の市販化は一歩前進であると同時に、女性の自己決定権がいかに制約されてきたかを映し出す鏡である。そして、和平の仲介国を空爆するという暴走は、国際秩序そのものを揺るがし、無辜の人々のいのちを再び犠牲にしている。

 これらの現実に共通しているのは、「声なき声」が軽んじられる構造である。生活に苦しむ市民の声、沈黙を強いられてきた女性の声、戦火のただ中に置かれた人々の声。それらは権力の都合や国家の論理によって後景に追いやられがちである。だが聖書は「正義を水のように、恵みの業を大河のように流れさせよ」(アモス5:24)と告げる。社会の隅々にまで届くはずの正義と慈しみが、いま改めて求められているのだ。

 教会は、この声を聞き逃さない場でありたい。痛みを直視し、祈りと共に社会へ問い返す役割を担っている。政治の腐敗、制度の遅れ、国際秩序の暴力――それらは信仰共同体にとっても「他人事」ではない。むしろ、神にかたどられて造られた一人ひとりの尊厳を守るという使命に直結している。いま求められているのは、沈黙ではなく応答である。

 本号の「教会時論」は、いのちを道具化する力に抗い、尊厳を守るための責任を改めて問い直す。派閥政治の清算を迫る声、女性の自己決定権を支える制度のあり方、国際社会が一致して停戦を実現するための努力――それらを結び合わせる一本の糸は、「いのちの声に応える」というただ一つの使命である。

一 総裁選の前に、悔い改めを――派閥政治の断捨離を本気で問う

 物価高にあえぐ家計、止まらぬ少子化、外交・安全保障の緊張。課題は明白なのに、政治の針は内向きに止まったままだ。与党第1党の総裁選が「政局の節句」に堕して久しい。いま必要なのは「誰がなるか」ではなく、「何を断つか」である。裏金温存と長老支配という旧弊を断てるか。その一点が、統治の再起動の可否を決する。

 派閥は本来、政策を競い理念を磨く「集い」であるはずだった。だが現実は、資金・ポスト・選挙の三点で相互依存を固める「分配装置」と化した。裏金事件に象徴される不透明な資金循環は、政治的判断を民意から切り離し、「誰のために」決めているのかを曖昧にする。教会の言葉でいえば、それは共同体のための奉仕が「自己保存の礼拝」に転倒する瞬間だ。聖書は言う。「正義を水のように、恵みの業を大河のように流れさせよ」(アモス5:24)。正義は滴でも飾りでもない。枯らしてはならない公共の流れである。

 総裁選は、本当にその流路を掘り直す機会となり得るのか。鍵は三つ。第一に、政治資金の全面的な透明化だ。企業・団体献金の将来的廃止を曖昧な将来に棚上げするのではなく、時限と工程を明記して立法化すること。政党助成金との「二重取り」をやめ、収支をリアルタイムに近いかたちで公開する。AIが家計簿を即時に可視化する時代に、政治の帳簿だけが年に一度の“紙の儀式”で赦される道理はあるまい。

 第二に、人事と資金の分離を制度で固定することだ。派閥会長や長老の影響力を慣行の名で温存すれば、裏口から復権するのは必定である。国会・党本部・内閣の三層にわたる利益相反管理、任命過程の記録と公開、政策コンテストの義務化――政治を「語る場」に戻すための地味だが効く仕掛けを積み重ねたい。礼拝に式文があるように、権力にも手順がいる。恣意を抑えるのは形式である。

 第三に、民意の直接回路を太くすること。党員・党友を巻き込む「フルスペック」の投票は当然として、論戦を閉ざさない工夫がいる。討論会の増設、外部有識者の質問枠、地域・世代別の争点整理。選挙で敗れた直後こそ、敗因を自らの言葉で語るべきだ。痛みを言葉にできない組織は、回復の道筋も描けない。

 ここで忘れてはならないのは、「顔」を替えても「体質」が替わらなければ信頼は戻らないという単純な事実である。長年、政治を支えてきた有権者の感覚は鋭い。人事の裏で資金の蛇口が生きているのか、政策の表で誰が得をするのか――生活の肌感覚は、言葉の上滑りを容赦なく見抜く。選挙での大敗は、たんに戦術の失敗ではなく、倫理の破綻に対する審判でもある。

 主日の共同祈祷で、わたしたちは「過ちを認め、正しく改める心」を願い求める。悔い改め(メタノイア)は、過去を消す呪文ではない。方向を変える勇気である。政治における悔い改めは、説明責任の徹底と、利益相反からの撤退という行為を伴う。痛みは避けられない。だからこそ、その痛みを公共の未来への投資として引き受けられるかが、為政者の品位を分ける。

 物価高と賃上げの遅れ、保育・介護の人材流出、地方の空洞化――どれも待ったなしだ。にもかかわらず、派閥の呼吸や長老の一声で政局が揺れるようでは、必要な優先順位はいつまでも確定しない。いま国が要するのは、最も弱い人に届く支出の再配分であり、そのための増税・歳出改革を正面から語る誠実さだ。人気取りの減税や補助金の薄撒きでは、次世代への負債を増やすだけである。

 この主日にあたり、教会は「共通善のために祈り、働く」使命を想起する。わたしたち市民の側にも責務がある。候補者の言葉を吟味し、政策の費用と効果、受益と負担の配分を問い、短絡的な敵味方の図式から距離を取ること。民意とは、拍手の総量ではなく、熟慮の厚みで測られる。

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」(マルコ2:22)。古い体質のままに希望を注げば、袋は裂け、酒は失われる。総裁選は、革袋を替える最後の好機である。裏金の断絶、長老支配の清算、透明化の制度化――この三つを骨格に据えるなら、政治は再び公共の言語を取り戻すだろう。そうでなければ、次の選挙はもっと厳しい審判となる。信頼は、語るだけでは戻らない。断ち、改め、示す。その順番を取り違えてはならない。

二.緊急避妊薬の市販化――「自己決定権」を支える制度の責任

 静かに、しかし確実に社会を変える一歩が刻まれた。厚生労働省が、性交後に服用することで妊娠を防ぐ「緊急避妊薬(アフターピル)」を、医師の処方箋なしに薬局で購入できるようにする決定を下したのである。意図せぬ妊娠を避けるための手段を広げることは、女性の自己決定権の拡充という観点から、遅すぎた感は否めないが、ようやくの前進である。

 長らく日本では、この薬は医師の処方を必須とされ、休日や夜間に入手が難しい現実が続いてきた。避妊に失敗した若い女性が、薬を求めて病院を探し歩き、結局72時間という有効期限を超えてしまう事例は少なくない。性暴力の被害に遭った人々が、手続きの壁に阻まれて妊娠を強いられるという悲劇も繰り返されてきた。他国の状況と比べれば、日本の遅れは明白である。すでに90カ国以上で市販化が実現しており、WHOは「必須医薬品」と位置づけている。国際的な基準からみれば、日本社会は女性の権利に冷淡すぎたと言わざるを得ない。

 もちろん、課題は残る。薬剤師の対面販売に限定され、面前での服用を義務づける仕組みは、利用者に過度な羞恥や不安を与える可能性がある。試験販売の際にも「その場で服用を強いられること」に抵抗を示す女性が少なくなかった。英国や米国は義務化していない。服用の強制が、かえって入手の妨げになり、制度の意義を減殺する恐れがある。薬を買いに来る女性を「監視」するような仕組みは、自由な選択の場をゆがめる。販売の安全性と利用者の尊厳、その均衡をどう保つのか。ここに制度設計の核心がある。

 価格も大きな壁だ。試験販売では7千円から9千円と、若年層には重すぎる額であった。欧米諸国では低価格、あるいは10代は無料に近い仕組みを導入している例もある。経済的に弱い立場の女性ほど予期せぬ妊娠のリスクに直面しやすい。緊急避妊薬を単なる市場商品とせず、公費負担を含めた支援を検討することが不可欠だろう。自己決定権は、実際に行使できて初めて意味を持つ。価格によって排除される権利は、権利の名に値しない。

 さらに深刻なのは教育の遅れである。学習指導要領は性交に触れる教育を回避し続け、現場の教師は萎縮している。避妊や性的同意を正しく理解する機会を奪われた若者が、危機に直面したとき、判断を誤るのは必然だろう。薬の市販化は大切な一歩だが、それを「女性だけの責任」として押し付ける社会風潮を強める危険もある。避妊や性の選択は、常に関係性の中で問われる問題である。包括的な性教育こそが、薬の利用を健全な形で位置づけ、乱用や強要を防ぐ最良の土台となる。

 聖書には「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)との言葉がある。性や妊娠の現実を語らずに沈黙で覆い隠す社会は、真理から遠ざかり、女性を不自由に閉じ込めてきた。避妊薬の市販化は、ようやく真理に近づく試みである。だが、それは入り口にすぎない。自由を与えるのは、薬そのものではなく、それを支える教育、制度、社会的連帯である。

 人はみな、自らの体と人生について主体的に決定する権利を与えられている。信仰的にいえば、それは神が与えた尊厳の一部である。望まぬ妊娠を防ぐ選択肢を広げることは、女性だけでなく社会全体を支える。なぜなら、そこで守られるのは個人の尊厳であると同時に、共同体の健全さだからである。

 この主日、私たちは「いのち」をどう守るかという問いを再び突きつけられている。緊急避妊薬の市販化は、単なる薬事制度の話ではない。女性を沈黙させてきた社会構造を改め、誰もが尊厳をもって生きるための道を開く作業の一環である。その道のりは長い。しかし、この小さな一歩を確かな歩みに変えるかどうかは、私たち自身の覚悟にかかっている。

三.カタール空爆――平和を踏みにじる暴走を前に

 またも中東の空が炎に覆われた。イスラエル軍が、停戦交渉の仲介役を担ってきたカタールの首都ドーハを空爆し、ハマス幹部とともに治安部隊員らが命を落とした。標的は、米国の新停戦案を協議していた交渉団であったという。戦火を収めるための対話の場を、武力で叩き潰すこと。それは単なる軍事行動ではない。和平への道を破壊する意志表明にほかならない。

 国際法に照らせば、明らかに主権侵害である。しかもカタールは、米国が中東で最大の空軍基地を置く同盟国だ。自国の安全保障を米国と分かち合うはずの国が、米国の庇護のもとにある同盟国を攻撃する。この矛盾をどう説明するのか。トランプ政権は「イスラエルの独断」と弁明するが、事前に通知を受けていたことは認めている。黙認が加担に転じるのは当然だろう。国際秩序の根幹が、同盟政治の内側から掘り崩されつつある。

 ガザ戦争の犠牲者はすでに六万人を超え、飢餓と病に喘ぐ人々は極限にある。国連はガザで飢饉が発生していると認定し、ジェノサイド研究者協会も「民族大量虐殺」との決議を採択した。にもかかわらず、ネタニヤフ政権は停戦を拒み、ガザ市の制圧を叫び続ける。ドーハへの空爆は、停戦の可能性を自ら潰す「暴挙」であり、国内の強硬派への迎合としか映らない。人質解放の道を遠のかせるだけでなく、国際社会の不信を決定的に深めた。

 思い起こすべきは、聖書に繰り返し語られる「平和を造る人は幸いである」(マタイ5:9)との言葉である。真の安全保障は、敵の殲滅によって築かれるのではない。対話と和解の持続によってのみ確かな基盤となる。武力で和平を踏みにじれば、報復と憎悪が次世代へと受け継がれ、平和はますます遠ざかる。戦争に勝者はない。あるのは無辜の人々の血と、取り返しのつかない破壊だけである。

 今回の攻撃で、国際社会の分断も浮き彫りとなった。アラブ諸国だけでなく、イスラエルと国交を結んだエジプトやUAEまでもが非難の声を上げ、欧州諸国も一斉に国際法違反を指摘した。だが、日本政府は声明こそ出したものの、制裁や外交的圧力といった実効的な措置には踏み込めていない。米国に追従する姿勢を改めなければ、国際社会の正義をともに担う存在とは言えまい。中東の平和は遠い地域の問題ではない。エネルギー供給、経済、難民危機を通じて直ちに私たちの生活にも跳ね返ってくる。

 カタールの空に舞った爆撃機の影は、私たちに問いかけている。平和を信じ、声を上げる勇気を持つかどうか、と。無力感に沈黙することは容易い。しかし、その沈黙は暴力を利するだけである。国際社会が一致して停戦を迫らない限り、死者は増え続け、和解の希望は消えてしまうだろう。

 信仰に生きる者として、私たちは戦火のただ中に置かれた人々の呻きを祈りに取り上げる責務がある。そして、国家の利害を超えて「平和を造る人」となる努力を続けねばならない。敵と味方を分かつ線を引くのではなく、いのちの尊厳を守るために声を上げる。その姿勢が、遠く見える中東の地に確かな希望を灯す唯一の道である。

結語 未来を託すために、いのちの声を聞く

 この数週間、私たちは三つの現実を見つめてきた。派閥政治に縛られた自民党総裁選の迷走。女性の自己決定権に遅れて応えた緊急避妊薬の市販化。停戦の仲介国を空爆するというイスラエルの暴走。それぞれ異なる場面に見えるが、根底では共通した問いを突きつけている――「人間の尊厳をどう守るのか」という問いである。

 権力に固執し、裏金や派閥の影響を断てない政治は、民意を侮辱し、市民の生活を軽んじる。女性の体と人生を自ら選ぶ権利を制限し続けてきた社会は、半ば強制の沈黙を押しつけてきた。そして、停戦のための交渉団を空爆する行為は、人間の命を手段に変え、国際秩序そのものを踏みにじる。ここに共通するのは、いのちを道具化し、尊厳を軽んじる姿勢にほかならない。

 聖書は「人は神にかたどって創られた」(創世記一・二七)と語る。すべての人が、政治的立場や性別や民族を超えて、等しく尊い存在であることを示す根本の宣言である。この視点を失ったとき、社会は必ず逸脱する。私たちが直面する危機は、政治腐敗や性差別や国際紛争という個別の課題に見えて、実は「人間の尊厳を守れるかどうか」という一点に集約されている。

 未来世代に渡すべきものは、権力者の都合や無関心による沈黙ではない。痛みを直視する勇気と、対話をあきらめない誠実さである。派閥政治を断つ改革を、市民の声が支えること。緊急避妊薬を実効性ある制度として整え、包括的な性教育で若者を支えること。暴力を容認しない国際社会の圧力を強め、和平を求める声を絶やさないこと。それらは決して「他者の問題」ではなく、私たち自身の責任である。

 「平和を造る人は幸いである」(マタイ五・九)。この福音の言葉を、時代の表層を超えて刻みたい。真の平和は、沈黙や先送りでは訪れない。声なき声に耳を澄まし、いのちを軽んじる構造に抗うとき、初めて実を結ぶ。教会の役割は、この営みを祈りと行動で支えることにある。社会に光を差し込むのは、完璧な制度や強大な力ではない。人間の尊厳に仕える小さな誠実の積み重ねである。

 結語にあたって、私は改めて問いたい。未来を託す世代に、私たちは何を残すのか。裏金と派閥の政治か、沈黙を強いられる制度か、空爆で破壊される交渉か。あるいは、真理を直視する勇気と、共に生きる誠実さか。答えは、私たちの選びにかかっている。

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