聖霊降臨後第十一主日 説教草稿「狭き門を求める群れと弱き者への連帯」

【教会暦】
聖霊降臨後第十一主日 二〇二五年八月二十四日
【聖書箇所】
旧約日課 :イザヤ書 二八章一四〜二二節
使徒書 :ヘブライ人への手紙 一二章一八〜一九節、二二〜二九節
福音書 :ルカによる福音書 一三章二二〜三〇節
【本文】
はじめに
晩夏の光は柔らかくも鋭く、我らの影を長く地に映す。戦後八〇年を越えたこの季節に、私たちはなお「力ある者の論理」と「弱き者の呻き」の交錯する世に立ち続けている。強き者は自己保存と利益のために門を広く開き、弱き者をはじき出す。しかし主イエスが示されたのは「狭き門」であった。それは排除の象徴ではなく、むしろすべての者が己が重荷を下ろし、裸で神の慈しみにあずかる入口である。
イザヤは、権力者が虚しい契約をもって自らを守ろうとする姿を「死との契約」と呼び、神の裁きの中に真の基礎が置かれると預言した。ヘブライ書はシナイの雷鳴におびえる群れではなく、シオンに招かれる共同体を描く。そしてルカは、群衆に語る主の厳しい声を記す。「狭い戸口から入るよう努めよ」。この招きは、自己充足に溺れる強者への告発であり、同時に小さき者と共に歩む者への慰めである。
今の世界もまた、戦争と分断、排外主義と差別、経済的格差の広がりのただ中にある。世相から聞こえる声は「強肉」の論理に従えという圧力に満ちる。しかし福音は、その力の支配を打ち破る。今日与えられた聖書箇所は、私たちが「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」歩みへと召し出す。
この導入において、私たちは祈りを合わせたい。神よ、どうか我らの心を開き、弱き者の呻きを聴き取る耳を与え、また不条理な強者の論理に立ち向かう勇気を与えてください。狭き門を通り抜ける民として、あなたに従う喜びを深く知ることができますように。
Ⅰ章 イザヤの預言と「死との契約」を超える真の基礎
イザヤ書二八章一四節から二二節に記された言葉は、エルサレムの権力者たちに対する鋭い告発である。彼らは自らの政治的安全保障を「死との契約」によって築こうとした。ここで語られる「契約」とは、単なる外交的取り決めや同盟条約を意味するにとどまらない。むしろ、偶像的な安全の幻想に自らをゆだねる姿勢を象徴している。歴史的背景としては、アッシリア帝国の圧倒的な軍事的優位の下で、南王国ユダの指導者たちが、軍事同盟や政治的取引に希望を置いた時代がある。彼らは、目に見える強さに身を委ね、それを神の契約よりも確実なものと考えた。しかし預言者は、その歩みを「嘲りの支配」と呼び、神の御前において虚ろなものと断罪する。
ここで注目すべきは、イザヤが対置する神の御業である。「見よ、わたしはシオンに一つの石を据える。これこそ試みを経た石、堅固な基礎の石。これに信頼する者は慌てることはない」(二八章一六節)。この「基礎の石」は、イスラエル共同体の新しい信頼の対象であり、権力や軍事力とは異なる神の支配の象徴である。後代の解釈においては、この石はメシア的存在に結び付けられ、キリスト教においてはキリストそのものと重ね合わされる。イザヤがここで告げたのは、「強き者の契約」ではなく、「神ご自身の真実」に基礎を置けという招きであった。
イザヤの言葉には、社会倫理的な含意がある。権力者が恐怖に駆られて「死との契約」を結ぶとき、その犠牲を負うのは常に弱き者たちである。戦争のために徴用される若者、税に苦しむ農民、声を持たぬ寡婦や孤児である。強き者は、自らの安全を確保するために、弱き者を代償とする構図を築き上げる。これは古代だけの話ではない。現代においても、国家の安全保障政策や経済的グローバル化の論理が、しばしば貧困層や移民、非正規労働者を犠牲にして成り立っている。まさに「死との契約」は今日も生きているのである。
しかし預言者は、それを超える視点を示す。「わたしは正義を測り縄とし、公平を重り縄とする」(二八章一七節)。ここに、神の共同体における真の秩序が告げられる。正義と公平は、社会の基礎を形づくる測定具である。権力者の都合ではなく、神の真理に基づく尺度である。イザヤは、この正義の神に従う歩みこそが「強肉」に抗う道であると説く。そして、虐げられる「弱肉」に寄り添うことは、単なる同情ではなく、神の基礎に立つ生き方そのものなのだ。
この箇所をアングリカン伝統に即して読むとき、私たちは「公同の信仰」と「公共善」という概念に出会う。公同の信仰は、歴史を通じてすべての時代、すべての民族に共通して告白される信仰の真理を指す。そして公共善は、その信仰が社会において具体的に実現する形である。イザヤが告げた「基礎の石」は、単なる個人の信仰の対象ではなく、共同体全体を支える石であった。それは今日の教会において、公共善を追求する信仰者の召命へとつながっている。信仰は私的領域に閉じ込められるものではなく、社会の秩序を問い直す力である。
さらにここに、預言者の「裁き」の言葉を忘れてはならない。「お前たちの契約は破棄される。お前たちが死と結んだ契約は立たない」(二八章一八節)。この断罪は、権力構造の中で安逸を求める人間にとって、痛烈な挑戦である。だが同時に、それは希望の表明でもある。なぜなら、虚しい契約が破れるとき、新しい基礎が据えられるからである。すなわち、人間の力に依存せず、神に信頼する生き方が開かれるからである。この希望は、強き者の論理に押し潰される弱き者にとって、唯一の支えであった。
現代社会においても、この預言の声は響く。戦争の危機にさらされる地域で、あるいは経済的格差に喘ぐ社会で、人々は「死との契約」に安易に頼ろうとする。軍拡による安全保障、経済成長による繁栄、権力同盟による安定。しかしその背後には常に弱き者の代償がある。私たちに求められているのは、その虚構を暴き、正義と公平を基礎とする神の秩序に立ち返ることである。
イザヤが語る「狭き門」とは、まさにここに通じる。広い道を進む強者の論理に従うのは容易である。だが狭き門は、自己の重荷と特権を下ろさなければ通れない。その門を通ることは、弱き者と共に生きる選択である。強き者に迎合するのではなく、神の基礎に立つ共同体を築くことである。
こうして第一章において、私たちは旧約の預言者の声から「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」信仰の基礎を見出す。イザヤの言葉は、現代社会を告発しつつ、同時に教会に対して預言的召命を与えている。それは、強者の虚しい契約を拒み、弱き者と共に神の基礎に立ち、正義と公平を社会の測り縄とする共同体を築くことである。
Ⅱ章 シナイの恐れからシオンの喜びへ──揺るがぬ国への招き
ヘブライ人への手紙は、旧約のシナイ体験と、新約のシオン体験を鮮烈な対比として描き出す。著者はまず、イスラエルがモーセを通して律法を受けた時の光景を思い起こさせる。「燃える火、暗雲、深い闇、嵐、角笛の音と、さらに語られる言葉」(一二・一八以下)。そこに集った民は、その威容におののき、恐怖にかられて「これ以上、語らないでください」と懇願した。この情景は、神の聖なる威光の前に人が圧倒され、恐れのうちに立ち尽くす姿を表している。律法の啓示は、人間の限界を突きつけ、罪の現実を暴き出すものであった。
だが著者は、信仰者が招かれる場を異なる光景で描く。「あなたがたが近づいたのはシオンの山、生ける神の都、天上のエルサレム」(一二・二二)。そこにはおびただしい天使の群れ、諸長子の集会、神ご自身の臨在、そして仲介者イエスの血がある。ここで提示されるのは、恐怖の律法から恵みの契約への転換である。信仰者は恐怖に震えるのではなく、喜びと感謝のうちに神に近づくのだ。
この対比は、単なる神学的抽象ではない。物語として読むならば、イスラエルの民が恐怖の山から喜びの都へと導かれる歩みは、私たち自身の信仰の旅路に重なる。人はしばしば、自らの罪と限界に圧倒され、律法的な重荷の中で縮こまる。しかし福音は、私たちをシオンへと導く。そこでは恐怖ではなく、恵みと赦しと交わりが中心に据えられる。すなわち「狭き門」を通るとは、単に律法の戒めを克服することではなく、神の恵みに身をゆだね、共同体の喜びに生きる選択なのである。
しかし、ここで注意すべきは、この招きが「安逸の宗教」ではないということだ。ヘブライ書は同時に警告を発する。「あなたがたは語っている方を拒むことがないようにせよ」(一二・二五)。シオンに招かれた民もまた、その声を聞き、その召命に応えなければならない。ここに、信仰の自由と責任が交差する。単に慰められるために集うのではなく、神の声を聞き取り、その声に従って歩む覚悟が求められる。
著者は「揺り動かされるものと揺り動かされないもの」という独特の視座を提示する。「わたしはもう一度、地だけでなく天も揺り動かす」(一二・二六)。この言葉は、旧約のハガイ書の預言を踏まえ、終末的な審判と刷新を描いている。世の秩序は揺り動かされる。強者の支配、虚しい契約、偽りの安全は崩れ去る。だが、その中で揺るがぬものがある。それは「神の国」である。信仰者は、この国を受け継ぐ者として立ち続ける。
この箇所を「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」という視点で読むと、重大な洞察が得られる。強者の論理に基づく秩序は、必ずや揺り動かされる。歴史の中で帝国は興亡を繰り返し、独裁者は一代の夢として消え去った。だが、虐げられた弱き者たちの呻きは、神の御座に届き、やがて揺るがぬ国の基礎となる。信仰者が寄り添うべきは、この「小さき者たち」の声である。彼らと共に歩むとき、私たちは揺るがぬ国を先取りするのである。
アングリカンの伝統は、この視座を典礼と祈祷の中に深く刻んできた。聖餐において私たちは「天上のエルサレム」に参与し、すでに勝利の群れに連なる。そこでは生者も死者も共に歌い、地上の歴史を超えた神の国が垣間見える。この礼拝の経験は、ただの象徴ではなく、実際の霊的現実である。信仰者は、週ごとにこのビジョンを受け取り、世に遣わされる。すなわち、典礼と社会的実践は切り離せない。弱き者に寄り添うことは、礼拝において見たシオンの現実を地上に映し出す行為である。
今日の社会を見渡すとき、私たちはあまりにも多くの「揺り動かされるもの」に囲まれている。戦争の脅威、気候危機、経済格差、差別と排除の構造。それらは人間の築いた虚ろな契約に過ぎず、やがて崩れ去る運命にある。しかし、信仰者はそれらに支配されることなく、揺るがぬ国を受け継ぐ者として歩むよう召されている。ここに勇気と希望がある。
この勇気は、決して強者のような力の誇示から生まれるものではない。むしろ、弱き者と共に生き、彼らの痛みに耳を傾け、共に涙することから生まれる。そうして生まれる共同体こそ、揺るがぬ国の現れである。そこでは「強肉」は退けられ、「弱肉」が尊ばれる。シオンの都に集う群れとは、この世の常識を逆転させる民である。
こうして私たちは、ヘブライ書を通じて「狭き門を通る」とは何を意味するかをさらに深く理解する。それは、恐れに縛られることなく、恵みの都に招かれた者として、揺るがぬ国の担い手となること。そして、この世の強者の論理に抗しつつ、弱き者と共に歩むことにほかならない。
Ⅲ章 現代社会の裂け目における信仰──戦争・孤独・差別・環境危機・多様性
ヘブライ書の「揺り動かされるもの」と「揺り動かされないもの」の対比は、単に古代ユダヤ教とキリスト教の神学的議論にとどまらず、現代社会の現実に迫る鋭い預言の声として響く。私たちは今日、文字通り「揺り動かされる」時代を生きている。戦争の脅威、孤立と分断、差別の再生産、気候危機の進行、性の多様性をめぐる葛藤。これらすべてが、私たちの共同体を試み、また信仰の現実を問い直している。
第一に、戦争と暴力の現実である。二一世紀に入り、冷戦終結の楽観はすでに過去のものとなり、地域紛争や大国間対立が世界を覆っている。武力の論理は「死との契約」の最も端的な形である。軍事力を強化し、抑止力に依存する政策は一見して合理的に見えるが、その背後には必ず弱き者の犠牲がある。民間人の命、避難を強いられる人々の生活、兵士として徴集される若者たち。戦争は常に弱き者の血を糧に成立する。イザヤが告げた「死との契約」は、まさに現代の戦争政策を指し示しているように思われる。
私たちの国、日本もまた戦後八〇年を経て、平和憲法の理念が揺さぶられている。安全保障の名のもとに軍事力の強化が進み、社会には「戦える国」としての幻想が漂う。だが、信仰者として問われているのは、この流れにどう抗うかである。ヘブライ書は「揺り動かされるもの」を見抜き、「揺るがぬ国」に立つよう招く。戦争の論理は必ずや崩れる。しかし、弱き者に寄り添う共同体こそ、永遠に残る。
第二に、孤独と孤立の問題である。現代社会は情報技術の進展によってつながりを強調するが、実際には人々はますます孤立している。高齢化社会における独居、都市における人間関係の希薄化、SNSの中での見せかけのつながり。人は群衆の中で孤独を深めている。この現実は、ルカ福音書における「狭き門」の教えを思い起こさせる。広い門を選ぶことは容易であり、群衆の流れに従うことは安心感を与える。しかし、その流れの中で人は自己を見失い、孤立する。狭き門を選ぶとは、むしろ孤独に見える道であり、しかしそこにこそ真の交わりが待っている。信仰共同体は、孤立に抗い、真の交わりを育む場である。
第三に、差別と排除の構造である。人種、民族、ジェンダー、障害、貧困。あらゆる次元で差別は形を変えて存在し続けている。とりわけ、経済的格差は人間の尊厳を深く蝕んでいる。強き者は市場の自由の名の下に利益を独占し、弱き者は労働の不安定と生活の困窮に押し込まれる。この現実は、まさに「強肉」の論理の支配である。だが、信仰はこの論理を拒む。ヘブライ書が語る「シオンの都」には、諸長子の名が記されている。そこには差別も序列もない。すべての者が神の子として招かれる。したがって、教会が差別と排除に抗することは、単なる社会的運動ではなく、神の国を地に映し出す聖なる務めである。
第四に、気候危機と環境の問題である。地球温暖化の進行、異常気象、災害の頻発。これらはすべて、人間の貪欲と無責任の帰結である。強者は資源を独占し、弱き者が被害を最も受ける。島嶼国家の人々、農村の小規模農家、経済的に脆弱な人々。環境問題は単なる科学の問題ではなく、弱き者に寄り添う信仰の課題である。聖書における「創造の秩序」を思うとき、環境の破壊は神の基礎を踏みにじる行為である。したがって、気候正義を求めることは、狭き門を通る信仰の応答である。
第五に、性の多様性をめぐる課題である。現代社会は、LGBTQ+を含む多様な性のあり方を可視化してきたが、それに対する差別や排除も根強く残る。教会においても、この問題は避けて通れない。強者の論理は「正常」と「異常」という線引きを設け、弱き者を外に追いやる。しかし、福音はその線を破る。イエスは「狭き門」を示しながらも、罪人や取税人と共に食卓を囲み、律法の線引きを超えて交わりを築かれた。したがって、性の多様性を包摂する教会の姿勢は、福音そのものの実践である。弱き者とされてきた人々に寄り添い、その尊厳を共に担うとき、教会は「揺るがぬ国」の一端を地に現す。
これら五つの課題──戦争、孤立、差別、環境、性の多様性──はいずれも「強肉」の論理が支配する現実を映し出している。そして、これに抗することこそ、信仰者の召命である。狭き門を通るとは、強者に従うのではなく、弱き者と共に歩む選択をすること。ヘブライ書のビジョンは、今日の社会において公共神学として具体化される。信仰は私的慰めではなく、公共善を形づくる力である。
この意味で、私たちは「公共倫理」としての信仰を再確認する必要がある。公共倫理とは、社会のすべての人に関わる善を追求する責任を意味する。戦争に抗し、孤立に抗し、差別に抗し、環境破壊に抗し、多様性を拒む論理に抗する。これらの応答を通じて、信仰は単なる理念ではなく、現実を変える行為となる。そしてその行為こそが、弱き者に寄り添う姿勢であり、狭き門を通る実践である。
Ⅳ章 教会共同体の応答──祈り・赦し・証し・召命
ここまで私たちは、イザヤの預言における「死との契約」と「基礎の石」、ヘブライ書の「揺り動かされるもの」と「揺るがぬ国」、そして福音書における「狭き門」の教えをたどりながら、「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」という主題を深めてきた。だが、この神学的洞察を実際の生活と共同体にどう結びつけるかが問われている。信仰は個人の内面にとどまるものではなく、共同体において形を成し、社会のただ中で証しされる。そのために、教会の応答は四つの柱──祈り、赦し、証し、召命──として構造化されねばならない。
一 祈り──呻きと賛美の交差点
まず第一は祈りである。祈りは、弱き者に寄り添う第一の行為である。なぜなら、祈りは人間の言葉を超えて呻きを神に差し出す場だからである。戦争に苦しむ人々、孤独に苛まれる人々、差別される人々、環境破壊の犠牲となる人々、性の多様性ゆえに排除される人々──その呻きを、教会は祈りの中で担い上げる。祈りは単なる慰めの言葉ではなく、連帯の行為である。私たちは主の祈りにおいて「御国が来ますように」と祈るが、それは弱き者に寄り添う神の国の現実を、この地に現してくださいという叫びにほかならない。
アングリカンの伝統において、日々の祈祷と聖餐はこの呻きと賛美の交差点である。詩編を唱えるとき、私たちは古代イスラエルの嘆きを自らの口にのせ、同時に賛美の歌をも口にする。教会の祈りは、弱き者の呻きと神の栄光とを結び合わせる空間である。ここで信仰共同体は、神の御前にすべてを差し出す勇気を養う。
二 赦し──和解の霊的実践
第二は赦しである。赦しは、弱き者と共に生きるために不可欠な霊的実践である。戦争や差別の傷は、単なる制度改革だけでは癒えない。人と人との間に築かれた壁は、赦しを通じてのみ取り除かれる。福音書の狭き門とは、しばしば赦しの門でもある。自らのプライドを捨て、相手を赦し、自分自身も赦されることを受け入れるとき、初めてその狭い戸口を通ることができる。
赦しは決して容易ではない。被害を受けた人に「赦せ」と迫ることは暴力になりかねない。しかし教会共同体は、赦しを可能にする空間を提供する。聖餐の食卓はその中心である。敵であった者も、差別する側と差別される側も、同じパンと杯を分かち合うとき、赦しの霊的力が働く。赦しとは「強肉」の論理を破る最も急進的な行為である。
三 証し──公共善を生きる実践
第三は証しである。証しとは、信仰を社会のただ中で可視化することである。戦争に抗して平和を語ること、孤独に抗して共同体を築くこと、差別に抗して包摂を実践すること、環境破壊に抗して創造を守ること、性の多様性を拒む声に抗して尊厳を証しすること。これらはすべて、教会が担う証しである。
ここで重要なのは、証しは単なる言葉の表明ではなく、具体的な行動であるということだ。飢えた者にパンを分け与え、難民を受け入れ、差別される者と共に立ち、環境を守る運動に加わる。証しは、日常の小さな選択にも現れる。例えば、消費生活を環境に配慮する形に変えること、孤立する人に声をかけること、偏見に基づく発言をただすこと。証しは日々の生活の中で積み重ねられるものである。
アングリカンの公共神学は、教会の存在意義をここに見出す。信仰は私的領域に閉じ込められるものではなく、公共善に仕えるものだ。したがって証しは、政治・経済・社会の領域においてもなされねばならない。これは「狭き門」を通る証しである。広い門は沈黙と無関心である。しかし狭い門は、声を上げること、行動することを求める。
四 召命──弱き者に寄り添う生き方の選択
第四は召命である。教会はすべての信徒を召命へと招く。召命とは、特定の聖職だけを意味しない。むしろ、日々の生活の場において弱き者に寄り添う生き方を選ぶことそのものである。看護師や教師、労働者や経営者、家庭を支える者、学問に携わる者──それぞれが自分の場において召命を果たす。召命とは「あなたの隣人を愛せ」という声に応答することである。
とりわけ今日、社会の「強肉」の論理は巧妙である。効率、利益、競争、自己責任といった言葉に覆われている。しかし召命は、それに抗して「寄り添う」選択を求める。隣人の痛みに気づき、その声に耳を傾け、自分の歩みを変える。これが召命である。
召命はまた、共同体としての教会において具体化される。信徒が互いに支え合い、祈り合い、共に行動する。共同体全体が「狭き門」を通る群れとなるとき、召命は形を持つ。そこにこそ「揺るがぬ国」の先取りがある。
以上の四つの柱──祈り、赦し、証し、召命──を通して、教会は現代社会に応答する。祈りによって呻きを担い、赦しによって和解を実践し、証しによって公共善を形にし、召命によって日常に福音を生きる。これこそが、「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」教会共同体の姿である。
Ⅴ章 神学的統合──典礼における狭き門と揺るがぬ国
ここまで、イザヤの「死との契約」と「基礎の石」、ヘブライ書の「揺り動かされぬ国」、そしてルカ福音書の「狭き門」という三つの聖書箇所を読み解きながら、現代社会における「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」という召命を考えてきた。今、この諸要素を神学的に統合し、典礼と祈祷の現実に接続することで、信仰の歩みをさらに深めたい。
一 狭き門の神学的意義
ルカによる福音書一三章二四節で、イエスは「狭い戸口から入るように努めよ」と命じる。これは単なる比喩ではなく、共同体の生き方全体に関わる召命である。狭き門を通るとは、特権や重荷を下ろし、弱き者と共に歩む道を選ぶことを意味する。強き者は広い道を進み、自らを守る契約を誇るが、それはやがて崩れる。狭き門は困難に見えるが、その先には神の国の食卓が広がっている。すなわち狭き門とは、信仰と倫理、霊性と社会的実践を統合する象徴である。
二 ヘブライ書における「揺るがぬ国」と典礼
ヘブライ書は、信仰者が「揺り動かされない国を受ける」と宣言する(一二・二八)。この国は目に見える帝国や国家ではなく、典礼においてすでに先取りされる霊的現実である。聖餐において私たちは、天上のエルサレムに連なる群れに加わる。祭壇のパンと杯は、シオンの都の喜びをこの地に現す。典礼における「聖なるかな」の賛美は、揺るがぬ国の響きを先取りするものである。
ここで重要なのは、典礼が単なる象徴ではなく、実際に共同体を形づくる行為であるという点である。聖餐を分かつとき、私たちは狭き門を通る群れとして再び召される。強者と弱者の隔たりを越え、共に一つのパンを食することで、教会は弱き者に寄り添う群れとなる。典礼は倫理を生み、霊性を形づくる。典礼はまた、社会に向けて証しする力を育む。
三 祈祷における霊的適用
公祈祷書における祈りは、神学的統合の最も具体的な形を示す。「全能の父よ、すべての人の心は御前に開けており…」という祈りは、信仰の普遍性と公共性を表現する。祈祷は、信仰を私的領域に閉じ込めず、社会全体に関わるものとして差し出す行為である。そこでは、戦争や差別、環境破壊の現実もまた祈りの中に抱え込まれる。教会は祈りによって、弱き者の呻きを神に差し出し、また赦しと和解の霊を求める。祈祷は信仰の霊的適用の場であり、同時に公共神学の実践である。
四 神学的統合としての「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」
ここで改めて主題を神学的に統合すると、「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」とは、神の国の秩序を地に映し出すことである。イザヤが語る「基礎の石」、ヘブライ書が語る「揺るがぬ国」、イエスが語る「狭き門」。これらはすべて、強者の論理を超え、弱き者と共に歩む共同体を指し示す。神学的に言えば、それは「キリストにおける逆転」である。十字架において、強き者の暴力は敗北し、弱き者の命が勝利する。十字架は狭き門であり、同時に揺るがぬ国の基礎である。
この逆転の神学は、典礼と祈祷において繰り返し経験される。聖餐の食卓に集うとき、私たちは強者の論理を超えて一つとなる。祈祷において弱き者の呻きを担うとき、私たちは神の国の倫理を地に現す。こうして典礼と祈祷は、信仰の霊的適用であり、神学的統合の場である。
五 霊的適用としての信徒の歩み
最後に、この神学的統合を信徒の歩みに適用するならば、それは「狭き門を通る日常の実践」となる。家庭において、職場において、社会において、私たちは強者の論理に従うか、弱き者に寄り添うかを選び続ける。これは壮大な理念ではなく、小さな選択の積み重ねである。消費生活における選択、言葉の使い方、隣人への配慮。これらがすべて「狭き門」を通る行為である。揺るがぬ国は未来に待つだけでなく、こうした日常の実践において先取りされる。
このように、神学的統合は単なる理論の集約ではない。それは典礼において形を持ち、祈祷において実践され、信徒の日常において霊的適用として現れる。「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」とは、神学と典礼と生活の三つを貫く霊的筋道なのである。
結語 祈りと希望の余韻──揺るがぬ国を慕い求めて
聖霊降臨後第十一主日の聖書箇所は、私たちに厳しく、しかし深い慰めをもって語りかけている。イザヤは「死との契約」に頼る指導者を糾弾し、神の据えられる「基礎の石」に信頼せよと呼びかけた。ヘブライ書は「揺り動かされるもの」と「揺り動かされないもの」を対比し、信仰者を「揺るがぬ国」の継承者として励ました。そしてルカ福音書は、群衆に向かって「狭き門から入れ」と語るイエスの声を伝える。これら三つの聖書の声は、共にひとつの調べを奏でる──それは「強肉に抗し、弱肉に寄り添う」という信仰の旋律である。
この旋律は、歴史を超えて響き続ける。古代の帝国の暴力にも、現代の国家の軍事力にも、経済の強者の論理にも、それは屈しない。揺り動かされる秩序の中で、揺るがぬ国の調べは静かに、しかし確かに響く。その響きに耳を傾ける者は、強者に迎合するのではなく、弱き者に寄り添う勇気を与えられる。
この勇気は、しばしば孤独に見える。狭き門は多くの人が避ける道だからである。しかし、信仰者は孤独ではない。祈祷において、私たちは天上の群れと共に賛美し、聖餐においてはすでに勝利の群れに連なる。そこでは、生者と死者、強者と弱者、あらゆる国と民族がひとつに結ばれる。教会はこの礼拝において、揺るがぬ国の予兆を日ごとに受け取り、再び世へと遣わされる。
思えば、この八月という季節に私たちが思い起こすのは、日本の敗戦と戦争の記憶である。戦後八〇年を迎えた私たちの社会は、戦争の記憶を風化させ、再び「死との契約」に傾く危うさを抱えている。しかし、信仰者としての私たちは、その流れに逆らい、弱き者の血によって築かれる安全保障の虚しさを告発しなければならない。私たちが慕い求めるのは、戦争に備える国ではなく、平和を実践する共同体である。揺るがぬ国の調べは、この告発と希望の中に響く。
この説教の終わりにあたり、祈りを捧げたい。
神よ、あなたは時代を越えて語り続け、私たちを狭き門へと招いておられます。どうか、私たちが強者の広い道に惑わされず、弱き者と共に歩む道を選び取ることができますように。あなたが据えられた基礎の石に立ち、揺るがぬ国を慕い求める群れとして、世に遣わしてください。
戦争の犠牲となったすべての魂を憶え、孤独の中で涙する者を抱き、差別と排除に苦しむ者を守り、環境の破壊に嘆く者を慰め、性の多様性のゆえに拒まれる者に尊厳を与えてください。あなたの国においては、すべての者が一つの民として受け入れられます。その現実を、この地において少しでも映し出すことができますように。
主イエス・キリストよ、あなたは十字架という狭き門を通り抜け、復活という揺るがぬ国を開いてくださいました。どうか私たちもまた、あなたに従い、強肉に抗し、弱肉に寄り添う歩みを全うすることができますように。
聖霊よ、私たちを日ごとに新たにし、祈りと赦しと証しと召命の道へと送り出してください。揺り動かされる世界のただ中で、揺るがぬ国を指し示す証人として立ち続けることができますように。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン。