教会時論 二〇二五年八月二十四日 (聖霊降臨後第十一主日) 「不安の社会から共生の社会へ」

はじめに 不安の社会から共生の社会へ
この夏、日本社会はまた新たな岐路に立たされている。外国人住民をめぐる言説がかつてないほど先鋭化し、根拠の乏しい不安が声高に叫ばれる一方で、食料をめぐる不安や資源の浪費も私たちの暮らしを揺さぶっている。不安は社会を閉ざし、分断を生み出す。だが同時に、それは私たちがどのように他者と関わり合うかを根源的に問い直す契機でもある。
本日与えられた聖書の日課は、まさにこの不安と共生の狭間を照らしている。イザヤは「嘲りをもって支配する者よ、主の言葉を聞け」と語り(イザヤ28章14節)、人間が恐怖や嘲りによって社会を導こうとする危険を告発した。ヘブライ書は「あなたがたは…シオンの山、生ける神の都に近づいている」と告げ(12章22節)、信仰の共同体にこそ揺るぎない基盤があると教える。そして福音書は「狭い戸口から入るよう努めよ」と促す(ルカ13章24節)。それは容易な道ではなく、他者を排斥する誘惑に抗し、共に歩む困難な道を選ぶことを意味している。
教会は、この狭い戸口をあえて選び取る共同体でありたい。隣人を恐れるのではなく知り、浪費に加担するのではなく分かち合いを実践する。そこにこそ、神の国を先取りする共同体の姿がある。今日の教会時論では、その視座から三つの社会課題に目を向けたい。
Ⅰ ビザ停止要望と隣人を「知る」責任
大野元裕埼玉県知事が、日本とトルコの相互査証免除協定の一時停止を求めた。難民申請を繰り返す人々への不安が理由とされるが、治安悪化の事実が乏しいまま、特定の国籍を名指しする発言は、誤った先入観を助長しかねない。地域に暮らすクルド人への差別がSNSで拡散している現状を思えば、こうした政治的言動の影響は軽くない。
イザヤ書は「嘲りをもって支配している者よ、主の言葉を聞け」(28章14節)と語る。根拠の薄い恐怖を言葉にし、それをもって人々を導こうとする権力者の姿勢は、まさに「嘲りの支配」に似ている。恐怖によって共同体を守ることはできない。
数字が示す現実は冷静だ。県警の統計を見ても、外国人による犯罪が急増しているわけではない。むしろ問題は、生活習慣の違いから生じる摩擦や、十分な支援体制が整っていないことにある。全国知事会が日本語教育や生活支援の強化を国に求めているのは当然のことであり、それこそが不安を和らげる道筋であろう。
福音書は「狭い戸口から入るよう努めよ」(ルカ13章24節)と促す。私たちが生きる社会において「狭い戸口」とは、安易な排除ではなく、互いを理解し合う困難な道を指しているのではないか。排外的な発想は容易だが、真の共生は知ること、語り合うことから始まる。
地域の祭りに参加し、子どもの教育を共に担い、日常の苦楽を分かち合う――そうした積み重ねが、多文化社会を築く力となる。外国人は「労働者」ではなく、共に地域を形づくる隣人である。隣人を知ることを怠り、恐怖をあおる言説に身を委ねるなら、私たちは自らをも狭い世界に閉じ込めてしまうだろう。
ヘブライ書は「神は焼き尽くす火である」(12章29節)と告げる。偽りの安心感や差別の言説は、必ず神の裁きの火に照らされる。教会に集う私たちは、その火を恐れるのではなく、むしろ真実を見抜く光として受けとめたい。不安をあおるのではなく、互いを知り、受け入れ、共に歩む社会を志すことこそ、福音に従う生き方である。
Ⅱ 政府の外国人政策と「ともに暮らす」社会の課題
政府は「外国人との秩序ある共生社会推進室」を設けた。だが、その実態は規制強化の機関にすぎないとの指摘が相次いでいる。「不法滞在者ゼロプラン」や在留審査の厳格化といった方針は、表向き「安全・安心」を唱えつつも、外国人への排除圧力を強める危うさを抱えている。埼玉県知事のビザ停止要望と響き合うように、日本社会は「ともに暮らす」理念よりも「不安の除去」を優先してしまってはいないか。
しかし現実は、外国人抜きには日本社会は成り立たない。労働力としてだけではなく、地域の住民として、学校や職場、家庭や地域活動において不可欠な存在である。それにもかかわらず、国は長らく「移民政策」を回避し、場当たり的な対応に終始してきた。制度の不在が、むしろ軋轢を生み、排外的な言説を温存させている。
旧約の預言者イザヤは「裁きは測り縄となり、正義は重り縄となる」(28章17節)と語った。国の政策が正義に立脚しなければ、それは人々を測り違え、重さを取り違えることになる。外国人政策は「治安」や「負担感」だけでなく、共に生きる正義の秩序を基準に据えるべきである。
地域の現場では、日本語教育の不足、生活習慣の違いへの誤解、行政支援の不十分さが課題として積み重なっている。これらは放置すれば不満や摩擦を生むが、解決策は排除ではなく、教育と支援、対話と交流にある。民間やボランティアに依存するのではなく、公的責任として国が担うべきであろう。
ルカ福音書は「そこにいる人々は、先にいる人が後になり、後にいる人が先になる」(13章30節)と告げる。社会の中で周縁と見なされる人々が、神の国においては先頭に立つ――この逆転の論理は、私たちの社会政策にも深く問いかけている。外国人を「後ろに置く」ことは、神の秩序に背く行為ではないか。
「ともに暮らす」とは、単なる共存ではない。そこには互いを尊び、責任を分かち合う姿勢が必要である。外国人を社会の周縁に押しやる政策から脱却し、真に共生の理念を実現することこそ、今の日本に求められている道である。
Ⅲ 食品ロス削減と神の創造への責任
本来食べられるのに廃棄される「食品ロス」は、二〇二三年度で約四六四万トンに達した。国民一人当たりに換算すれば年間約三七キログラム。世界的な食料危機や地球温暖化が進行するなか、これは倫理的に看過できない現実である。米不足や価格高騰が報じられる今こそ、私たちの食の在り方が問われている。
原因の一つは商習慣にある。「製造日から賞味期限までの三分の一を過ぎたら納品できない」という慣行は、食べられる食品を大量に廃棄してきた。政府や公正取引委員会は「二分の一」への緩和を促しつつあるが、なお課題は残る。コンビニの定価販売原則や過剰な販促策も、廃棄を生む要因だ。AIを用いた需要予測や値引き販売の拡大は、より持続可能な社会へと転換する鍵となるだろう。
しかし忘れてはならないのは、食品ロスの半分は家庭から生じているという事実だ。日常の小さな選択が大きな差を生む。賞味期限が迫った商品を敢えて手に取る。食卓に残さず食べ切る。これらの積み重ねが資源を守る力となる。
ヘブライ書は「われわれの神は焼き尽くす火である」(12章29節)と告げる。これは単に恐れを煽る言葉ではない。創造されたものを浪費し、命の糧を粗末に扱う私たちの姿を照らし出す裁きの火でもある。神の被造世界を壊すのは、遠い未来の誰かではなく、いまの私たちの日常の習慣にほかならない。
福音書は「そこにいる人々は…後にいる人が先になる」(ルカ13章30節)と告げる。食卓の片隅で廃棄される食物、貧困のために食に届かない人々――その「後に置かれたもの」が、神の国では先にある。食品ロス削減は単なる経済効率の課題ではなく、隣人愛と神の正義に関わる問題である。
私たちが食をどう扱うかは、神の創造にどう応答するかを示す行為である。捨てられるはずの食を生かし、隣人と分かち合う社会こそ、神が望まれる共生の形であろう。
結語 共に歩む社会を築くために
本日の三つの課題――外国人住民をめぐる不安の言説、政府の外国人政策、そして食品ロスの問題――はいずれも現代日本が直面する社会の分岐点を示している。そこには共通の問いがある。それは「私たちは他者をどのように受け入れ、共に生きるか」という問いである。
不安をあおり、隣人を排除することは容易である。しかしそれは社会を閉ざし、自らの可能性を狭めるだけだ。聖書は繰り返し、不安に基づく支配や浪費の罪を告発してきた。イザヤは「裁きは測り縄となり、正義は重り縄となる」と語り、ルカ福音書は「狭い戸口から入れ」と私たちを招いている。その戸口は、排除ではなく、忍耐と対話と赦しによって開かれる。
食品を粗末に扱わず、異文化の隣人を恐れず、共に暮らすための制度を整える。これらは一見異なる課題に見えても、実は同じ方向を指している。それは、神の創造の恵みに感謝し、隣人を愛し、未来の世代へ責任を果たすという道である。
「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5章17節)。不安や偏見に閉ざされた古い社会から、共に歩む新しい社会への移行は、私たち一人ひとりの選択にかかっている。教会はその先頭に立ち、排除ではなく共生、浪費ではなく分かち合いを実践する共同体でありたい。