聖霊降臨後 第十主日 説教草稿「忘却の時代に投げ込まれる火 ― 神の言葉と記憶の力」

【教会暦】
聖霊降臨後 第十主日(特定十五) 二〇二五年八月十七日
【聖書箇所】
旧約日課 :エレミヤ書 二三章二三〜二九節
使徒書 :ヘブライ人への手紙 一二章一〜七節(八〜一〇節)、一一〜一四節
福音書 :ルカによる福音書 一二章四九〜五六節
【本文】
神の言葉は忘却を砕く火として
敗戦から八〇年を迎えた八月十五日が過ぎた。戦争の記憶は年を重ねるごとに遠のき、戦没者や被害者の声を直接に聴いた世代は急速に減少している。その沈黙の中で、歴史の記憶はしばしば美化され、あるいは意図的に修正され、真実はかき消されがちである。だが、忘却は単なる記憶の欠落ではない。それはしばしば新しい偶像を生み、過ちを再生産する危険を孕んでいる。
エレミヤは主の言葉を「火」と呼び、「岩を砕く槌」と喩えた。人々が自分に都合のよい夢や幻を語り、真理を曖昧にするとき、神の言葉はそれを焼き尽くし、打ち砕く。戦争責任や加害の歴史を忘却しようとする言説に対しても、神の言葉は妥協せず、鋭く突き刺さる。忘却の時代にあって、教会はこの「火の言葉」を語り続ける使命を持つ。
ヘブライ書は、信仰の先人たちを証人の群れとして思い起こしつつ、「忍耐をもって走ろう」と呼びかける。記憶を継承することは、信仰の競走を走り抜く力となる。平和を追い求めることは、単なる理想ではなく、信仰の歩みの本質に属している。忘却が広がる今こそ、教会は「記憶の担い手」として召されている。
そして福音書でイエスは語る。「わたしが来たのは地に火を投ずるためである」。この火は破壊の炎ではなく、真理と裁きと聖霊の火である。火は人々を分け、時に不和を生じさせる。しかしその不和は、虚偽と妥協を拒むがゆえに生じる。平和は沈黙と忘却によってではなく、真理を語る火によって守られる。
敗戦八〇年の今、日本の教会は問われている。忘却の時代にあって、どのようにして神の火の言葉を語り、未来を照らすことができるのか。恐れることなく証しする「小さな群れ」として、再び立ち上がるべきときが来ている。
Ⅰ章 火の言葉と忘却の壁 ― エレミヤ二三章二三〜二九節
預言者エレミヤが生きた時代は、国の存続が脅かされ、政治も宗教も混乱していた。人々は平和の言葉を欲し、都合のよい幻を追い求めた。預言者を名乗る者たちの多くは、民の耳に心地よい言葉を語り、国が危機に瀕している現実を直視しようとはしなかった。彼らは「平和だ、平和だ」と唱えながら、実際には平和を守る力を持たず、人々を破滅に導いた。エレミヤはその虚偽を鋭く告発し、主の言葉は火のように偽りを焼き尽くすと語った。
「わたしの言葉は火のようではないか。岩を砕く槌のようではないか」(二三章二九節)。この比喩は、神の言葉の二重の性格を示している。火は燃やし尽くし、槌は砕き壊す。どちらも破壊的なイメージを持つが、それは破壊のための破壊ではなく、虚偽を取り除き、真理を露わにするための裁きの力である。火は同時に精錬の象徴でもある。金属が火によって純化されるように、神の言葉は人間の言葉や歴史の解釈を純化する。
戦後八〇年を迎えた日本の状況は、エレミヤの時代と驚くほど響き合う。戦争責任や加害の歴史を忘却し、美化しようとする言説は、まさに「虚しい幻」を語る偽預言者の姿に重なる。彼らの言葉は人々の耳に心地よく響く。罪や責任を直視することなく、「あの戦争には崇高な意義があった」と語る言説は、民族的自尊心を慰め、危うい安心感を与える。だがそれは、再び過ちの道を歩ませる力を持つ。忘却は、平和の礎を掘り崩す岩のように堅く固まる。そこに神の言葉の火と槌が投じられ、打ち砕かれる必要がある。
エレミヤの預言は、神の遍在性の宣言から始まる。「わたしは近くにいる神ではないか、遠くにいる神でもあるのではないか」(二三章二三節)。人間の歴史や政治の舞台がどれほど閉ざされた空間に見えても、神はそこにおられる。忘却が人々を支配しても、神は忘れない。民が過去の罪を覆い隠しても、神の目はそれを見抜いている。この遍在の神の前では、いかなる歴史修正も虚しく崩れ去る。
ここで注目すべきは、エレミヤの言葉が単なる告発ではなく、希望の可能性をも内包している点である。火と槌がもたらすのは終焉ではなく、新しい始まりである。偽りが打ち砕かれた後に残るのは、純化された真理であり、そこから新しい共同体の歩みが始まる。日本における戦争の記憶も、忘却に抗するだけでなく、正しい記憶の共有を通じて、未来の平和を築く力に変えられる。これは「破壊と創造」という神の言葉のダイナミズムである。
さらに、エレミヤの批判は宗教的権威者に向けられていた。彼らは神の名を語りながら、自らの利得と安定のために民を欺いた。この姿は、戦前の日本における宗教界の沈黙や協力の歴史を想起させる。多くの教会や宗教団体は、国家神道や軍国主義に同調し、戦争遂行に加担した。その過去を忘れることは、再び同じ過ちを繰り返す危険を孕む。教会はエレミヤのように、権力に迎合する誘惑を拒み、火の言葉を語る責務を担わなければならない。
「火のような言葉」はまた、個人の内面にも突き刺さる。私たち一人ひとりが、どのように記憶と向き合っているかを問いかける。家族や地域に残された戦争体験をどう受け止め、語り継ぐか。あるいは、都合のよい物語だけを選び取り、不都合な真実を無視していないか。神の言葉は、私たちの内に潜む忘却の壁を砕き、真実を直視する勇気を与える。これは単に歴史の問題ではなく、信仰の問題である。忘却は罪を覆い隠す行為であり、記憶は悔い改めへの入り口である。
エレミヤの預言が告げる「火」と「槌」は、戦後八〇年の日本において、教会が語るべき言葉の象徴である。歴史修正主義や忘却の風潮に抗して、教会は沈黙せず、痛みを伴う真理を語らなければならない。その真理は、人々を不安にさせ、時に分裂を引き起こすかもしれない。しかし、それこそが神の言葉の働きである。平和は虚偽の上には築けない。真理を直視することからしか、和解と平和は生まれない。
Ⅱ章 忍耐をもって走る ― ヘブライ人への手紙一二章に聴く
ヘブライ人への手紙一二章は、信仰者の歩みを「競走」に譬える。すでに十一章で語られた信仰の証人たち――アブラハム、モーセ、ギデオン、ダビデ――は、歴史の中で神の約束を信じ、しばしば迫害や困難に耐えつつ歩んだ人々であった。彼らの物語は「雲のように私たちを取り囲んでいる」と著者は語る。つまり、信仰者は孤独に走るのではなく、先人の証しに囲まれ、彼らの視線に見守られながら走るのである。
「私たちも一切の重荷とまつわりつく罪をかなぐり捨て、忍耐をもって走ろう」(一二章一節)。この呼びかけは、敗戦八〇年を迎えた日本の教会にとって極めて示唆的である。戦争の記憶を曖昧にし、歴史の罪責を背負うことを避けるのは、人間にとって心地よい「重荷の放棄」である。しかしヘブライ書は、真の信仰の競走には「重荷を担う忍耐」が必要だと告げる。重荷を捨てるのではなく、罪の記憶と向き合いながら走ることこそが、平和を守る道である。
著者はさらに、信仰者の目を「信仰の創始者であり完成者であるイエス」に注がせる。イエスは十字架の恥をも軽蔑し、忍耐によって座に着かれた。つまり、信仰の競走は単なる精神的鍛錬ではなく、十字架の主に倣う生き方である。十字架は人間の暴力と忘却の極みであった。しかし神はそれを復活の命に変えられた。日本の戦争の記憶もまた、痛みと暴力の歴史を含んでいるが、そこに留まることなく、復活の希望へとつなげることができる。
著者はこの競走を「懲らしめ」とも語る。懲らしめは苦しく、時に耐えがたい。しかしそれは愛する子に与えられる訓練であり、最終的には義と平和の実を結ぶ(十一節)。戦後八〇年、日本社会が歴史の記憶に向き合うことは、まさに神の「懲らしめ」であると言える。痛みを伴うが、それを通して義と平和の実が実る。記憶を放棄することは、訓練を拒むことに等しい。忘却は一時の安堵を与えるが、そこからは実が生まれない。
「すべての人との平和を追い求め、また聖なる生活を求めなさい」(一二章一四節)。この言葉は、戦後日本が憲法九条を掲げてきた歩みと響き合う。平和を追い求めるとは、単に戦争をしないという消極的立場ではなく、積極的に和解を築き、正義を実現する営みである。これは忍耐を要する道である。国際社会における緊張や国内の分断に直面する中で、平和を求め続けることは容易ではない。しかし、それが信仰の競走の本質である。
ここで「雲のような証人」という表現に改めて注目したい。戦後八〇年を迎え、戦争体験者の世代が急速に減少する中で、証人の声は歴史の中へと消えつつある。しかし信仰の目で見るならば、その証人たちはなお「雲」として私たちを囲んでいる。戦争の惨禍を生き延び、平和を祈り続けた人々の声は、今も教会を取り囲み、忘却に抗う力を与える。私たちは彼らの記憶を受け継ぎ、「ともに走る者」として生きることが求められている。
信仰の競走には終わりがある。それは神の国における完成である。だが、その完成を待つ間、教会は「走り続ける共同体」として召されている。走るとは、単に未来に向かって急ぐことではなく、記憶を抱え、忍耐をもって歩むことである。歴史の真実を直視し、過去の過ちを認め、和解を求めること。それは重いが、そこにこそ義と平和の実が生まれる。
Ⅲ章 忘却と歴史修正の時代に ― 信仰と公共倫理の交差点
敗戦から八〇年。戦争の惨禍を直接に体験した世代はすでに少なくなり、証言を聞ける機会は急速に失われている。その空白を埋めるように、歴史修正主義的な言説が力を増しつつある。「日本は侵略戦争をしたのではない」「自衛のための戦争だった」「むしろ植民地支配に善政を敷いた」――こうした言葉は、八〇年前には考えられなかったほど大手を振って語られている。だが、それは歴史的事実をねじ曲げるだけでなく、犠牲者の記憶を二度殺すことになる。忘却は単なる無知ではなく、倫理的な選択であり、罪である。
エレミヤが「偽りの預言者」の夢や幻を厳しく糾弾したのは、人々が都合の良い言葉を欲し、真実から目を背けたからであった。現代の日本社会において、耳に心地よい歴史物語は、国民の誇りや安心感を提供するかもしれない。しかしそれは、火のような神の言葉によって打ち砕かれるべき虚構である。真実を直視することなしに平和は成り立たない。戦後日本が平和憲法を掲げてきた歩みは、まさにこの「火の言葉」によって守られてきたのである。
ヘブライ書一二章が「忍耐をもって走ろう」と呼びかけるのは、歴史を担う世代ごとの責任を指し示す。信仰の走者はバトンをつなぎながら走り続ける。戦後を生きた世代は、戦争の記憶を証言として次世代に手渡してきた。だが、そのバトンが弱まりつつある今、私たちはどう応えるべきか。記憶を失うことは、走るべき道を失うことに等しい。公共倫理の観点から言えば、歴史の記憶は社会の共同善に不可欠であり、忘却は共同体の存立基盤を危うくする。
ルカ福音書一二章でイエスは「わたしは地に火を投ずるために来た」と語る。この火は分裂を引き起こす。家族の間にすら不和を生む。しかしそれは、真理と虚偽の間に引かれる必然の境界線である。戦争責任を直視しようとする者と、それを否定する者の間に亀裂が生じるのは避けられない。だが教会は、その分裂を恐れるのではなく、むしろ必要な「裁き」として受け止めるべきである。真理が語られるとき、人は二つに分かれる。だがその分裂こそ、平和が安易な沈黙や忘却の上に築かれない証拠なのである。
現代日本におけるもう一つの課題は、「安全保障」という名のもとに軍備増強が当然視されつつあることである。戦争体験の記憶が薄れるほどに、人々は軍事力こそが平和を守ると信じやすくなる。だがヘブライ書は「平和を追い求めよ」と語る。ここでいう平和は、抑止力による安定ではなく、義と和解によって実現する平和である。信仰者は、この区別を見失ってはならない。戦争の記憶を忘却する社会は、平和の意味そのものを誤解し、力による支配を「平和」と呼び始める危険を孕む。
忘却はまた、国際関係にも影を落とす。過去の加害を否定することは、隣国との和解を拒むことであり、国際社会の信頼を失うことでもある。公共倫理の観点からすれば、歴史の記憶は国家間の平和の基盤であり、それを共有する努力は国際的責任である。戦後日本が果たしてきた役割は、痛みを記憶しつつ平和国家として歩むことだった。これを忘れることは、世界に対して約束を破ることに等しい。
信仰共同体としての教会は、この忘却の時代に二重の使命を担う。第一に、「記憶の守り手」として、戦争の悲惨さと加害の事実を語り継ぐこと。第二に、「希望の証人」として、未来に向かう平和のビジョンを示すことである。真実を直視することは痛みを伴うが、その痛みを避けることは信仰の競走を放棄することになる。むしろその痛みを担うことによって、和解と平和の実が結ばれる。
エレミヤが偽りを焼き尽くす火を語ったように、イエスが真理の火を投じたように、教会は忘却の壁に火を投げ込まなければならない。その火は、分裂や不和を生むかもしれない。しかしそれは、真理と平和のために避けられない裂け目である。敗戦八〇年を迎えた今、日本の教会が語るべき言葉は、「忘れるな」「恐れるな」「走り続けよ」という三つの呼びかけである。
Ⅳ章 忘却を砕く共同体 ― 祈り・赦し・証し・召命の応答
戦後八〇年、日本の社会は記憶の岐路に立っている。戦争の証言は年々少なくなり、やがて直接の体験を語る声はほとんど消えてしまう。その時代に教会共同体はどのように応答するのか。ここで必要なのは、単なる追悼行事ではなく、聖書に基づいた祈りと赦し、証しと召命を通して、忘却の力を打ち砕き、記憶を未来へと橋渡しする営みである。
一 祈り ― 記憶を神の御前に差し出す
祈りは、忘却に抗する第一の営みである。人間の記憶は脆く、世代を超えて受け渡すには限界がある。だが祈りは、記憶を神の御前に差し出し、聖霊の働きによって新たに刻む行為である。礼拝において「世界の平和のために祈る」とき、そこには戦争犠牲者の記憶も含まれる。教会が祈り続けることは、社会が忘れようとする事実を神の御心に留め続けることにほかならない。
祈りはまた、未来に対する責任を強める。子どもたちが戦争を知らない時代にあって、祈りは世代を超えた記憶の場を形づくる。八月十五日の祈祷や平和を覚える礼拝は、教会が社会に向かって「忘れない」と宣言する預言的行為である。
二 赦し ― 記憶と和解を結び合わせる
赦しは、過去を直視する勇気を伴う。忘却は赦しを不可能にする。なぜなら赦しとは、罪を認めた上でそれを神に委ね、和解の可能性を開く行為だからである。戦争責任や加害の事実を曖昧にする歴史修正主義は、赦しを不要にする。だが教会は、エレミヤのように火の言葉を語り、罪を告白し、赦しを宣べ伝えなければならない。
赦しは感情的な忘却ではない。むしろ記憶を深め、真理を直視した上で和解へと向かう道である。隣国との関係も同じである。謝罪や償いの言葉が曖昧にされるとき、真の和解は遠のく。赦しの神学を持つ教会は、この現実に対して沈黙できない。
三 証し ― 公共空間における預言者的声
教会は「小さな群れ」であるが、公共空間において証しを続ける責任を担う。証しとは、単なる言葉だけでなく、生活と実践を通して神の国の価値を表すことである。敗戦八〇年の節目に、教会が証しすべきことは二つある。第一に、戦争の悲惨さを忘れないこと。第二に、平和憲法の理念を守り続けることである。
証しにはリスクが伴う。政治的に不人気な立場を取ることは、孤立を招く。しかしルカ福音書のイエスが「火を投じる」と言われたように、真理の証言は必ず分裂を生む。それでも証しをやめてはならない。教会の小さな声が、やがて社会全体に火を広げる可能性を秘めている。
四 召命 ― 平和のために遣わされる群れ
召命は、共同体の応答を一人ひとりの生き方にまで浸透させる。信仰は内面的な安堵ではなく、世界への派遣を伴う。ヘブライ書が「忍耐をもって走れ」と語るように、召命は競走の一部を担うことである。教育者として、医療従事者として、労働者や学生として、それぞれの場で平和の証人となる召命がある。
教会は、信徒が自分の職場や家庭、地域で平和の働きを担うことを支え、励まさなければならない。八月十五日の記憶を礼拝で思い起こすだけでなく、それを日常の生き方へと変換すること。これが召命の核心である。
こうして教会共同体の応答は、祈り・赦し・証し・召命の四つの柱において具体化される。これらが揺るぎなく実践されるとき、教会は忘却を砕く「火の共同体」となる。敗戦八〇年の時を生きる教会は、記憶を携え、希望を語り、未来へと遣わされていく。
Ⅴ章 火と記憶を生きる礼拝 ― 神学的統合と典礼・祈祷との接続
旧約・使徒書・福音書が織り成す本主日のメッセージを神学的に統合するとき、そこに浮かび上がるのは「神の言葉は火であり、忘却を砕く槌である」という真理である。そしてその火は、信仰共同体を内から精錬し、外に向かっては証しと分裂をもたらす。敗戦八〇年の時を迎えた私たちに与えられた課題は、この「火の言葉」を典礼と祈祷を通して現実の歴史と結び合わせ、平和の歩みを形づくることである。
一 神学的統合
エレミヤ書は、偽りの幻を語る者たちに対して、主の言葉が火のように働くことを告げた。ヘブライ書は、雲のような証人に囲まれながら忍耐をもって走るよう勧めた。ルカ福音書は、イエスが地に投じる火と、その火が引き起こす分裂を語った。これら三つは異なる時代背景を持ちながら、共通して「真理を曖昧にせず、神の言葉に立つ勇気」を示している。
神の言葉は慰めであると同時に、挑戦でもある。忘却の時代において、神の言葉は慰めを与えるだけでなく、安易な安心を砕き、真理に立ち返らせる力となる。神学的統合の中心はここにある。すなわち「信仰とは、記憶を担い、真理を語り、平和を追い求める忍耐」である。
二 典礼と記憶
典礼は、記憶の共同体としての教会の歩みを形づくる。礼拝で繰り返し聖書日課が朗読されることは、歴史の忘却に抗する営みである。八月十五日を経た直後の主日にこの聖書箇所が与えられていること自体、典礼の知恵である。会衆は朗読を通して、個人の体験を超えた神の歴史の流れに参与する。典礼は記憶を更新し、共同体を未来へ送り出す。
特に赦しの告白と赦免は、戦争責任と結びつけて深く味わうべきである。私たちは先人の過ちから自由ではなく、その歴史の一部を担っている。礼拝の告白は、単に個人の罪だけでなく、民族的・社会的罪をも含んで神に差し出す場である。赦しの言葉を聞くとき、教会は忘却ではなく記憶をもって赦されるという逆説を体験する。
三 祈祷と公共性
祈祷書に記された「平和のための祈り」は、この節目において特に重要である。為政者のための祈りは、彼らの政策が真理を覆い隠すことなく、公正を実現するようにと求める行為である。隣国との和解のための祈りは、歴史修正主義の流れに抗して、記憶と赦しを結び合わせる霊的実践である。祈りは私的な営みを超えて、公共空間に響く神の言葉となる。
また、聖餐は火の言葉を具現化する場である。キリストの体と血に与かることは、平和の契約を新たにする行為である。聖餐は和解の食卓であり、そこに集う人々は国籍や立場を超えて一つとされる。戦争によって引き裂かれた歴史の記憶も、この食卓において神の国の和解のしるしに変えられる。聖餐から派遣されるとき、教会は「火をもって世界に遣わされる群れ」となる。
四 終末的展望と希望
ヘブライ書は「平和を追い求めよ」と結ぶ。これは単なる倫理的勧告ではなく、終末的希望に基づく命令である。完全な平和はこの世で実現しないかもしれない。しかし信仰者は、その完成を未来に待ち望みつつ、今ここで部分的にそれを生きる。典礼と祈祷は、この終末的希望を繰り返し思い起こさせ、絶望に抗する力を与える。
この神学的統合によって、忘却と歴史修正の時代においても、教会は火の言葉を典礼と祈祷を通して受け取り、それを社会に証しする。敗戦八〇年の今、教会は「記憶を担う群れ」「火を投げ込む群れ」として、神の国の平和を生きるのである。
結語 忘却の時代に燃える火 ― 希望と祈りの余韻
敗戦から八〇年。国を焼き尽くした戦争の記憶は、次第に人々の意識から遠のいている。記憶の継承は世代交代とともに薄れ、語る人の声は途絶えようとしている。だが、聖書は忘却を罪と告げる。忘れることは、神の義を曖昧にし、和解の可能性を閉ざす。記憶は、過去の痛みを抱えながら未来を選び取るために不可欠である。だからこそ、神の言葉は火として投げ込まれる。火は燃やし尽くすだけでなく、闇を照らし、寒さを和らげ、金属を精錬する。忘却の時代にあって、神の言葉の火は共同体を清め、新しい歩みへと送り出す。
エレミヤが語ったように、主の言葉は「火」であり、「岩を砕く槌」である。虚偽の幻に安住する者にとっては、それは不快な炎である。しかし、その火は真理を覆い隠す壁を打ち砕き、民を立ち返らせる。戦後八〇年の今、日本社会に必要なのは、耳に心地よい物語ではなく、この火の言葉である。歴史を美化し、忘却する風潮に抗して、教会は真実を語る責務を担っている。
ヘブライ書が示すように、私たちは「雲のような証人」に囲まれている。戦争を生き抜き、平和を祈り、子孫に語り継ごうとした人々は、今も信仰の走者として私たちの前を走っている。その証人の声を忘却してはならない。忍耐をもって競走を続けるとは、歴史の痛みを担いながら希望を紡ぐことにほかならない。記憶を継承することは重荷である。しかし、その重荷を担うことによってのみ、平和の実が結ばれる。
ルカ福音書のイエスは「わたしは地に火を投ずるために来た」と語った。その火は分裂を生み、不安を引き起こす。だが、それは安易な平和を拒むための火である。沈黙と忘却による平和は、真の平和ではない。真理と和解に基づく平和だけが、神の国のしるしである。教会は小さな群れであっても、この火を世界に投じる使命を担う。小ささは無力ではなく、むしろ権力に縛られずに真理を語る自由を与える。
敗戦八〇年の祈りは、過去を悼むだけでなく、未来を選び取る祈りでなければならない。
――全能の神よ、あなたの言葉の火をもって私たちの忘却を砕いてください。
――主イエスよ、あなたが十字架を忍耐し、復活の命を示されたように、私たちが歴史の痛みを担いつつ希望を語れるよう導いてください。
――聖霊よ、私たちを火の共同体として燃え立たせ、平和を追い求める者としてください。
記憶は重荷であり、忘却は甘美な誘惑である。しかし、教会は忘却を拒み、記憶を抱えて未来を歩む群れとして立つ。火の言葉に焼かれ、精錬されることを恐れない。その火は、絶望を照らす光となり、分裂を越えて和解をもたらす力となる。敗戦八〇年の夏を経た私たちは、新しい世代に向かってこう語らねばならない――「恐れるな、忘れるな、走り続けよ」。
この祈りと決意を胸に、私たちは再び礼拝から世界へと派遣される。小さな群れとして、恐れることなく、神の火の言葉を携えて。