聖霊降臨後 第九主日 説教草稿「小さな群れ、恐れるな ― 信仰が平和を守る」

【教会暦】

聖霊降臨後 第九主日(特定十四) 二〇二五年八月十日

【聖書箇所】

旧約日課 :創世記 一五章一〜六節
使徒書  :ヘブライ人への手紙 一一章一〜一六節
福音書  :ルカによる福音書 一二章三二〜四〇節

【本文】

信仰と平和の八〇年目の呼びかけ

 戦後八〇年の夏を迎えた日本の空には、かつて焦土と化した地平を越えて、平和の象徴とされる花火や祭りの色彩が広がっている。しかし、その明るさの背後には、静かにしかし確実に強まる右傾化の潮流がある。戦前回帰を是とする言説が、歴史修正主義という衣をまとって広がり、平和憲法の根幹さえも危うくする動きが見え隠れする。こうした時代の風の中で、教会はどのようにして「恐れるな」という主の声を聞き取り、受け止め、応えるべきだろうか。

 創世記一五章で、アブラムは自らの将来に不安を抱えていた。神が与えると約束された土地も子孫も、現実には影すら見えない。それでも彼は「主を信じた」と記され、その信仰が義とされた。これは、人間の計算や世の力学ではなく、見えない神の約束にすべてを委ねる姿である。ヘブライ書の著者が言うように、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」である。平和や正義も同じだ。私たちがいまだ見ていない未来を、神の国の約束として信じるからこそ、諦めずに守り、築くことができる。

 ルカによる福音書で主イエスは「小さな群れよ、恐れるな」と語られた。弟子たちは当時、政治的・宗教的に周縁化され、社会的発言力も乏しい小さな共同体であった。だがイエスは彼らに、天の父が喜んで国を与えてくださると保証し、その備えと忠実を求めた。今日の日本における教会もまた「小さな群れ」である。数や力の小ささは、真理を語る口を閉ざす理由にはならない。むしろ、その小ささこそが、権力の誘惑や多数派の熱狂から自由でいられる可能性を秘めている。

 戦後の日本は、憲法九条をはじめとする平和の理念によって、八〇年にわたり一度も自ら戦争を起こさずに歩んできた。だが、いま私たちが直面しているのは、その理念が過去の遺物として退けられ、軍事力による抑止こそが安全だとする論調の台頭である。それは、アブラムが神の約束よりも目に見える軍勢や財産を頼ろうとする誘惑と似ている。信仰者は、見える力ではなく、見えない神の義に根ざした平和を選び続けなければならない。

 プロローグとしてのこの呼びかけは、単なる導入ではない。信仰の確信は、時代の流れを見極める批判精神と結びつくとき、平和のための証言となる。八〇年目の夏に、私たちは再びアブラムと弟子たちの位置に立たされている。未来はまだ見えない。しかし、神が与えると約束された平和と正義を信じて進むことこそ、教会の使命であり、日本が再び過ちの道を歩まないための唯一の道である。

章 神の約束と信仰の義 ― 創世記一五章の神学的射程

 創世記一五章一〜六節は、アブラムの生涯における一つの転機を描いている。文脈をたどれば、直前の十四章で彼は同盟者と共にロトを救い出し、戦利品を王たちに返し、サレムの王で祭司であったメルキゼデクから祝福を受けている。この出来事の後、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」と神が語りかける。ここにすでに、神とアブラムの関係の本質が現れている。「盾」という語は軍事的イメージを帯び、敵から守る神の力を表すが、それは単なる防衛ではなく、存在全体を包み込む保護と平安を示している。

 しかしアブラムは、この神の励ましにもかかわらず、自らの現実の欠乏を訴える。「私には子がありません」と。古代中東の文化において、子孫は単なる家族の継続ではなく、神の祝福の証であり、社会的保障の基盤でもあった。子がいないことは、将来の不安と名誉の喪失を意味し、神の約束が現実になっていないことの象徴でもあった。アブラムの問いは、信仰者の問いでもある。すなわち、神の約束がなかなか実現しない時、私たちは何を拠り所とすべきなのか。

 神はアブラムを外に連れ出し、夜空の星を指し示し、「あなたの子孫はこのようになる」と告げる。この象徴的行為は、アブラムの視線を地上の現実から天に向けさせる。星々は数えきれない存在であり、その光は遠い過去から届く。ここには、神の約束が人間の時間感覚を超えていること、そしてその成就が神の主権のもとにあることが示されている。アブラムはその言葉を信じ、その信仰が義と認められた。この「義」とは、道徳的完全さではなく、神との正しい関係性に立つことを意味する。信仰による義は、旧約のこの場面からすでに啓示されている。

 この物語は、アブラハム契約の核心を先取りしている。神は一方的な恵みによって約束を与え、その成就のために人間の功績や条件を求めない。信じる者は、その約束の現実性を自らの計算や証拠ではなく、神の誠実さに基づいて受け入れる。パウロはローマ書四章でこの出来事を引用し、義は行いではなく信仰によって与えられると論じた。これは、救いが恵みによるという福音の核心であると同時に、信仰者の倫理的立場を形づくる土台である。

 信仰による義はまた、平和の基礎ともなる。戦争や社会的不安の時代、人々はしばしば安全を軍事力や経済力に求める。しかし聖書は、究極的な安全は神の契約の中にしかないと告げる。アブラムにとって「盾」である神は、現代に生きる私たちにとっても「盾」であり続ける。この盾は暴力によってではなく、義と真実によって働く。平和は、力の均衡や抑止論ではなく、神の義に根ざした信頼によってこそ守られるべきものだ。

 戦後八〇年の日本においても、この創世記の教えは切実である。平和憲法は、武力によらない安全を選び取るという、歴史的に稀有な決断を体現してきた。しかし近年、その選択が「現実的でない」「抑止力が必要だ」という名のもとに揺らいでいる。これはアブラムが現実的な後継者としてエリエゼルを選び取ろうとした誘惑に似ている。確かにエリエゼルは忠実なしもべであったが、神はそれを退け、御自らの方法で約束を成就すると宣言された。神の道は、私たちの現実的計算を超える。だからこそ、教会はこの時代にあっても、軍備拡張や歴史修正の流れに安易に与せず、神の義と平和の約束を信じて立ち続けなければならない。

 さらに、この創世記の物語は巡礼的生き方を促す。アブラムは約束の成就を一生涯のうちに完全には見なかった。彼の信仰は、未完成のまま終わった生涯の中で光を放つ。それは、私たちがこの地上で完全な平和や正義を見届けることはできなくとも、そのために歩み続ける意味を示している。神の約束に生きる者は、たとえ結果が見えなくとも、今日の一歩を恐れず踏み出す。

 信仰による義は、現代日本の文脈では「歴史の真実を受け止め、過ちを繰り返さない決意を守ること」とも結びつく。歴史修正主義は、事実をねじ曲げることで国民の自尊心を守るように見せかけるが、その実、過去の罪を曖昧にし、再び同じ過ちを犯す土壌をつくる。アブラムが神の言葉に従って現実の不安を超えたように、私たちも事実から目を背けず、神の真実を信じる勇気を持たなければならない。

 創世記一五章の場面は、単なる古代の物語ではない。これは、信仰と平和、義と希望の関係を示す普遍的な証言である。戦後八〇年、日本の教会がこの証言を現代にどう翻訳するかが問われている。アブラムの信仰が義とされたように、私たちの平和への歩みもまた、神によって義とされる。その歩みが続く限り、私たちは「小さな群れ」として恐れず、神の約束を担い続けることができる。

章 巡礼者としての信仰 ― 見えない国を求める歩み

 ヘブライ人への手紙一一章は、しばしば「信仰者の殿堂」と呼ばれる。そこに名を連ねる人物たちは、歴史の中で神に従った人々であり、その歩みは必ずしも順風満帆ではなかった。著者は冒頭で、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」と定義する。この簡潔で力強い言葉は、信仰生活の本質を突いている。信仰は、目に見える証拠の上に築かれるのではなく、見えない神の言葉と約束に根差す。だからこそ、信仰は不確実な時代においても揺らぐことがない。

 ここで紹介されるアブラハムの歩みは、創世記一五章の物語と深く呼応する。彼は召しを受けて故郷を離れ、行き先も知らずに出発した。定住するのではなく、天幕を張って移動しながら生きた。彼の歩みは、目に見える安全や豊かさを求めるのではなく、「神が設計し、建てられる土台のある都」を目指す旅であった。この都とは、地上の権力や文化が築くものではなく、神の国そのものである。

 この巡礼者の姿は、現代の私たちに二重の示唆を与える。第一に、信仰者は常に「過渡的存在」であること。私たちは、この世界に根を下ろしつつも、最終的な帰属は神の国にある。第二に、その旅は個人の救いだけでなく、共同体の証しとして進むものであること。ヘブライ書は、アブラハムとサラが共に信仰によって歩んだことを強調する。信仰は孤立した精神的営みではなく、世代を超えて継承される共同体的歩みである。

 著者はまた、「彼らは地上では旅人であり、仮住まいの者であることを告白していた」と記す。この告白は、戦後八〇年の日本においても重要である。経済的繁栄や安全保障の安定は、人々に「ここが永住の地だ」という錯覚を与えがちである。しかし歴史は、国家の形や国際秩序が脆く崩れ去ることを何度も示してきた。信仰者は、国家や時代の枠組みを絶対視せず、常に「見えない国」を志向する。それは逃避ではなく、むしろ現実の歴史の中で正義と平和を求める勇気の源泉である。

 著者が列挙する信仰者たちは、いずれも「約束のものを手に入れる前に死んだ」とされる。これは、神の国の完成が歴史の中で部分的にしか現れないことを示している。彼らはその完成を見ずとも、遠くからそれを歓迎し、受け入れた。現代の私たちもまた、完全な平和や公正をこの地上で見届けることはできないかもしれない。しかし、だからこそ信仰は「未完のまま続く希望」として価値を持つ。

 この「未完の信仰」は、戦争と平和の課題において特に重要である。平和運動や軍縮交渉は、一朝一夕に成果をもたらすものではない。むしろ後退や停滞の連続に見えることもある。それでも「見えない国」を信じる信仰は、諦めずに歩みを続ける力となる。戦後日本の平和憲法も、完全な安全を保証するものではなかったが、八〇年間、戦争を避けるための道標であり続けた。これは、約束の完成を待ち望む巡礼者の姿に重なる。

 さらに、ヘブライ書は信仰を「より良い故郷を求めること」と結びつける。この故郷は、単に懐かしさや民族的同一性の象徴ではなく、神の臨在と正義が満ちる国である。歴史修正主義は、しばしば過去を美化し、あたかもそこに「失われた理想の国」があるかのように描く。しかし、信仰者が求める故郷は、過去ではなく未来にある。私たちは、戦前の「栄光」を取り戻すのではなく、神が新たに創造される平和と義の国を目指す。

 巡礼者としての信仰はまた、備えと警戒を伴う。ルカ福音書で主イエスは、主人が帰ってくる時に目を覚ましている僕の姿を求められた。これは、信仰が受動的な待機ではなく、能動的な準備と行動であることを意味する。戦後日本が平和を維持してきたのは、ただ運が良かったからではなく、多くの人々が平和憲法の理念を守り、国際的な対話と協力を続けてきたからである。この備えが緩めば、「小さな群れ」は容易に押し流されてしまう。

 信仰者の歩みは、数字や世論調査の多数派になることではなく、神の真実に忠実であることによって評価される。八〇年前、少数の信仰者や思想家が戦争に反対し、人権と平和のために声を上げた。その多くは孤立し、時には迫害を受けたが、その証言は今なお生きている。「小さな群れよ、恐れるな」というイエスの言葉は、彼らの歩みにも響いていたに違いない。そして今、その言葉は私たちにも与えられている。

 ヘブライ書の巡礼者たちは、見えない国を求めつつ、現実の歴史の中で神の義を証しした。現代の教会も、戦後八〇年の節目にあたり、その姿を受け継ぐ使命がある。信仰は未来を指し示しつつ、今ここで平和を守る行動へと私たちを送り出す。巡礼者の歩みは、過去に縛られず、未来の神の国に向けて進む道である。その途上で、私たちは「恐れず、備えよ」という福音の呼びかけを、時代への預言として響かせ続けなければならない。

章 歴史の記憶と未来の選択 ― 信仰と公共倫理の交差点

 戦後八〇年の日本は、世界史的に見ても稀有な平和の歩みを続けてきた国である。その根底には、憲法九条を中心とする戦争放棄の理念と、それを支えてきた市民社会の努力がある。しかし近年、政治言説の中に戦前回帰の兆候が増えている。「国防力の強化」や「自主憲法の制定」といった言葉が、あたかも国家の成熟の証のように語られ、歴史修正主義的な発言が公の場で許容される空気が広がっている。そこでは、過去の戦争責任を相対化し、被害の記憶を曖昧にし、加害の事実を矮小化する動きが顕著だ。

 こうした風潮は、単なる歴史認識の相違ではなく、信仰者にとっての霊的課題でもある。聖書は、過去を忘れることを警告し、むしろ神の救いと裁きの歴史を覚え続けるよう求める(申命記八章二節など)。イスラエルの民が荒れ野での歩みを忘れ、偶像と権力に頼ったとき、彼らは神の義から逸れ、共同体は崩壊に向かった。歴史修正主義は、まさにこの偶像化の現代的形態であり、国家や民族の「栄光」を絶対化することによって、真理と和解を遠ざける。

 ルカ福音書十二章の「小さな群れよ、恐れるな」という言葉は、このような時代にこそ響く。信仰共同体は、権力や多数派の論調に迎合する必要はない。むしろ少数派であっても、神の国の価値を証しする使命を担う。日本の教会は戦前、必ずしもこの使命を果たせなかった。国家神道や軍国主義に抗する声は少数にとどまり、多くは沈黙や協力へと傾いた。この苦い記憶を直視し、悔い改めとしての証言を今こそ強める必要がある。

 右傾化の流れは、しばしば「安全保障」の名を借りて進行する。国際情勢の不安定さを理由に、軍事力の増強が当然視されるが、その議論の中で「人間の安全保障」という視点は後退している。聖書が示す平和は、単に戦争がない状態ではなく、貧困や差別、抑圧が取り除かれ、人が神と人、そして被造世界と調和して生きる状態である。したがって、軍拡や抑止力強化だけでは、真の平和はもたらされない。むしろ、武力依存は不安の連鎖を生み、他国との信頼を損なう。

 現代日本における歴史修正主義のもう一つの問題は、記憶の継承の断絶である。戦争体験者の多くがすでに世を去り、直接の証言を聞く機会は急速に減っている。そこに虚偽や歪曲の物語が入り込みやすくなる。ヘブライ書十一章の巡礼者たちは、見えない約束を未来世代に手渡すために歩んだ。教会もまた、戦争の記憶と平和の理念を、単なる歴史知識としてではなく、信仰の証しとして次世代に伝えなければならない。

 公共倫理の視点から見ても、歴史修正主義は危険である。公共倫理とは、社会全体の善を追求するための規範と実践であり、その土台は真理と透明性にある。過去の過ちを隠す社会は、再び同じ過ちを犯す危険を高める。旧約の預言者たちは、権力者が不正を覆い隠すとき、激しくこれを糾弾した。アモスやミカの声は、現代日本の教会にも響いている。私たちは、歴史の歪曲や不正義に沈黙することなく、「正義を水のように、恵みの業を絶えることなく流れさせよ」(アモス五章二十四節)という神の要求に応えるべきだ。

 戦後八〇年の節目にあたり、私たちは二つの道の分岐点に立っている。一つは、過去の教訓を守り続け、平和憲法を未来への贈り物として保ち続ける道。もう一つは、「現実的対応」という名目で軍拡と歴史修正の道に進む道である。信仰の観点から見れば、後者はアブラハムが神の約束を待てずに人間的手段で後継者を確保しようとした誘惑に似ている。結果としてそれは、神の計画を曇らせ、共同体に争いをもたらす。

 教会は、この分岐点において、単なる政治的立場表明ではなく、預言者的証言を行うべきである。預言者の声とは、権力を批判するだけでなく、人々を神の義と平和に立ち返らせる招きである。「小さな群れ」としての教会は、数や影響力に頼らず、真理と愛に基づく声を上げることができる。ヘブライ書の巡礼者たちが「より良い故郷」を求め続けたように、私たちもまた、武力や国威ではなく、和解と平和を基礎とする未来を求め続ける。

 右傾化と戦前回帰の時代において、信仰者の役割は二重である。第一に、歴史の真実を守る証人であること。第二に、未来への希望を語る預言者であること。これらは切り離せない。真実を直視しない希望は空虚であり、希望を語らない真実は絶望を生む。教会は、この二つを一つに結び合わせる使命を持つ。

 ルカ福音書の譬えに出てくる「主人の帰りを待つ僕たち」は、まさにこの使命の象徴である。主人が帰る時を知る者は誰もいない。だからこそ常に備え、忠実に仕える。その備えとは、時代の風に流されず、神の国の価値を守り続けることだ。戦後八〇年の今、この忠実さが試されている。

章 「小さな群れ」の応答 ― 祈り・赦し・証し・召命の構造化

 戦後八〇年、日本社会は新たな分岐点に立たされている。右傾化、戦前回帰、歴史修正主義の風潮の中で、教会共同体はどのように応答すべきか。それは、単に政治的立場を表明することではなく、聖書に根ざした祈りと行動を構造化することによって実現される。この応答は、四つの柱――祈り、赦し、証し、召命――に整理できる。

一 祈り ― 平和を求める霊的呼吸

 祈りは、教会が持ちうる最も強力な武器であり、同時に霊的な呼吸である。アブラハムが神の言葉に耳を傾け、夜空の星を見上げたように、私たちもまず神の前に沈黙し、時代の不安や恐れを差し出さなければならない。祈りは、現実逃避ではなく、現実を神の視点から見直す行為である。戦後の平和が当然のように続いてきたこの国で、祈りは平和の価値を再認識させ、危機への感度を高める。

 教会の祈りは、個人的な願いにとどまらない。礼拝の中で全世界の平和のために祈ることは、共同体全体を神の国の視座へと引き上げる行為である。特に聖餐式における平和の挨拶(ピース)は、和解のしるしであり、敵対を超えた交わりの象徴である。この礼拝的行為は、社会的分断や国際的緊張が高まる時代にあって、教会が平和の証人であることを具体的に示す。

二 赦し ― 過去の清算と未来への和解

 赦しは、歴史の真実を直視する勇気と結びつく。戦争責任や植民地支配の記憶を曖昧にすることは、赦しを不可能にする。赦しとは、加害の事実を否定したり忘却したりすることではなく、それを正しく認めた上で、和解への道を開くことである。イエスが十字架上で「父よ、彼らを赦してください」と祈られたのは、彼らの罪を無視するためではなく、その罪を負い、贖いを完成するためであった。

 教会は、歴史修正主義に対して、赦しの神学から反論すべきである。過去を粉飾することは、赦しを不要にし、和解を空虚にする。真の赦しは、痛みと不正義の記憶を抱えながら、敵とされた者に手を差し伸べる勇気を求める。それは容易ではないが、十字架の主を仰ぐとき、その道は開かれる。

三 証し ― 公共空間での預言者的役割

 教会は「小さな群れ」であっても、公共空間における証しを放棄してはならない。証しとは、単に意見を述べることではなく、生活全体を通して福音の価値を表すことである。ヘブライ書十一章の巡礼者たちは、故郷を求める旅の中で、自らの生き方そのものが信仰の証しとなった。現代日本において、教会の証しは、平和憲法の理念を守る活動、市民社会との連帯、教育や福祉への参与などを通して具体化される。

 証しにはリスクが伴う。戦前、戦争に反対したキリスト者は少数派であり、時に迫害や孤立に直面した。しかし、彼らの声は歴史の中で光を放ち続けている。現代の教会もまた、人気や影響力ではなく、神の義と真理に基づく発言を選び取るべきである。これは、権力の圧力に屈しない預言者的姿勢であり、信仰共同体が社会に対して果たすべき責任である。

四 召命 ― 平和のために遣わされる者

 召命は、信仰共同体の応答を個人の生き方にまで浸透させる。ルカ福音書十二章の「腰に帯を締め、灯をともしていなさい」という言葉は、全員が備えを怠らず、主人の帰りを待つ僕のように生きることを求める。これは、教会全体が「平和の僕」として社会に遣わされる召命である。

 召命は職業的宣教者だけのものではない。教育者、医療従事者、政治家、労働者、学生――それぞれの場で平和の証人となることができる。教会は、信徒一人ひとりが自らの職務と生活を通して福音を証しするよう、祈りと教育で支えなければならない。これは、単なる内向きの信仰生活ではなく、公共空間での責任ある奉仕を意味する。

 この四つの柱は、教会共同体の応答を体系化し、単発的な行動ではなく、持続可能な証しへと導く。戦後八〇年の節目にあって、私たちは再び「小さな群れ」として恐れず、神の国のために祈り、赦し、証し、召命を生きることを選び取る。これこそが、歴史の分岐点に立つ教会の使命であり、神の約束に応える唯一の道である。

章 信仰・平和・典礼の神学的統合 ― 神の国を生きる礼拝者として

 これまでの章で見てきたように、創世記一五章のアブラムの信仰、ヘブライ書一一章の巡礼者の歩み、そしてルカ福音書一二章の「小さな群れ」への励ましは、いずれも現代の教会に対して同じ方向を指し示している。それは、見えない神の国を信じ、歴史の記憶を正しく受け継ぎ、平和を守り、恐れずに証しする生き方である。ここでは、その神学的統合を行い、さらに典礼・祈祷との接続を具体的に示したい。

一 信仰と平和の統合

 アブラムが「主を信じ、それが義と認められた」ことは、信仰が倫理的・公共的実践と不可分であることを示している。信仰による義は、単に内面的な救いの状態ではなく、社会的関係の中で義を行う力を伴う。戦後八〇年、日本が平和憲法のもとで歩んできた道も、ある意味では「義を行う歩み」であった。もちろん完全ではないが、武力行使を放棄し、国際協調を旨とする姿勢は、聖書的平和観と深く響き合う。

 この統合は、「信仰」と「平和」を二つの別々の目標として並べるのではなく、信仰の内実そのものが平和を生み出すという理解である。信仰は神との関係を正し、平和は人と人、人と被造世界との関係を正す。両者は神の国において一つとなる。

二 巡礼者としての典礼的歩み

 典礼は、教会が「巡礼者としてのアイデンティティ」を週ごとに再確認する場である。礼拝の中で朗読される聖書日課は、信仰者の歩みを歴史の大きな物語の中に位置づける。創世記の物語を聴くとき、私たちは古代の信仰者と同じ神を仰ぎ、ヘブライ書を聴くとき、私たちは歴史を越えて彼らと同じ巡礼の列に加えられる。福音書の言葉を聴くとき、主イエスが今ここで私たちに語っておられることを受け止める。

 特に、ルカ十二章の「腰に帯を締め、灯をともしていなさい」という呼びかけは、礼拝後の派遣の祝福に直結する。礼拝は終わりではなく、派遣の始まりである。共同体は神の臨在を祝った後、世界へと遣わされ、平和の証人として歩む。

三 赦しと記憶の祈祷

 典礼の中で告白と赦しの式は、過去を直視し、神の赦しを受け取る場である。戦争責任や植民地支配、差別や暴力の歴史を、個人と共同体の罪として神の前に告白することは、平和のための霊的基礎を築く。この告白は、単なる形式ではなく、歴史修正主義に抗する具体的な行為である。赦しは記憶を消すことではなく、記憶を癒しに変えることである。

 祈祷書の中には「世界の平和と公正のための祈り」がある。そこでは、為政者のため、貧しい者と虐げられた者のため、被造世界の保全のための祈りが捧げられる。これらの祈りは、戦後八〇年の節目にあたって、より一層現実的な意味を帯びる。礼拝で祈る言葉は、日常生活における行動への招きでもある。

四 聖餐と平和の契約

 聖餐は、平和の神学的統合の頂点である。聖餐において、私たちはキリストの犠牲によって与えられる和解の恵みにあずかる。そこでは、敵も友も同じ食卓につき、同じパンと杯を分かち合う。これは、分断や敵対を超える神の国のしるしである。戦後日本が守り続けてきた平和も、この神の和解のしるしを社会全体に広げる努力と無関係ではない。

 聖餐後の派遣の言葉――「行きなさい。主を愛し、隣人に仕えなさい」――は、典礼と社会的実践の橋渡しをする。礼拝堂で築かれた平和の交わりを、世界の現実の中で生きることが求められる。

五 希望の神学と終末的展望

 ヘブライ書の巡礼者たちは、「より良い故郷」を求めて歩んだ。それは、この世の完成形ではなく、終末における神の国の完成である。この終末的希望は、現実逃避ではなく、現実を変革する力である。終末の約束を信じる者は、歴史のどの瞬間にも希望を見出し、絶望に沈むことなく働き続けることができる。

 戦後八〇年という節目は、終末的視野から見れば、神の歴史の一断面に過ぎない。しかし、この断面での選択が、次の世代の歩みに深く影響する。典礼の中で繰り返し語られる神の約束は、この選択を導く光である。

 この神学的統合によって、信仰と平和は礼拝生活の中で一体となり、歴史の記憶と未来の希望は一つの物語として結びつく。礼拝は、神の国を先取りする場であり、そこで養われる信仰は、平和を守り、築く力となる。戦後八〇年を迎える今、教会は礼拝から派遣され、歴史の真実と神の約束を携えて世界に向かうのである。

結語 恐れぬ群れとして ― 八〇年目の希望の祈り

 八〇年前、この国は焼け野原となり、数千万の人命が奪われた。その痛みの中で、平和憲法が生まれ、「再び戦争をしない」という誓いが国の歩みを方向づけた。それは単なる政治文書ではなく、戦争の惨禍を経験した世代の血と涙と祈りが刻まれた証しであった。だが時は流れ、その誓いは「古びた理想」として軽んじられ、現実の力学の前に後退させようとする動きが強まっている。

 今日の聖書箇所は、そのような時代に立つ教会に、明確で力強い言葉を与える。創世記は、アブラムが見えない約束を信じて義とされたことを告げる。ヘブライ書は、巡礼者たちが約束のものを見ずしても、なおそれを歓迎し、未来に向かって歩み続けた姿を示す。ルカ福音書は、「小さな群れよ、恐れるな」という主の声を響かせ、備えと忠実な管理を求める。これら三つの証言は、戦後八〇年の節目に立つ私たちへの招きであり、命令であり、慰めである。

 教会は、数や勢力の大小でその価値を量る共同体ではない。むしろ「小さな群れ」であることは、権力や多数派の熱狂から距離を保ち、神の真理にのみ従う自由を与える。小ささは弱さではなく、純粋さの源である。アブラムがわずかな家族と家財を携えて旅立ったように、弟子たちが少数の仲間とともに世界に遣わされたように、教会もまた、その小ささの中に世界を変える可能性を秘めている。

 戦後八〇年、日本の教会は過去の過ちを忘れてはならない。戦前、多くの教会が国家神道と軍国主義に迎合し、戦争協力へと傾いた。その沈黙と妥協の代償は、無数の命と信頼の喪失であった。この苦い記憶を悔い改めとして抱え続けることは、現代における預言的使命の基盤である。歴史修正主義は、この記憶を曖昧にし、罪責を薄めようとするが、それに抗うのは数の論理ではなく、真理の証言である。

 平和のために立つとは、単に戦争に反対することではない。それは、貧困や差別、抑圧の構造を取り除くために働くことであり、隣人の尊厳を守ることである。平和は、武力によってではなく、義と正義によって築かれる。アブラハムが神の義に信頼したように、私たちも目に見える抑止力や勢力図ではなく、神の約束を平和の基盤としなければならない。

 ルカ福音書の譬えは、信仰者に「備え」を求める。主人がいつ帰るかわからないからこそ、僕は常に灯をともし、帯を締めていなければならない。八〇年間続いた平和もまた、偶然ではなく、多くの人々の備えと努力の積み重ねによって守られてきた。この備えを手放すとき、平和は一夜にして失われる可能性がある。だからこそ、教会は礼拝と日常の中で、平和の価値を繰り返し思い起こし、次の世代に手渡さなければならない。

 「小さな群れよ、恐れるな」。この言葉は、恐れを抱く時代に生きる者への慰めであると同時に、責任を促す呼びかけでもある。恐れないとは、無謀であることではない。恐れないとは、神の国が必ず来るという確信に立って、正しいことを選び続ける勇気を持つことである。それは時に孤独を伴い、損失を伴う。しかし、その道を歩む者は、約束の国を遠くからでも見つめ、喜び迎えることができる。

 八〇年目の夏、私たちは祈る。
 ――全能の神よ、あなたはアブラムを召し出し、見えない約束を信じる信仰をお与えになりました。どうか私たちにも、恐れず、真理と平和に生きる勇気をお与えください。歴史の記憶を正しく受け止め、過ちを繰り返さぬよう、御霊をもって私たちを導いてください。
 ――主イエス・キリストよ、あなたは「小さな群れよ、恐れるな」と語られました。どうかこの時代にあっても、私たちがあなたの国の証人として立ち続けられるよう、忍耐と希望をお与えください。
 ――聖霊よ、あなたは巡礼者たちを導き、備えを怠らぬよう励まされました。どうか私たちの心の灯を絶やさず、平和の道を歩ませてください。

 八〇年前の誓いを守り続けることは容易ではない。だが、神が盾であり、私たちの報いであるならば、その道は必ず守られる。見えない国を信じ、恐れずに歩む「小さな群れ」として、私たちは新しい歴史の一歩を踏み出す。

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