聖霊降臨後 第八主日 説教草稿「富と空しさのはざまで — 命を豊かにするもの」

【教会暦】

聖霊降臨後 第八主日(特定十三) 二〇二五年八月三日

【聖書箇所】

旧約日課 :コヘレトの言葉 一章一二〜一四節、二章一八〜二三節
使徒書  :コロサイの信徒への手紙 三章一二〜一七節
福音書  :ルカによる福音書 一二章一三〜二一節

【本文】

儚さの自覚から始まる信仰

 夏の盛り、空を見上げれば、入道雲が立ち上がる。その形は刻々と変わり、やがて淡く消え去る。私たちはその移ろいの美しさに目を奪われながらも、同時にその儚さに心を動かされる。今ここにあると思ったものが、やがて形を失い、別のものへと移り変わる。その姿は、私たちの人生や営みのありようを映し出す鏡のようである。

 今朝与えられた旧約日課「コヘレトの言葉」は、まさにその儚さの自覚から始まる。「空の空、いっさいは空である」。ヘブライ語の hebel は「息」や「煙」の意を持つ。掴もうとすれば指の間からすり抜けるもの。それは虚無ではなく、確かな実体を持ちながらも、固定されず、留めることのできないものを意味する。この言葉は、富や業績、知恵や快楽さえも、そのままでは永遠に私たちを支えるものではないと告げる。

 福音書朗読の中で、イエスは群衆の中から声を上げたある人に応えられる。その人は相続を巡る争いを抱え、兄弟に遺産を分けるよう迫ってほしいと願った。だが、イエスは仲裁を拒み、むしろその問いかけをきっかけに「貪欲から離れよ」と語られる。そして、愚かな金持ちの譬えを告げる。彼は豊作を喜び、大きな倉を建て、長年安楽に暮らそうとするが、神はその夜に命を取り去られる。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かでない者はこのとおりだ」と。

 この日課の響き合いは、単なる道徳的教訓を超えている。問題は富や財そのものではなく、「自分の命を支えるのは富だ」と錯覚することにある。富も業績も、相続財産も、私たちの命を保証するものではない。命は神からの賜物であり、その根源は神ご自身にある。富に命を委ねることは、砂の上に家を建てるようなものだ。

 使徒書コロサイの信徒への手紙は、これを受けて、私たちが真に身にまとうべきものを示す。それは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、忍耐」である。これらは金銭や財産のように奪われることのない、永遠の価値を持つものである。愛を「結びの帯」として着るとき、私たちは神の平和に支配され、感謝に満ちた歩みへと導かれる。

 現代社会は、コヘレトの時代にも増して、物質的豊かさと自己実現を追い求める。しかし、その過程で多くの人は、自らの存在の意味や生きる目的を見失い、むしろ空しさを深めている。SNSにあふれる成功のイメージ、富を得ることによってのみ語られる「価値ある人生」の物語。それらは人の心を飽くことなく駆り立て、やがて疲弊させる。イエスの譬えの金持ちの姿は、二千年前の物語でありながら、私たち自身の影でもある。

 教会の務めは、この空しさを暴き出すことではなく、そこから新しい命の道を示すことである。富のはかなさを嘆くのではなく、神の前に豊かに生きるとはどういうことかを共に探り、具体的に生きる証しを立てること。それは、主の平和と感謝のうちに互いに生き、支え合う共同体を形成することであり、また、富や成功を超えた価値をこの世に提示することである。

 この日の説教では、まず「空しさ」という現実を直視することから始める。そして、その空しさを癒すのは、私たちの所有物や計画ではなく、神の愛と命そのものであることを明らかにしていきたい。それこそが、富と空しさのはざまで揺れる私たちを、確かな命の道へと導く唯一の光なのである。

「空の空」の神学 — コヘレトの現実認識と信仰

 旧約日課「コヘレトの言葉」は、聖書の中でも異色の響きを持つ書である。冒頭から「空の空、いっさいは空である」(コヘレト一・二)と繰り返し、富も知恵も労苦も最終的には風のように消えると告げる。この言葉は、旧約の他の多くの書が語る「神を畏れよ、そうすれば祝福がある」という単線的な因果応報の論理を揺さぶる。ここには、現実の厳しさと矛盾を直視した者の冷徹な観察がある。

 コヘレトは自らを「エルサレムの王、ダビデの子」と名乗り、知恵を尽くして人生を探求したと語る(一・十二)。しかし彼の結論は、知恵者も愚か者も同じように死を迎えるという現実である(二・一四〜一六)。人は労苦して財産を積み上げても、それを自分より後に来る者に残すしかなく、その者が賢者か愚者かはわからない(二・一八〜一九)。その運命の不確かさこそ、彼が「空しい」と繰り返し嘆く理由である。

 ここでいう「空しさ」は、私たちが日常で用いる「虚無感」や「むなしい努力」という感覚とは異なる。ヘブライ語の「ヘベル」は本来、「吐息」や「煙」を指す。手で掴もうとするとすり抜け、形を留めない。そこから派生して、「はかないもの」「実体を留めないもの」という意味を持つ。つまり、コヘレトのいう「空しさ」とは、存在そのものの儚さを表すのであり、それは世界の本質的性質として提示されている。

 興味深いのは、コヘレトがこの現実を嘆きながらも、それを絶望としては語らないことである。彼は「人間にとって最も良いことは、食べ、飲み、労苦によって魂を楽しませることだ」と語る(二・二四)。この「楽しむこと」は刹那的な快楽主義ではない。むしろ、神から与えられた日々を受け取り、その中で感謝しながら生きることを指す。コヘレトは、労苦の成果がやがて消えることを知った上で、その労苦そのものを神の賜物として肯定している。

 旧約の他の知恵文学、例えば「箴言」や「ヨブ記」もまた、人生の不条理や富のはかなさを描く。しかし、コヘレトはより徹底して、人間の限界と死の必然性を直視する。ヨブ記は苦難の中で神の不可知性を強調するが、コヘレトは神の不可知性に加え、世界そのものの変わらぬ儚さを語る。そしてその上で、「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである」(一二・一三)と結論する。この終わりの言葉は、儚さの只中にあってなお神への信仰を失わなかった彼の信条である。

 この「空の空」の神学は、現代においても深い示唆を与える。私たちの社会は、富や地位、知識や成果を持続的に積み上げることを価値としてきた。しかし、地震や戦争、パンデミック、経済危機といった出来事が、その積み上げを一瞬で崩す現実を見せつけた。二〇二〇年代の世界は、まさにコヘレトの語る「風を追うような労苦」が何を意味するかを体験していると言えるだろう。

 また、気候危機も同様である。どれほどの経済的成功や技術的発展があっても、地球そのものの生態系が崩壊すれば、それらは砂上の楼閣に過ぎない。富や開発が、命を支える基盤を脅かすなら、それはむしろ愚か者の労苦となる。コヘレトはこうした未来の危機を直接語ってはいないが、その洞察は驚くほど今日的である。人間の営みのはかなさを知ることは、むしろ持続可能な生き方への第一歩なのだ。

 このように見ると、「空の空」という表現は、ただの厭世観ではなく、創造主なる神の前での自己相対化を促すものである。私たちの労苦も富も、神が与えられた命の時間の中に置かれた「しばしのもの」に過ぎない。その自覚こそが、命を賜物として受け取り、感謝と節度をもって生きる道を開く。富に執着することをやめ、日々の糧を神から受ける喜びに立ち返るとき、私たちは初めて「神の前に豊か」な者となる。

 コヘレトの言葉は、イエスの譬え話や使徒たちの教えと響き合いながら、私たちに問いかける。「あなたが倚りかかっているものは、本当に命を支えるものか」。それは、信仰生活の基礎を揺さぶる鋭い問いであり、同時に希望の門でもある。なぜなら、この問いを通してこそ、私たちは真の基盤である神の愛と恵みに出会うからである。

「神の前に豊かに生きる」— コロサイ書と福音書の響き合い

 使徒パウロ(またはその弟子)がコロサイの信徒に宛てた手紙の中で、三章十二節から十七節は「キリストに結ばれた者」の新しい生き方を示している。それは「神に選ばれ、聖で、愛されている者」としての生き方であり、その特徴は、富や外面的な成果によって測られるものではなく、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、忍耐」といった内面の徳によって形づくられる。

 この箇所は、福音書の譬え話と密接に響き合っている。ルカ十二章の愚かな金持ちは、豊作という祝福を受けながら、その実りを独り占めにし、自らの安楽のために大きな倉を建てる計画を立てた。しかし、その思考の中には「隣人」や「神」への視点が欠けていた。彼は倉を大きくすることによって命を保証しようとしたが、神の視座から見れば、その計画は命そのもののはかなさを理解していない愚かさであった。

 一方、コロサイ書が示す「新しい人を着る」生き方は、倉を大きくするのではなく、心の容量を広げる方向を指し示している。すなわち、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても赦し合いなさい」との勧め(コロサイ三・十三)は、倉に物を蓄える代わりに、関係の中に赦しと愛を蓄えることを求める。そして「愛はすべてを完全に結ぶ帯である」(同三・十四)と告げられるとき、富や地位や成果を超えた価値が明らかになる。

 この愛による結びは、単なる人間的な優しさや親切を意味しない。それは、キリストに結ばれた者として神の平和に生きることであり、その平和は「あなたがたの心を支配する」(同三・十五)と表現される。この「支配する」という言葉は、原語のギリシア語では審判や調停の権限をもつ裁判官が判決を下すことを意味する。つまり、信仰者の心の中で何が優先されるかを決定するのは、神の平和そのものであるということだ。

 ここに、福音書の譬え話との決定的な違いがある。愚かな金持ちは、自分の計画と欲望を心の裁判官として据えていたため、富がその人の存在意義を規定してしまった。だが、コロサイ書の勧める生き方は、神の平和を判断の基準とする。富はその座から降ろされ、命を支える基盤は神にのみ置かれる。こうして「神の前に豊かに生きる」道が開かれるのである。

 パウロ的な世界観において、「豊かさ」は経済的尺度とは無関係である。それはむしろ、共同体の中でいかに神の言葉が「豊かに宿っているか」(同三・十六)によって測られる。ここで言う「宿る」とは、仮住まいではなく永住することを意味する。聖書の言葉が信仰者の心に一時的に響くだけでなく、日常の判断や行動を形成し続ける恒常的な力となるとき、その共同体は神の前に真に豊かになる。

 さらに注目すべきは、「すべてを感謝して行う」という終わりの勧め(同三・十七)である。感謝は、富や成果を持つときだけに可能な態度ではない。むしろ、持たないとき、失ったときにもなお、命そのものを神からの賜物として受け入れるとき、感謝は深まる。愚かな金持ちは、自分の収穫に感謝することを忘れ、その恵みを分かち合うことなく死を迎えた。だが、感謝に生きる者は、どのような状況にあっても命の源を見失わない。

 このように、コロサイ書の示す信仰の姿は、富を追い求める生き方と明確に対置される。それは、目に見える倉を拡大するのではなく、見えない心の倉を神の平和と愛で満たすことである。そして、この心の倉は、死によって奪われることがない。むしろ、死を超えて神の国に引き継がれる豊かさである。

 ここに、現代の私たちへの直接的な挑戦がある。私たちの生活は、銀行口座や資産残高、社会的肩書きや業績評価によって容易に測られがちである。しかし、信仰者の真の価値は、神の前においていかに愛と平和に満たされているかで測られる。この逆転の価値観を受け入れるとき、私たちは「空しさ」を恐れる必要がなくなる。なぜなら、命の基盤を神に置く者は、富の有無によって揺らぐことがないからである。

空しさの時代における信仰と公共倫理 — 戦争・孤立・差別・環境の課題

 コヘレトが見抜いた「空しさ」の現実は、二千年以上の時を経ても色あせることなく、むしろ現代の社会においてさらに切実な意味を帯びている。人間は歴史の中で多くの富を蓄積し、技術を進歩させ、寿命を延ばし、生活を便利にしてきた。しかし、地球のあらゆる場所で、人類は「より多く、より早く、より強く」を求め続け、その代償として深刻な分断と破壊を招いてきた。

 まず、戦争の現実を考えざるを得ない。二十一世紀に入っても、戦争は決して過去の遺物ではない。ウクライナやガザにおける破壊と殺戮、スーダンやミャンマーの内戦、そしてアフリカや中東の多くの地域で続く武力衝突は、富や領土、資源をめぐる争いと、宗教・民族的対立が複雑に絡み合った結果である。これらの戦争は、人々の生活基盤を破壊し、数百万人を難民として追いやる。富を奪い合い、勝者も敗者も深い傷を負うその現実は、愚かな金持ちの譬えが告げる「命の保証なき蓄積」の悲劇を世界規模で体現している。

 日本においても、戦争の影は遠い過去のものではない。近年の安全保障論議や防衛費の拡大は、国家としての自衛の名のもとに進められているが、その背後には「他国から奪われないために、より多く蓄える」という心理がある。これは個人が倉を拡大する愚かな金持ちの姿と重なる部分を持つ。平和のための準備が、やがて武力による威嚇や支配のための準備へと変質してしまう危険は、歴史が繰り返し示してきた通りである。

 次に、孤立の問題を見たい。富や物質的な成功が人生の価値基準となる社会では、人と人とのつながりは「利得の有無」によって評価されがちである。SNSやメディアは「自己実現」や「成功者」のイメージを絶え間なく流し込み、人々を比較と競争に駆り立てる。その結果、孤独や孤立は、経済的困窮者だけでなく、経済的には恵まれている人々の間にも広がっている。倉に物を満たすように心を満たそうとしても、愛や信頼を蓄えることを忘れれば、人は容易に孤立してしまう。

 差別の問題もまた、この「富と価値観の転倒」と深く結びついている。経済的・社会的資源を持たない人々は、しばしば「価値が低い」とみなされ、排除される。難民や移民、障がいを持つ人々、性的マイノリティ、女性や子どもなど、脆弱な立場に置かれた人々が社会の中で疎外される現実は、まさに「神の前に豊かではない」社会の証である。近年の日本でも、外国人やLGBTQ+に対する排外的言説が政治やSNS上で公然と語られ、その言葉が人々を分断し、憎悪を煽っている。この流れは、富や権力の集中を正当化するために「異質な他者」を排除する、愚かな金持ちの論理を国家規模に拡大したものである。

 さらに、環境破壊と気候危機は、現代における最も深刻な「空しさ」の象徴である。地球温暖化、異常気象、生態系の破壊は、人間が「豊かさ」を追い求めた結果、地球そのものを危機に追いやった現実である。倉を大きくし、富を積み上げることが、やがて自らの生存基盤を崩すことになるという逆説は、今や誰の目にも明らかだ。それでもなお、経済成長と消費拡大を手放せない現代社会は、譬え話の愚かな金持ちの道を歩み続けているように見える。

 ここで、教会の公共倫理が問われる。教会は、単に魂の救いを語る場であるだけでなく、社会の価値観を批判的に照らし出す預言者的役割を持つ。戦争や差別、環境破壊に沈黙する教会は、倉に富を蓄える富豪と同じく、自らの安逸を守るために真理を犠牲にしている。逆に、神の平和を基準として社会の不正義を告発し、弱き者と連帯する教会は、たとえ富や権力を持たなくとも「神の前に豊か」な存在である。

 信仰と公共倫理の交差点に立つ私たちは、現代社会において「豊かに生きる」とは何かを問い直さねばならない。それは、戦争ではなく平和を築くこと、孤立ではなく交わりを広げること、差別ではなく包摂を進めること、搾取ではなく環境と調和することに他ならない。これらの歩みこそが、空しさを超えて命を豊かにする神の道である。

教会共同体の応答 — 祈り・赦し・証し・召命

 ここまで見てきたように、コヘレトの「空の空」、福音書の愚かな金持ちの譬え、そしてコロサイ書の勧めは、いずれも「神の前に豊かであること」と「自分のためだけに富を蓄えること」との間にある決定的な断絶を示している。この断絶を意識し、それを越えて生きることは、個人の努力だけでは難しい。そこで重要になるのが、教会共同体としての応答である。教会は単なる集会の場ではなく、神の国の価値観を先取りして生きる共同体であり、互いに支え合いながらこの価値観を具体化する使命を帯びている。

1.祈り — 富と空しさを超える霊的呼吸

 教会の第一の応答は祈りである。祈りは、私たちの関心を自分の倉や財産から、神の御心へと向け直す霊的呼吸である。主の祈りの中にある「日ごとの糧を今日もお与えください」という一節は、富を無限に蓄える願いではなく、必要な分を日ごとに受け取る信頼を表す。祈りは、この日ごとの依存を学び、感謝を深める場である。

 また、祈りは社会の現実に対する沈黙ではない。戦争、差別、環境破壊のただ中で、教会はその苦しみを神に訴える「嘆きの祈り(lament)」をも回復しなければならない。嘆きは、不正義や破壊に対して無関心でいることを拒否し、神の正義を求め続ける行為である。この祈りを共同体がともにささげるとき、教会はその存在自体で預言者的証しを立てることになる。

2.赦し — 倉を愛で満たす生き方

 コロサイ書が勧める「互いに忍び合い、赦し合う」生き方は、教会が神の前に豊かであるための基礎である。赦しとは、加害を忘れることでも、罪を黙認することでもない。むしろ、罪や傷を直視した上で、それを最終的な関係の決定要因としないという勇気の行為である。

 現代社会は、対立や過去の過ちを「記録」として保存することに長けている。SNSの発達は、他者の失敗や失言を半永久的に刻み込み、赦しの余地を奪う方向に働くことがある。しかし、教会はこの文化とは異なる道を歩む。赦しは、倉に蓄えるのではなく、倉そのものを愛と和解の場に変える働きである。この赦しの実践がなければ、教会は富を拒否しても心の中で恨みを蓄える、別の意味での「愚かな金持ち」になりかねない。

3.証し — 富の外にある価値を生きる

 教会共同体は、ただ内部で互いを支えるだけでなく、社会に対して証しを立てる使命を負っている。この証しとは、単に信仰を言葉で語ることではなく、富に依存しない生き方を具体的に示すことである。

 例えば、貧困や孤立の中にある人々を無条件に受け入れ、支えること。持続可能な生活を選び、環境負荷を減らすこと。難民や移民、性的マイノリティ、障がい者などの包摂を実践すること。これらの行動は、愚かな金持ちの倉とは異なる「命の倉」を築く営みであり、社会に対して神の国の価値観を示す公然たる証しである。

4.召命 — 富の物差しから解放される使命

 最後に、教会は一人ひとりが召命(vocation)を見出し、それを生きる場である。召命とは、職業や役職のことだけではなく、神から与えられた賜物と情熱をもって他者に仕える生き方全体を指す。召命を生きる者は、富や地位ではなく、神の御心に沿った働きを優先する。

 この召命は、しばしば世間的な成功とは無縁である。むしろ、低くされる場所、忘れられた人々の中でこそ実を結ぶことが多い。そこで流れる涙や献身は、倉には収まらないが、神の国においては何よりも尊い富である。召命に生きるとは、神の前に豊かであることを日々選び取ることに他ならない。

 このように、祈り・赦し・証し・召命は、教会共同体が富と空しさのはざまで揺れる時代において取るべき応答の柱である。それらを通して、教会は社会の中にあって「別の価値観がここにある」というしるしとなり、神の平和を現す場となる。この応答がなければ、教会は単なる宗教団体に留まり、空しさを乗り越える光を失ってしまうだろう。

神の前に豊かに生きる — 神学的統合と典礼的適用

 ここまで見てきた「空の空」という現実認識、愚かな金持ちの譬えが告げる警告、そしてコロサイ書に示される新しい人の姿は、いずれも「神の前に豊かであること」を目指す信仰の核心を指し示している。この核心は、単に道徳的勧告として留まるものではなく、礼拝と祈りの生活の中で、霊的に繰り返し再確認され、具体的に形作られていく。

1.神学的統合 — 空しさを超える希望

 コヘレトは人生の儚さを見つめ、その現実を嘆きながらも、なお「神を畏れ、その戒めを守る」ことを人間の本分とした。イエスは富の空しさを指摘し、命の保証は神のみが与え得ると教えられた。そして使徒は、神の選びに応え、新しい徳を身にまとう生き方を示した。これらを統合するとき、私たちは次のような神学的洞察に至る。

 すなわち、命とは所有物や成果によって保たれるものではなく、創造主との関係によって保たれるということ。富は手段であって目的ではなく、それをどのように用いるかによって、その価値が永遠にも一瞬にも変わる。空しさを避けるのではなく、空しさの中にあっても揺るがない基盤を神に置くことこそ、信仰の歩みである。

2.典礼との接続 — 神の前に豊かさを告白する

 この神学的真理は、典礼の中で繰り返し告白される。礼拝の中で私たちは「我らの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈り、必要を神に委ねる。また、奉献の祈りにおいて「すべては主より出で、我らはこれを主に献げる」と告げるとき、私たちは富の所有権を神に返し、管理者としての自らの立場を再確認する。

 また、聖餐は、富の分配の逆の出来事である。そこでは、限られたパンとぶどう酒がすべての人に平等に分け与えられ、誰も欠けることがない。この行為は、倉を拡大して独占しようとする金持ちの姿と正反対であり、神の国における豊かさの原型を示す。

3.祈祷との接続 — 感謝と依存の霊性

 祈祷の生活において、「感謝」は神の前に豊かに生きるための不可欠な態度である。感謝は、富の多寡によらず、命の源が神であることを受け入れる信仰告白である。感謝の祈りは、困難や損失の中でも神の恵みを見出す目を養い、日ごとの糧を受ける喜びを深める。

 また、祈祷は「依存の霊性」を育む。現代社会は自立と自己完結を理想とするが、信仰生活はむしろ神と共同体への依存を肯定する。これは弱さの告白ではなく、神の前での真実な姿勢である。この依存こそが、空しさを恐れずに生きるための力となる。

4.霊的適用 — 富の再定義と生活の選択

 説教を聞いた信徒が、日常においてどのようにこのメッセージを生きるかが問われる。具体的には、以下のような方向性がある。

富の再定義

 富とは単なる貨幣的資産ではなく、時間、賜物、人間関係、健康、信仰、共同体など、神から与えられたあらゆる良きものを含む。それらを神の御心に沿って用いるとき、それは永遠の価値を持つ。

生活の選択

 無駄な蓄積や消費を避け、必要を超えた分を他者と分かち合うこと。困っている人を見かけたとき、単なる同情にとどまらず、具体的な支援や連帯に踏み出すこと。

共同体の中での豊かさの実践

 教会内外で赦しと交わりを広げ、特に社会から取り残されがちな人々を受け入れる文化を形成すること。

 こうして礼拝・祈祷・生活が一つに結びつくとき、信仰は単なる個人的信条ではなく、世界を変える力となる。富の空しさを越え、神の前に豊かに生きる道は、日ごとの感謝、交わり、奉仕の中で現実のものとなるのである。

空しさを越えて、神の前に豊かに

 盛夏の陽射しの下、蝉の声が途切れることなく響く。この命の叫びもやがて静まり、夏は過ぎ去る。私たちの人生もまた、その歩みを終えるときが来る。コヘレトが語った「空の空」は、決して死の影を以て脅かすための言葉ではない。それはむしろ、有限の命を正直に見つめることによって、今この時を神と共に、そして隣人と共に生きることの尊さを呼び覚ます鐘の音である。

 イエスは、倉を拡大して富を積む愚かな金持ちの譬えを通して、「あなたの命は、富によって支えられているのではない」と告げられた。命の保証は、所有物ではなく、命を与え、日ごとの糧を備えてくださる神の御手にある。コロサイ書の勧める新しい人の姿—憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、忍耐—は、この真理を日常において具体化するための道しるべである。

 現代社会は、戦争、孤立、差別、環境危機といった数々の試練に直面している。その根にあるのは、「より多くを得ればより安泰である」という錯覚であり、富や権力を命の保証とする価値観である。だが、私たちは知っている。この価値観がもたらすのは、むしろ破壊と分断、そして空しさである。だからこそ、教会は預言者として立ち、神の前に豊かに生きる別の道を示さなければならない。

 その道は、壮大な戦略や完璧な制度から始まるのではない。むしろ、小さな感謝の祈りから、目の前の隣人への赦しから、弱き者との交わりから始まる。それらは世間の目には取るに足らないように見えるかもしれないが、神の国においては何よりも尊い富である。

 礼拝においてパンを裂き、杯を分かち合うとき、私たちは倉に独り占めして蓄えるのではなく、分かち合うことこそが命を養うと告白している。祈りの中で「日ごとの糧を」と願うとき、明日の富ではなく今日の恵みに信頼する生き方を選び取っている。そして、感謝と奉仕の日々を積み重ねるとき、私たちは神の前に豊かな者となる。

 兄弟姉妹よ、今日与えられた御言葉は、私たち一人ひとりに問いかけている。

 あなたの倉は、何で満たされているのか。

 それは富と安逸か、それとも愛と平和か。

 その倉は、死を越えて神の国へと運ばれるものか。

 この問いに対する答えは、言葉ではなく生き方で示すものである。だから私たちは、空しさを恐れるのではなく、それを通して神の永遠の豊かさに根ざす者となろう。富を頼みとせず、神の平和に心を支配され、感謝と愛を倉いっぱいに満たす者となろう。

 そして、私たちが歩むこの道が、やがて世界にとって「別の豊かさ」のしるしとなるように。戦争ではなく平和を、孤立ではなく交わりを、差別ではなく包摂を、搾取ではなく創造の保全を選び取る者として。

 主の御前で豊かに生きるその歩みは、小さな祈りの中に芽吹き、赦しと奉仕の中に育まれ、神の国の完成に至るまで続く。

 主よ、私たちの倉をあなたの愛で満たしてください。空しさの中にも、あなたの豊かさを見いだす目を与えてください。

 その豊かさを、この世界のただ中で証しする勇気を与えてください。

 アーメン。

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