聖霊降臨後第七主日 説教草稿「求める者に与えられる義」

【教会暦】
聖霊降臨後第七主日(二〇二五年七月二七日)
【聖書箇所】
旧約日課 :創世記 一八章二〇〜三三節
使徒書 :コロサイの信徒への手紙 二章六〜一五節
福音書 :ルカによる福音書 一一章一〜一三節
沈黙の中に語られる祈りの呼吸
教会暦の時が、静かに私たちを聖霊のうちに歩ませている。聖霊降臨の炎に始まるこの季節は、祝祭の高まりというよりも、むしろ、日々の信仰生活に息づく聖霊の現臨を、深く、静かに受けとめる歩みである。特定十二主日となるこの朝、与えられた福音は、主イエスの祈りから始まる。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。弟子の素朴な願いに応えて、主は祈りを教えた――あまりにも馴染み深い「主の祈り」として、わたしたちが今日も口にするその言葉の原形である。
だが、耳慣れたその言葉の奥には、神との沈黙の交わりに生きる祈りの呼吸が潜んでいる。人は、祈るときに何を求めるのか。誰に向かって語っているのか。そして、応えられぬように思われる沈黙の中に、なおも聞き取ろうとする声は、どこから来るのか。聖霊降臨後の時は、こうした問いに、祈りと応答と赦しとが深く交錯する生活の中で、神の霊の導きによって、静かに、しかし確かに、私たちを再形成していく。
本日の三つの日課は、それぞれの仕方で「祈りと応答」の神秘を照らしている。旧約においては、アブラハムが神に取りすがり、正しい者のゆえにソドムを赦してくださるよう懇願する姿が描かれる。その祈りは、交渉のようでありながら、実は深い信仰に裏打ちされた「とりなしの祈り」であった。神の裁きに直面する世界の中で、アブラハムは声を上げる――「どうか、あわれんでください」と。
そして使徒書では、パウロがコロサイの教会に向け、「キリストに根ざし、造り上げられ、信仰に堅く立って歩め」と勧める。ここには、信仰が単なる感情や観念ではなく、日々の生活の根底に深く根を張るような存在論的次元を帯びていることが強調される。祈ること、神に信頼して歩むこと、それは即興的な行為ではない。むしろ、キリストという見えざる根に養われる生のかたちである。
福音書は、その祈りの核心をさらに掘り下げる。弟子たちに祈りを教えた主は、たとえ話によって神の応答の確かさを語る。「求めなさい。そうすれば、与えられる」。だがその応答は、しばしば時間を要する。沈黙の中に、神がすでに聞いておられることを信じて、なおも祈り続けること――それが、今日、私たちに与えられている信仰の形である。
戦争の叫びがやまぬこの地上で、制度的不正義に呻く人々が声を失い、祈る言葉さえ持てなくなっているとき、教会は「祈る共同体」として、その沈黙の声を神のもとへと携える責任を与えられている。すぐには報いられぬ願い、応答の見えぬ嘆願、それでもなお続ける祈り。そこにこそ、聖霊は働く。祈りを形に変える力ではなく、祈りを通して人を変え、世界を支える神の霊――それが、わたしたちのうちに宿る聖霊である。
この朝、私たちは三つの日課に導かれ、祈りを新たにされる。神への執り成し、沈黙に対する信頼、根に養われる信仰。そして、求める者に確かに与えられる霊。問いと応答のあいだに響く、深い霊的対話の只中へと、今、招かれている。主の祈りをただ口ずさむのではなく、その祈りの呼吸の中に、私たち自身を置き直そう。
アブラハムの執り成しと神の義――創世記一八章の再読
「主よ、どうかお怒りにならず、もう一度だけ言わせてください――」。創世記一八章におけるアブラハムの言葉には、尋常ならざる緊張と、深い信仰が宿っている。主がソドムの罪を見て「叫び声は大きく、その罪は非常に重い」と語るとき、これは裁きの決定を意味する。神の義は、その神聖さゆえに罪を看過しない。だが同時に、アブラハムのとりなしによって、神は一つの問いをわれわれに投げかける――「わたしは正しい者を、悪しき者と共に滅ぼすだろうか」。
この問いは、旧約における神の義の根幹に触れる。義(צֶדֶק, tsedeq)は単なる「報いの正しさ」ではない。それはむしろ、関係性における誠実さと、神の深い憐れみとを内包する概念である。アブラハムは、神の義に信頼して言葉を重ねる。まるで天の前に差し出された契約のように、五〇人、四五人、三〇人……と祈りを繰り返す。交渉に似て非なるそれは、神の義の本質が「数」ではなく「姿勢」にあることを、私たちに気づかせる。
文学的には、この箇所は神と人間の対話劇としての性格を強く持つ。単なる歴史叙述ではなく、神の沈黙と応答の間に、ひとりの信仰者が立ち尽くしながらも祈り続ける姿が浮かび上がる。ここに現れる神は、ただ超越的に裁きを下す方ではなく、人間の言葉に耳を傾け、応答し、時には心を翻すように見える存在である。これは旧約においてしばしば見られる、神の「後悔」(נִחַם, nikham)や「思い直し」(שׁוּב, shuv)という動詞に通じる神学的動きでもある。
アングリカンの伝統的神学では、このアブラハムのとりなしは、「公同の祈り」(common prayer)の原型のひとつとされてきた。すなわち、祈りとは単に私的願望を捧げる行為ではなく、共同体の罪と苦しみを神の御前に携える聖なる職務であり、執り成しの中に神の憐れみが啓かれるという理解である。トマス・クランマーが『祈祷書』を編纂した際、その多くが「私のため」ではなく「我らのため」「万人のため」と記されているのは、この聖書的伝統に根ざしている。
アブラハムの祈りはまた、裁きと赦しのあわいにある「希望」の神学でもある。私たちは時に、世界の罪深さ、暴力、欺瞞の大きさに圧倒され、「もう赦される余地などないのではないか」と思ってしまう。しかしアブラハムのように「一人の義人」の可能性に賭けて神に懇願すること、そこに信仰者の責任がある。神の義は、義人の有無で判定されるような機械的正義ではない。それは、執り成す者がいること、すなわち祈る者がなお地上に存在することにより、現実に介入する愛である。
今日の社会においても、裁きの声は鳴り響いている。戦争、差別、環境破壊、不正義の制度化……それらはまさに、神の目に「叫び声が大きく、罪が非常に重い」現実に他ならない。だが神は、そのただ中に立つアブラハムたち――沈黙せず、しかし告発するのでもなく、ひたすら神に語りかける者を探しておられるのではないか。わたしたちは、その声となりうるだろうか。
この章において明らかになったことは、神の義が一方的な裁きではなく、応答可能な愛であるということである。祈る者がいれば、神は耳を傾けられる。とりなしとは、単なる儀礼的行為ではない。それは、神と共に世界の痛みを担おうとする者の姿である。そしてその祈りの中に、神の義そのものがあらわになる。祈りを通して世界を読み替え、神の応答の可能性を信じて待ち望む――これが、創世記一八章におけるアブラハムの霊的証しである。
キリストに根ざし、赦しのうちに歩む共同体のかたち
アブラハムが神の義にすがってとりなしたように、使徒パウロもまた、キリストに根ざす信仰の姿勢を、繰り返し教会に求めていた。コロサイの信徒への手紙において彼は、「キリストを主として受け入れたのだから、そのうちに歩みなさい」と勧めている。それは単なる倫理的忠告ではない。むしろ、信仰とは、見えざる「根」によって支えられる全生活の運動であり、地に伏すような謙遜さと、天に向かうような確信との両極を生きることに他ならない。
この箇所において、パウロは二つの中心概念を語る。すなわち、「キリストのうちに歩むこと(περιπατεῖτε)」と、「キリストによる赦しと勝利(ἐχαρίσατο)」である。前者は、生の連続性における霊的方向性を示し、後者はその基盤が既に与えられているという神学的確信を意味する。人間の努力や感情に依拠するのではなく、「罪を帳消しにした証文を無効にした」神の一方的な働きに依って、信仰者は歩むことができる。これはアブラハムの祈りが、神の応答に信頼していたことと呼応する。
ここで注目すべきは、パウロが「人間の伝承や世の霊に従うのではなく、キリストに従うように」と警告している点である。初代教会の信徒たちは、ユダヤ教的律法遵守の圧力、ギリシア的知恵への誘惑、また地元の民間信仰など、多様な霊的勢力に囲まれていた。現代の私たちもまた、制度、ナショナリズム、富と暴力のイデオロギーという「世の霊」に翻弄される中で、信仰の根を見失いかねない。そのような時にこそ、キリストに根ざすとは何かを問い直すことが急務である。
アングリカンの神学において、「根に養われる信仰」というイメージは、典礼的共同体の霊性と不可分である。私たちは日々の礼拝において、主の死と復活とにあずかり、祈りを通してキリストのうちに歩むように整えられる。特にコロサイ書にある「洗礼によって、彼と共に葬られ、また彼と共に生き返らせられた」という表現は、聖公会の洗礼・堅信・聖餐の全体を貫く「パスカ的な歩み」を象徴している。信仰とは、過去の出来事への同意ではなく、現在においてそれを生きる身体の出来事である。
そしてパウロは、「支配や権威を打ち破って、晒しものにし、十字架によって勝利された」と断言する。この言葉は、歴史的・政治的文脈においても極めて力強い。なぜなら、ローマ帝国の支配下にあった信徒たちは、「勝利」という語を、圧政と軍事的征服の言語としてしか聞いていなかったからである。パウロはそれを転倒させる。勝利は、弱さのうちに示された。十字架の恥が、神の栄光となった。この逆説は、世界の秩序を支配する権力構造を神が覆すという、預言的な宣言でもある。
この文脈において、アブラハムのとりなしもまた、別の光で照らされる。彼が願ったのは都市の存続ではなく、神の義の実現であった。彼の声は、制度の秩序の中にある「多数派」ではなく、「ひとりの義人」のための声だった。コロサイ書の「キリストによる赦し」もまた、制度の正当性や多数派の論理ではなく、ひとりの犠牲によってなされた根源的な転換である。信仰とは、こうした「声なき者の声」「見えぬ者の勝利」に与ることである。
このように、使徒書は、旧約の物語を霊的に深化させつつ、キリストにおける新しい人間の姿を描く。祈るとは、神に語りかけることだけではない。それは、キリストに根ざし、日々の歩みの中で赦しの現実を生きることでもある。すなわち、祈りと赦しは、生活の根底においてひとつである。赦された者として、他者のためにとりなし、沈黙する神に信頼を置きつつ、なお祈りを続ける。それが、教会に生きる私たちの召命である。
制度化された非赦しの文化と祈りの危機
「求めなさい。そうすれば、与えられる」。この主イエスの言葉ほど、現代において空しく響くものはない、と感じる人がいるかもしれない。私たちは、祈りが即座に報いられる世界には生きていない。求めても与えられない、叫んでも応答がない、赦しを請うても赦されない――そのような霊的荒野を生きる多くの人々がいる。そしてそれは、単に個人の経験や情緒の問題ではなく、制度化された文化の問題でもある。
現代社会は、一種の「非赦しの制度化」を進行させている。政治の世界においても、教育現場においても、SNSの言論空間においても、「一度の過ち」がその人間の全体を規定し、許される余地を奪っていく。謝罪しても許されず、償っても回復されず、対話の余地さえ与えられない社会。それは、赦しの否定によって秩序を保とうとする文化である。この風潮のなかで、祈りは深く傷ついている。なぜなら祈りとは本質的に、「赦されうる者」として自らを神の御前に差し出す行為だからである。
この文脈で、アブラハムのとりなしは鋭く問いかける。「正しい者のゆえに、あなたは滅ぼさないでくださいますか」。アブラハムは、裁きの論理の中に介入し、「赦しの余地」を創出しようとする。彼の祈りは、神の義が「赦すことのできる義」であるよう、神に問い続けるものであった。だが現代において、制度はもはや「赦すこと」をその任務としない。それどころか、赦さぬことを正義とする構造が蔓延している。刑罰の厳罰化、難民の排除、自己責任論の蔓延、労働現場の使い捨て文化、そしてメディアによる吊し上げ――それらはすべて、「一度の咎は永遠の断罪に値する」という霊的構造に貫かれている。
こうした非赦しの文化において、信仰は試されている。キリスト者は「赦された者として生きる」と言うが、その赦しの現実性を、どこまで深く、社会的に証しできているだろうか。教会自身が、ときにこの非赦しの論理を内面化していないだろうか。過去の過ちを認めることなく沈黙し、罪を悔い改める機会を共同体から奪い、異なる立場の者を赦すことなく排除する――それは、アブラハムが問うた「神の義」に背く生き方ではないか。
さらに言えば、祈りの言葉そのものが、「効率」と「有用性」の文脈に取り込まれてしまっている。「祈れば願いがかなう」「神はあなたを祝福する」――こうした福音の名を借りた功利的言説は、神の応答を即時的な恩恵と取り違えるものである。だが主イエスが教えた祈りは、「御国を来たらせたまえ」「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という、世界と歴史の痛みを共に担うものであった。それは、祈る者が「神の応答を待つ者」として練られていくプロセスであり、応答の不在をも信頼に変える時間の中で形成される信仰である。
このような時代にあって、教会に課されているのは、「祈る者がいる限り、世界は滅びない」という信仰の言葉を、実存的・倫理的責任として生きることではないだろうか。アブラハムは、沈黙せず神に語った。パウロは、赦しの現実を語った。そして主イエスは、「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」と語られた。その言葉に応答する祈りの共同体として、私たちは「非赦し」の社会構造に抗い、赦しうる共同体、赦される可能性を信じる信仰者の姿を取り戻さなければならない。
この世界には、「求めても与えられない」現実がある。だが同時に、「与えられることを信じ続ける」霊性も存在する。制度が赦さなくとも、神は赦す。社会が沈黙しても、祈りは語る。そうした信仰の実践こそが、非赦しの文化に対する最も根源的な預言的証しとなるのではないか。
祈ることをやめない教会――赦しと応答の場としての召命
主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と語られた。だがそれは、個人の内面に閉じた信仰の奨励ではない。この言葉は、むしろ「教会」という祈りの身体、赦しの共同体への招きである。ルカ福音書の文脈を読み直せば明らかである。弟子たちは「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と願い、主はその祈りを「我らの父よ(Πάτερ)」と教えた。祈りは、いつも「私たち」として捧げられる。祈るとは、信じる共同体として生きることなのである。
今日、教会が置かれている現実は容易ではない。宗教への不信感、制度疲労、若い世代の離脱、あるいは排外主義的キリスト教の拡大によって、「祈り」「赦し」「教会」といった言葉自体が、空洞化しつつあるようにも思われる。しかし、そうした霊的後退の只中で、なお祈り、赦しを信じ、信仰共同体として生きることこそ、教会の本来の姿であり、召命なのである。
アブラハムは、ひとり荒野で神に語りかけたのではない。彼のとりなしの祈りは、実際にはひとつの共同体の未来を担うものであった。祈るとは、自分の願いを超えて、誰かのために語ること――すなわち、代弁と介在の行為である。教会もまた、この「とりなしの共同体」であるべきだ。傷ついた者、声を奪われた者、希望を失った者に代わって、神の前に立つ。そして沈黙する神に向かって、なおも祈る。「主よ、正しい者のゆえに、この町を滅ぼさないでください」と。
赦しに生きることもまた、共同体的実践である。信仰者が赦しを告白するだけでは十分ではない。その赦しが、他者への開かれた関係へと実を結ぶ必要がある。私たちは礼拝の中で「互いに平和のあいさつを交わしましょう」と言う。それは、単なる儀礼ではなく、「ゆるされた者たちによる赦しの交わり」を確認し合う霊的な行為である。赦されるとは、赦すことを可能にされることであり、それが教会共同体において繰り返され、深められていく。
アングリカンの典礼は、こうした赦しと祈りの構造を礼拝の中に明確に保持している。悔い改めの祈り、赦しの宣言、赦された者たちによる聖餐への参与――この流れが、教会を教会たらしめている。とりわけ、共に主の祈りを唱える場面は、単に言葉を復唱する時間ではない。そこは、神の応答を信じて祈りを手放す瞬間であり、教会がその信仰を確認する頂点でもある。
現代社会の中で教会が「祈りの家」「赦しの場」「とりなしの共同体」として立ち続けることは、単なる伝統の保持ではない。それは、「祈りと赦しは今なお可能である」という預言的な希望の証しである。そしてそれはまた、社会の制度や文化がどれほど非赦しの論理に染まっていようと、神の応答はそれを超えて働くという信仰に立つことである。
こうして見ると、教会とは「祈りを学び続ける場所」と言い換えることもできる。弟子たちは「主よ、祈りを教えてください」と願った。教会もまた、主に祈りを教えられ続ける共同体である。時に言葉を失い、神の沈黙に戸惑いながらも、なお祈ることをやめない共同体。その歩みの中で、赦しを受け取り、赦しを与える力が少しずつ育まれていく。
そのような教会において、一人ひとりの信徒は召命を受けている。説教をする者だけではない。名もなき信徒、日々の祈りを捧げる老女、職場で怒りを抑えて赦す決断をした青年、あるいは夜ごとに「主の祈り」を口ずさむ病床の人――彼らすべてが、アブラハムと同じように、「神の義に訴えかける者」とされている。主イエスの言葉は今も生きている。「あなたがたの天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」。
この言葉を信じる教会は、必ず、希望のうちに歩む。赦しを告げることの困難さを知りながら、それでも赦しをあきらめない。祈りの言葉が口にできなくとも、互いに祈り合う。傷ついた現実にあっても、神の応答を信じる。そうした小さな祈りと赦しの交わりが、世界の片隅で灯をともしている――その事実こそが、教会のいのちであり、召命である。
祈りの霊的リアリズム──主の祈りと赦しの神学的統合
祈りとは、世界と神との関係の中に、自己を置き直す行為である。それは決して自己充足の内面作業ではなく、「この世界にあって、なお神を信じる」という極めて現実的かつ神学的な営みである。アブラハムのとりなしも、パウロの赦しの教説も、そして主イエスの祈りの教示も、すべてはこの一点に集約される。すなわち、「神が応答される」という信仰に基づいて、世界の現実を読み替え、そこに希望を編み出す行為――それが祈りである。
福音書で主イエスが弟子たちに与えた「主の祈り」は、単なる模範ではなく、霊的リアリズムの凝縮されたかたちである。神の御名が聖とされるように、御国が来るように、御心が行われるように――これは、現実の世界が神の意志と乖離していることを前提とした願いであり、単なる安寧ではなく、神の支配が「来る」ことを願う預言的な言葉である。そして「我らの日ごとの糧を与えたまえ」という一句において、祈りはこの身体的世界、時間的現実、貧困と労苦の現場にまで貫かれていく。
赦しは、祈りの核心である。主の祈りが「我らの罪を赦したまえ。我らも我らに罪ある人を赦します」と語るとき、そこには応答の構造がある。神から赦された者が、他者を赦すという循環、それはまさにパウロがコロサイ書で語ったように、「キリストに根ざして歩む者」の霊的特徴に他ならない。そしてこの循環が礼拝の中で最も明確に現れるのが、聖餐である。
アングリカンの聖餐式は、悔い改めの祈り、赦しの宣言、主の祈り、平和の挨拶、そして「聖なるものを、聖なる者に」という召命の言葉を経て、私たちを神の食卓へと招く。これは単なる儀式の連なりではない。それは、祈りにおいて神に近づいた者が、赦しにおいて再び人と結ばれ、その交わりのうちにキリストの体に与るという、霊的運動のダイナミズムなのである。私たちは赦されるだけではなく、赦しを実践する者とされる。その中で、祈りは応答となり、信仰は関係へと変容する。
この神学的構造は、教会の祈祷生活全体にもあてはまる。朝の祈り、夕の祈り、共同祈願、病者への祈り、逝去者のための祈り――それらはすべて、「神の応答を信じて語る言葉」であり、時間のうちに神の国を呼び求める霊的行為である。そしてそこには、常に赦しと変容の可能性が織り込まれている。アブラハムが神に語り続けたように、私たちもまた、絶望と沈黙の時代にあって、祈ることをやめない共同体として生きる。
霊的適用の面では、この祈りの神学は、私たちの生活の具体的場面に深く関わる。たとえば、人間関係の亀裂、制度的不正義、排除や差別に直面する時、教会は何を語るのか。赦しとは、すべてを水に流すことではない。それは、記憶の中に愛を刻み直し、関係を再び可能にする神の力への信頼である。祈りとは、正義を棚上げする行為ではない。それは、正義の回復を神に託しつつも、自らは復讐を手放し、神の応答に信頼する霊的選択である。
この選択は、しばしば苦しみを伴う。沈黙の神に語り続けること。赦されぬ者を赦すこと。願いが応えられない時にも、なお祈り続けること――これらは、簡単ではない。だがそこにこそ、信仰のリアルがある。それは自己犠牲ではなく、「神に根ざす歩み」であり、キリストに倣う霊的姿勢である。
今日の礼拝において私たちは、主の祈りを共に唱えるであろう。そのとき、ただ言葉を繰り返すのではなく、この全説教を通して示された神の義、赦しの力、そして教会の祈りの使命を思い起こそう。求める者に与えられるのは、願いがかなうことではない。与えられるのは、「聖霊」そのものである。すなわち、祈りを続ける力、赦しを生きる知恵、沈黙に耳を澄ます霊的感受性――それらすべてが、天の父から、今、与えられている。
沈黙のうちに応えられる神への信頼
主イエスが教えた祈りの言葉――「御国を来たらせたまえ」「我らに罪を赦したまえ」は、二千年を超えて受け継がれてきたにもかかわらず、いまだその核心に触れることの困難さは消えない。むしろ、時代が進むほどに、祈りは空洞化し、赦しは嘲笑され、神の応答は遠く感じられることが増している。だが、その沈黙のただなかにおいても、神は応えておられる。祈る者がいるかぎり、神の国の希望は決して消えない。そう信じることが、私たちの信仰のすべてである。
アブラハムは、自らの正しさを主張することなく、ただ「もし五十人の義人が……」「いや、四十五人なら」「三十人、二十人、十人……」と声を絞った。やがて彼の問いかけは止み、神の応答も記されていない。だがその沈黙の中に、神と人との関係の本質が立ち上がっている。すなわち、問いを投げかけたという事実そのものが、すでに神との関係の表現であったのだ。祈りとは、答えの有無ではなく、神に語りかけることそのものである。
ルカによる福音書は、「父は求める者に聖霊を与えてくださる」と記してこの教えを締めくくる。与えられるのは願望の成就ではない。聖霊――すなわち、神との交わりのうちに歩み続ける霊的力こそが、求める者に与えられるのである。これは、与えられた瞬間に結果をもたらす力ではない。むしろ、沈黙に耐え、赦し続け、なお祈りうる霊的忍耐の力である。アブラハムもまた、答えを得ぬままに、沈黙の神を信じてその場を去った。だがその祈りは、神の義と憐れみを世界にもたらす扉を開いた。
今日、わたしたちはこの世界の多くの場所で、赦しが拒まれ、祈りが侮られ、正義が沈黙している現実に直面している。制度の名において人が裁かれ、声なき者の呻きがかき消され、情報の洪水のなかで真実が見えなくなっている。しかし、そうした時代にあってこそ、教会はなおも祈ることをやめてはならない。祈るとは、神に抗議することでもあり、神の義に賭けることであり、世界の終わりにあってもなお赦しを語り続けることである。
赦されること、赦すこと――この二つの霊的行為が、いかに困難であるかは、信仰生活を少しでも歩んだ者なら誰しも知っている。けれども、わたしたちの祈りの中に、キリストは共にいてくださる。「父よ、彼らをお赦しください」と叫んだその声が、いまもわたしたちの祈りを覆っている。だからこそ、どんなに祈りの言葉が弱くても、あるいは言葉にすらならなくても、神はその沈黙を祈りとして受けとってくださる。祈ることができないときでさえ、聖霊が「言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」と、使徒は記している(ローマ八・二六)。
主の祈りを唱えるたびに、私たちはその一語一語に、重ねられた歴史と血と赦しと希望を聴き取るように招かれている。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、ただの願望ではない。それは、祈る私たち自身が、神の御心に生きる者となることを決意する言葉でもある。「御国を来たらせたまえ」という祈りは、神に向けてだけではなく、自らの歩みに向けての告白である。
いま、赦しを語ることが困難な時代において、なお赦しを祈る者であり続けること。それこそが、主イエスが教えた祈りの継承である。そしてその祈りは、やがて来るべき御国をこの地に先取りする、小さな、しかし決定的な徴となる。
祈りましょう。
主よ、わたしたちに祈りを教えてください。応答のない夜に、あなたが共にいてくださることを、信じさせてください。赦すことの困難に沈むとき、あなたの赦しがすでにわたしたちの内にあることを、思い出させてください。声なき者の代わりに語る者となる勇気を、祈りのうちに与えてください。
そして、わたしたちが祈るとき、沈黙のうちに答えてくださるあなたの御霊が、すべての者のうちにあまねく宿り、世界を変えてゆきますように。御国が来ますように。赦しがあまねく響きますように。
アーメン。