聖霊降臨後第五主日 説教草稿「あなたの隣人を誰とするか」

【教会暦】

聖霊降臨後第五主日(特定一〇) 二〇二五年七月一三日

【聖書箇所】

旧約日課 :申命記 三〇章九〜一四節
使徒書  :コロサイの信徒への手紙 一章一〜一四節
福音書  :ルカによる福音書 一〇章二五〜三七節

【要旨】

 聖霊降臨後第五主日(特定一〇)の聖書日課は、掟と隣人という主題を中心に、信仰と行動、知恵と愛、律法と憐れみの交差点を私たちに示している。申命記三〇章においてモーセは、「この言葉はあなたの口にあり、あなたの心にある」と語り、神の掟が遠くではなく、すでにわたしたちの内にあることを告げる。パウロはコロサイの信徒たちに向けて、神の御心を深く知る霊的識別を祈り求める。そしてルカ福音書のイエスは、倒れた男を助けた「善きサマリア人」の譬えを通して、「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じる。

 信仰とは、誰が隣人かを定義することではなく、誰に隣人となるかを選び取る行為である。教会は、その問いに応答し続ける共同体として、祈りと識別のうちに歩みを進めるよう招かれている。信仰は単なる内面的徳ではなく、道端に倒れる人々──貧困、差別、孤独、戦争、排除のなかにあるすべての命──に気づき、憐れみに満ちた行動へとつながる「道」である。

【本文】

祈りのうちに聞き取る掟の声

 七月という季節は、私たちに静かに語りかけてくる記憶の層を抱えている。照りつける陽光の下に、戦争の記念日が連なり、沖縄、広島、長崎、終戦の日、そしてそれらを取り巻く数多の「見えない」物語が沈黙のなかに佇んでいる。聖霊降臨の時が告げる教会暦の歩みの中で、今私たちは「特定一〇」の主日を迎えているが、その歩みは、ただ内なる聖化や個人的徳を破って語る者のもとへと、私たちを送り出そうとしている。

 この日与えられた三つの聖書箇所──申命記、コロサイ書、そしてルカ福音書に登場する有名な「善きサマリア人」の譬え──はいずれも、「掟」と「隣人」という二つの軸をめぐって交差している。モーセは語る、「この言葉はあなたの口にあり、あなたの心にある。あなたはそれを行うことができる」(申命記三〇・一四)。パウロは祈る、「神の御心をあらゆる知恵と霊的な理解によって深く知ることができるように」(コロサイ一・九)。そしてイエスは、律法の専門家の問いに、「行って、あなたも同じようにしなさい」と答える(ルカ一〇・三七)。

 教会とは何か。それは、真理を知り、愛を実行することにおいて、この三つの語りを自らの命の中心に据える共同体である。そして今日、この「愛の掟」への応答を、私たちは再び問われている。なぜなら、私たちはあまりに容易に「隣人」という言葉を口にしながら、それが誰であるのか、誰でないのか、という線引きを心のうちに抱えて生きてしまうからである。

掟は遠くではなく、あなたのうちにある

 申命記三〇章は、モーセの最晩年に語られた遺訓的な言葉であり、「選びと応答」の神学が凝縮された章である。彼は荒野の旅の終わりに、イスラエルの民に対して「命と祝福、死と呪い」のいずれかを選べと迫る。その際に鍵となるのが、「この戒めは、あなたにとって遠くにあるものではない」という宣言である。

 ここで「戒め」と訳されているヘブライ語「ミツワー」は、単なる禁止命令ではない。それは神との契約関係の表現であり、神の愛に対する人間の自由な応答を促すものである。モーセは、掟は天のかなたや海の彼方にあるものではなく、むしろ「あなたの口と心にある」と言い切る。つまり、神の御言葉はすでに与えられており、それを知り、語り、愛のうちに実行することは、誰にとっても可能であるという信頼がここにある。

 アングリカンの祈祷書もまた、十戒を朗読したあとに、「主よ、わたしたちがこれらを心に刻み、日々あなたの掟に従って歩むことができますように」と祈る。この掟は、外から押し付けられる規範ではなく、内なる霊の声に呼応して生きるための「道」なのである。

 モーセの語りは、ただ古代イスラエルの民族的選択にとどまるものではない。それは、いまを生きるわたしたちに対して、「命に至る道を選べ」と語りかけてくる預言的な呼び声である。そしてこの呼び声は、内面の倫理だけでなく、社会的選択──隣人を誰とみなすか、誰に手を差し伸べるか──という極めて公共的な決断を要求する。

愛の知識と霊的識別への招き

 コロサイの信徒への手紙の冒頭、パウロは信徒たちのために祈り、願っている。「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解に満たされて、主の御心を知ることができますように」と。この「知る」という動詞(ギリシア語:ἐπιγινώσκω)は、単なる知識の獲得ではなく、「深く関わり、共に生きるようになること」を意味する言葉である。

 つまり、パウロが願っているのは、「頭で理解する信仰」ではない。「生き方としての信仰」「愛を行動として選び取る力」としての信仰である。それは、「神にふさわしく生きる」という霊的感受性と識別力を要請する。

 アングリカンの伝統は、このような識別(discernment)を非常に重視してきた。つまり、信仰とは、「何が正しいかを一義的に決定すること」ではなく、「複雑な現実の中で、祈りと共同体の中で、最も愛にかなう選択を行うこと」に他ならない。パウロのこの祈りは、教会がただ正統信仰を守ることに安住せず、「この時代においていかに愛するか」を問い続けることを求めている。

 私たちはいま、数え切れないほどの「知識」に晒されているが、同時に「隣人を見失う危機」の中にも生きている。識別とは、誰の声に耳を傾けるか、誰を隣人として受け入れるかを問い続ける営みである。そしてその問いは、次のルカ福音書において、より鋭く、私たちの心を打つかたちで迫ってくる。

誰が倒れているか、そして誰が通り過ぎていくのか

 ルカによる福音書一〇章に登場する「善きサマリア人」の譬えは、あまりに有名であるがゆえに、私たちはその刺すような急所を見逃しやすい。ある律法の専門家がイエスに問いかける。「永遠の命を得るには、何をすべきでしょうか」。イエスは問いを返し、「律法には何と書いてあるか」と促す。専門家は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛し、隣人を自分のように愛する」と答える。まさに申命記とレビ記の言葉を統合したユダヤ教の中心的信条「シェマ」である。

 しかし、彼はさらに「では、私の隣人とは誰ですか」と問い返す。ここにこそ、人間の計算と限定が潜んでいる。「隣人」を定義しようとすることは、「この人は隣人、この人はそうでない」と境界線を引こうとする営みである。私たちは、しばしばその線引きの中に信仰の正しさを求めてしまう。

 この問いに対してイエスが語った譬えは、予想を裏切る形で展開される。祭司とレビ人は、倒れている男を見ながら道の反対側を通り過ぎていく。おそらく彼らは律法を守ろうとしたのだろう。死体に触れて汚れることを避けるという、聖職者としての義務感が働いたのかもしれない。けれども、その義務感は、目の前の苦しむ命を無視するという罪へと転化してしまう。

 そして現れたのが、「サマリア人」である。ユダヤ人にとってサマリア人は、宗教的にも民族的にも忌避すべき他者であった。そのサマリア人が、倒れた男を見て「憐れに思い」(ルカ一〇・三三)近づき、手を差し伸べる。イエスがここで用いた「憐れに思う」(σπλαγχνίζομαι)という動詞は、福音書で神やイエスの感情を描く際にしばしば用いられる表現である。つまり、サマリア人の行為は、神の心と一致している。

 イエスは最後に、こう問う。「この三人の中で、誰が倒れた人の隣人になったと思うか」。この問いの転回に注目したい。「誰が隣人か」と尋ねた律法学者に対して、イエスは「誰が隣人になったか」と言い換えている。つまり、「隣人とは誰か」とは、定義の問題ではなく、行為と選択の問題なのだ。

 この譬えは、単なる道徳教訓ではない。それは、神学的革命である。正統性の衣を着た人々が通り過ぎ、周縁にある者が神の行いをなす。その逆転は、私たちの信仰共同体に常に突きつけられている根本的問いである。

倒れている人と教会共同体の召命

 現代社会において、「道端に倒れている人」とは誰であろうか。貧困にあえぐ人、見えないところで差別されている人、政治的暴力に傷つけられた人、難民、性の多様性を理由に排除されてきた人、気候変動によって故郷を失った人──そうした人々が、この世界には数え切れないほど存在している。

 教会は、それらの人々に「隣人」となることができるのか。それとも、私たちは「祭司」や「レビ人」のように、教義的整合性や制度的責務という名の下に、すでに彼らの前を通り過ぎてはいないだろうか。

 日本社会における現代的課題──孤独死、ヤングケアラー、経済的不安、差別と偏見、特定の国籍や出自を持つ人々に対する敵意、そして「新しい戦前」とも呼ばれる危機的状況──これらに対して、私たちがなすべきことは何か。礼拝を捧げ、祈りを積むことと、社会の裂け目に降りてゆくこととは、二律背反ではない。それは一つの信仰の現れである。

 教会は、「誰が隣人か」を問う共同体ではなく、「誰に隣人となるか」を祈りと識別のうちに問う共同体であるべきだ。これは単なる慈善活動の推奨ではなく、教会の召命そのものである。隣人のうちにキリストの姿を見いだす信仰。困難にある他者に仕えることを通して、自らが変えられていく霊的実存。それが、聖霊の導きに応答する教会の姿である。

 アングリカンの祈祷書においても、「教会はすべての人のために祈りを捧げ、奉仕の心をもって隣人に仕えるよう招かれている」と記されている。これは決して抽象的理想ではない。現実の痛みと交差する場においてこそ、教会は「隣人の共同体」としての真価を問われる。

愛の掟と典礼の一致、霊的適用としての行動

 説教の終盤にあたり、私たちはここで本日の三つの聖書箇所を神学的に統合しよう。「掟はあなたの心にある」と申命記は告げる。「主の御心を知り、それにふさわしく歩むように」とコロサイ書は勧める。「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエスは命じる。

 この三つは、それぞれ旧約の契約、使徒的教会の祈り、そして主の命令という形で、私たちに同じ一点を指し示している。すなわち、神の愛は遠くにある観念ではなく、いま、私たちの「選び」と「応答」のうちに実現すべきものであるということである。

 典礼は、このような応答の霊的な訓練の場である。私たちは礼拝において、みことばを聞き、悔い改め、赦しを受け、感謝の祈りを捧げ、互いの平和を祈り、奉仕に派遣される。この流れは、善きサマリア人の譬えと一致している。「憐れみを受けた」者として、「行って同じようにする」者へと変えられていくのである。

 ここに、アングリカンの典礼霊性の深さがある。それは、儀式に閉じた世界ではなく、生活と公共の空間へと開かれた「愛の学校」である。説教は、その学校における問いかけであり、共同体の識別に光を与える霊的な灯火である。

 聖霊降臨後のこの時期、私たちが問われているのは、「どれほど正しく信じているか」ではなく、「どれほど具体的に隣人のもとへ出て行っているか」という霊的成熟である。愛の掟は、知ることと行うこと、祈ることと仕えることを分かちがたく結びつけるものである。

沈黙のなかで隣人を見いだす祈り

 今朝、私たちは申命記、コロサイ書、そしてルカ福音書の三つの声に導かれながら、信仰とは何か、隣人とは誰か、そして私たちが何に召されているのかを黙想してきた。

 そして気づくのである。信仰とは、何かを「信じ込むこと」ではなく、心の奥底で「聞きとること」、そしてその声に応えて「歩み出すこと」である、と。神の声は、派手な奇跡のなかにはなく、天高く響く雷鳴のような命令にもない。それは、あなたの口に、あなたの心に、すでにある。

 だからこそ、問われるのは静けさである。道端で倒れた人を見過ごすのは、無関心ゆえだけではない。あまりに騒がしく、心の沈黙を失っているがゆえに、そこに命があると気づけないのだ。祈る者とは、耳を澄ませる者である。沈黙に宿る神の声を聞く者である。

 「行って、あなたも同じようにしなさい」──イエスのこの命令は、あなた自身が愛され、赦され、救われた者として、「誰かにとっての隣人になる」という自由な応答を促している。信仰とは、そのような自由で創造的な応答である。制度によって委託された行為ではなく、霊によって動かされる心の決断である。

 この主日にあって、わたしたちは改めて祈ろう。

 わたしたちの目が開かれ、倒れている人に気づくことができますように。

 わたしたちの心が柔らかくなり、誰かにとっての隣人となる勇気が与えられますように。

 わたしたちの教会が、掟を声高に掲げるだけでなく、愛のかたちで生きる共同体でありますように。

 そのすべての祈りと歩みのうちに、主の霊が臨み、憐れみに満ちたキリストの姿が、私たちのまなざしと手の中に再び顕れますように。

 アーメン。

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