聖霊降臨後第四主日 説教草稿「主の慰めに生きる共同体として」

【教会暦】

聖霊降臨後第四主日 二〇二五年七月六日

【聖書箇所】

旧約日課 :イザヤ書 六六章一〇〜一六節
使徒書  :ガラテヤの信徒への手紙 六章一〜一〇節、一四〜一八節
福音書  :ルカによる福音書 一〇章一〜一二節、一六〜二〇節

【要旨】

 聖霊降臨後第四主日(特定九)の本日、イザヤ書六六章、ガラテヤ書六章、ルカ福音書一〇章が共に指し示すのは、「慰め」の神学的深みである。慰めは単なる感情的癒やしではなく、神の母性的まなざしに抱かれ、共同体の交わりと責任の中に具現される霊的現実である。

 イザヤの幻は、廃墟となったエルサレムを「慰めの都」として再解釈し、母なる神の胸に抱かれる民の姿を描いた。ガラテヤ書では、互いの重荷を担い合い、十字架を誇ることで生まれる共同体の倫理と霊性が語られる。ルカ福音書では、弟子たちの派遣と拒絶を通して、「あなたがたの名が天に記されていることを喜べ」との主の言葉が、霊的アイデンティティの根源を示す。

 慰めは、拒絶を超えて与えられる。平和は、受け入れられなくてもなお贈るべきもの。そして教会は、神の記憶のうちに慰められ、記憶する共同体として、他者の名を憶え、祈り、支える使命を託されている。

 この日課が呼びかけるのは、慰めを消費する信仰ではなく、慰めを携えて生きる召命の共同体である。主の記憶に生きるとは、慰められた者として、慰める者となること。その道を、祈りと平和と赦しとともに、歩み続けていきたい。

【本文】

主の慰めに包まれる礼拝の入り口

 七月に入り、私たちは教会暦において「聖霊降臨後の季節」を歩み続けている。この時期は、緑の祭色に象徴されるように、信仰と共同体の「成長」「成熟」「実り」を目指す歩みである。けれどもその歩みは、ただ直線的な成長を志向するものではない。それはむしろ、試練や疲れ、問いや裂け目をくぐり抜けながら、あらためて「主の慰め」に包まれていく、回復の霊的歩みである。今朝私たちに与えられたイザヤ書六六章、ガラテヤ書六章、ルカ福音書一〇章は、まさにそのような慰めと回復の神学的中心を明らかにしている。

 第一に、イザヤ書の預言者は、「慰めよ、エルサレムを喜べ、そのすべての友よ」と呼びかける。その声は単なる情緒的励ましではない。バビロン捕囚から帰還した民の絶望と再建のはざまにあって、神の母のような慰めを宣言するものである。イスラエルは苦難の歴史のただ中で、主なる神の乳房に抱かれ、ゆりかごのように揺り動かされながら、癒やしと平安に導かれていく。これは、慰めが単なる心の慰め以上のものであり、共同体としての癒し、国家再建への神の臨在であることを告げている。

 第二に、ガラテヤ書の終章でパウロは、「互いの重荷を担い合いなさい」「たゆまず善を行いましょう」と語る。ここには、教会の本質的なかたちが示されている。それは自己主張でも競争でもなく、兄弟姉妹の弱さを支える共同体としての霊的共同責任である。そしてその実践の源泉には、キリストの十字架以外に誇るものはない、という信仰の根幹が置かれている。慰めは、個人的励ましではなく、教会の交わりにおける互恵性のうちに体現される。

 そして福音書において、主イエスは七十二人を派遣するにあたり、「平和を祈れ」と命じる。遣わされた弟子たちは、拒絶にも直面するが、「わたしの名によって悪霊も服従しました」と告白する。しかし主は、そのことよりも「あなたがたの名が天に記されていることを喜べ」と応じる。ここにもまた、慰めの神学がある。私たちの存在の根は、成果や成功の有無にではなく、神の記憶のうちに確かに覚えられていることにある。

 慰め。それは信仰の成長の土壌である。慰め。それは霊の再生の温床である。慰め。それは、行き詰まりの中でもう一度、私たちが神のまなざしのうちに抱かれているという確信を取り戻す力である。

 この礼拝にあって、すべての者が神の慰めに包まれ、共同体として再び遣わされる希望に生きるよう、御言葉の導きに聴き入っていきたい。

慰めと審きの交錯する神の都の幻

 イザヤ書六六章は、いわゆる「第三イザヤ」とされる部分の終結部にあたる。バビロン捕囚から帰還した後のエルサレムを舞台に、預言者は慰めと審き、再建と選別という交錯するメッセージを語る。特に本日の箇所は、神の都エルサレムに対する母性的なイメージ――「乳房」「抱擁」「膝の上」といった表現――を通して、主の慰めの豊かさと、最終的な審きの厳しさとが一つに編み上げられている。

 「エルサレムを喜べ」「彼女の慰めの乳房から乳を吸い、満足せよ」という言葉は、当時の民にとって衝撃的な福音であった。というのも、この語りは、破壊され廃墟と化した神殿都市に対して、「母なる神の身体としての都」という新たな霊的再解釈を施すものであったからだ。もはやエルサレムは、王政の権威でも、祭儀の制度でもない。その慰めの力は、神の母性的な養育と包容によって新たに与えられるものである。

 しかし同時に、この慰めのビジョンは無差別ではない。主の審きは燃える怒りとして現れ、「主は火をもって、剣をもって、すべての肉なる者を裁かれる」と告げる。この部分は、一見すると母なる慰めのイメージと相容れないように思える。しかし聖書の預言文学は、慰めと審きを断絶的にではなく、むしろ連続的に描く。すなわち、慰めは安逸や妥協によってではなく、正義と聖なる審きの只中から現れるものである。

 ここで注目すべきは、神の「怒り」が人間的な報復や敵意とは全く異なる次元にあるということだ。それは神の愛のもう一つの現れであり、不正義や偶像崇拝に対する揺るぎない拒否の表明である。主の剣とは、命を断つためのものではなく、命の真実を切り分けるための神的道具なのである。

 アングリカンの伝統において、こうした預言の読みは単なる過去の民族的経験としてではなく、教会の現在にも響くものとして受け取られる。イザヤの幻が描く「慰めの都」は、まさに教会共同体の原型である。母なる教会――Mater Ecclesia――は、傷ついた者に癒しを与え、彷徨う者を抱擁し、しかし妥協なく真理を語る預言的存在でもある。

 現代における「慰めの教会」は、しばしば感情的共感や表面的な優しさに傾斜しがちである。しかし聖書は、慰めを「正義と真理を貫いた末に与えられる神の恵み」として描く。イザヤの幻は、主の都が単なる癒しの空間ではなく、神の臨在が燃えるように輝き、裁きと慈しみが一体となって満ちている場所であることを教えている。

 その意味で、慰めは「逃避」ではなく「帰還」である。慰めは「忘却」ではなく「記憶の中での赦し」である。慰めは、「神の怒りの剣」を経由してこそ、真に癒しとなるのである。

 このイザヤの幻を、私たちは単なる古代の預言とせず、教会という主の民に託された現在の召命として受け取りたい。慰めと審き、抱擁と火、それらが交錯する場所にこそ、神の国は現れる。

霊の共同体としての教会と、その相互責任の倫理

 パウロのガラテヤ書は、信仰義認の根本原理を軸としながらも、律法と霊、自由と愛、個と共同体という緊張関係を深く問い直す書簡である。その終章である六章は、まさに「信仰によって義とされる者たちが、いかに生きるべきか」という問いに、倫理的かつ共同体的な応答を与えている。

 「兄弟たち、もし誰かが何かの過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい」とパウロは語りかける。ここでの「霊の人」(πνευματικοί)は、単なる霊的能力のある者ではなく、聖霊に導かれ、キリストに倣う謙遜と寛容のうちに歩む者を意味する。パウロは、「正す」という行為すら、優越や裁断の表現ではなく、自己吟味と謙遜のうちになされるべきだと告げている。

 続く「互いの重荷を担い合いなさい」という勧めは、教会が倫理的個人の集まりではなく、キリストの身体としての有機的共同体であるという霊的真理を体現している。ここでの「重荷」(βάρη)は、罪の誘惑のみならず、人生における苦難や弱さ、社会的不正義の圧力までも含む広範な意味を持つ。つまり、教会における「互いの重荷の担い合い」とは、相互監視でも相互依存でもなく、「相互代理性」(mutual representation)に根ざす霊的実践なのである。

 ところが、現代の多くの教会が陥りがちな傾向は、個人主義的な信仰の強調である。「あなたの信仰」「あなたの救い」「あなたの献身」――すべてが単数形の物語として語られるとき、教会は見えない連帯を失い、慰めの力を減じてしまう。対して、パウロはあくまで複数形で呼びかけ、信仰が交わりの中でのみ現実化することを強調する。

 さらに注目すべきは、六章七節以降の言葉である。「人は、自分のまいたものを、自分で刈り取ることになる」。ここには行為と結果の因果律を超えた、「霊にまく者」「肉にまく者」という存在の全体性が問題とされている。これはいわば、倫理の根源的な選択として、どこに自分を投資し、どこに希望を託すか、という問いにほかならない。

 そして終盤、一四節に至って、パウロはその倫理と霊性の根源をこう宣言する――「このわたしには、主イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはなりません」。すなわち、慰めと互助と善行のすべては、「十字架を誇る」という逆説の中から湧き出る。十字架は、力を誇らず、知恵に頼らず、神の自己否定的愛の啓示を通じてのみ、私たちの生を根底から再構築する。

 アングリカンの伝統が「共に祈る民」としての教会を重んじるのは、この十字架の霊性に根ざしている。Book of Common Prayer が繰り返し用いる「謙遜」「赦し」「連帯」の語彙は、ガラテヤ六章に響き合う霊的言語である。祈祷書の交読文において「われら互いに罪を犯し合いし者なり」と唱えるとき、私たちは、ガラテヤ書の倫理的地平に立たされているのだ。

 慰めは、結果として与えられるのではない。それは、霊によって生かされ、キリストの十字架によって再構成された共同体のなかに、恵みとして「降ってくる」。慰めはつくり出すものではない。霊にまき、十字架を誇る者のあいだに、神の側から注がれる。

 この信仰の論理に立ち返るとき、私たちの教会は、互いの重荷を担う者として、慰めの民となりうる。そしてそこにこそ、ガラテヤの言う「新しい創造」(καινὴ κτίσις)の予兆が、静かに芽吹いていく。

拒絶される福音と霊的アイデンティティの回復

 ルカ福音書一〇章の派遣物語は、しばしば「宣教の命令」として読まれるが、それは同時に、信仰共同体の霊的アイデンティティを根底から問う預言的テキストでもある。七十二人の弟子たちが遣わされるのは、すでに整えられた場所ではなく、「収穫は多いが、働き手が少ない」場、すなわち荒れた畑である。しかも彼らは「財布も袋も履物も持たずに行け」と命じられる。主の派遣とは、保証や安全のうちに送られるものではなく、むしろ依存と無防備のうちに生きる信頼の実践なのである。

 「最初に『この家に平和があるように』と言いなさい」との命令は、主の弟子たちがまず「平和を携える者」として立つことを意味する。しかしその平和は、常に受け入れられるわけではない。実際、弟子たちはしばしば「平和を拒まれる」経験をすることになる。それでも主は言う――「その平和はあなたがたに返ってくる」。

 これは実に深い霊的原理を示している。平和は結果ではない。平和は贈与であり、その真理は受容の有無に左右されない。神から来るシャローム(שָׁלוֹם)は、拒絶されても霊的空白とならず、贈った者に戻り、彼らをますます強める。これはまた、慰めと同型の構造でもある。慰めは与えられるものであり、拒まれたときにさえ、その帰還によって贈与者を満たす。

 ところが、現代の信仰生活は、しばしば「受容されること」への欲望に支配されている。宣教や証しは、反応や成果に依存し、結果の乏しさがしばしば無力感や失望を生む。しかし主は、「悪霊が服従することを喜ぶな」と戒め、「あなたがたの名が天に記されていることを喜べ」と語る。これは霊的アイデンティティの根源を、「働きの結果」ではなく、「神の記憶」に置く逆説的命令である。

 教会がしばしば社会的影響力や公共性の回復に奔走するのは、それ自体として正当な関心である。しかしそれが、「私たちの名が天に記されている」という確信を犠牲にするとき、教会は自らのアイデンティティを失う。霊的権威は、数や規模や評判ではなく、神の記憶に根ざす。「天に記されている」という表現は、旧約の命の書(ספר החיים)に通じるものであり、神との契約的関係の証である。拒絶に直面する福音の民は、この霊的記憶に立ち返ることによってのみ、自らの存在の安定を取り戻すことができる。

 アングリカンの宣教理解は、この点において非常に深い霊性を湛えている。福音宣教とは、押しつけでも自己主張でもなく、「神の備えに応答する参与」である。Book of Common Prayerの宣教祈願において、「その御名において福音があまねく宣べ伝えられんことを」と祈るとき、それは「結果」を祈るのではなく、「主の記憶と呼びかけに生きる者たちの誠実」を祈っているのだ。

 弟子たちが「悪霊も私たちに服従しました」と興奮する場面は、ある種の霊的トライアンファリズム(勝利主義)の誘惑を象徴する。しかし主はそれを受け流し、「わたしはサタンが天から稲妻のように落ちるのを見た」と応じる。この言葉は、悪の権勢に対する勝利を告げると同時に、「あなたがたの働きによるものではない」という厳粛な戒めでもある。勝利は与えられるのであって、勝ち取るものではない。

 だからこそ、慰めは拒絶のただ中からも訪れる。失敗や受容されない現実の中で、なお平和を祈り、慰めを与えるとき、その霊的帰還のゆえに、私したちは強くされる。福音の拒絶は、教会の終わりではない。それは、神の記憶にのみ立つ教会の「新しい始まり」なのである。

慰めに生きる教会の召命と共同責任

 イザヤ書、ガラテヤ書、ルカ福音書が共通して指し示しているのは、信仰が個人の慰めにとどまらず、「慰めを担う共同体」すなわち教会のかたちへと呼び出されているという神の召命である。この召命は、教会が慰めを「消費する場」ではなく、「慰めを媒介する民」となることを要請する。慰めとは、主から与えられる恵みであると同時に、隣人の重荷を担う責任において実体化される霊的事実なのである。

 ガラテヤ書においてパウロは、「たゆまず善を行いましょう」と勧めるが、この「善」(καλόν)は単なる道徳行為ではない。それは、「霊によって蒔かれるもの」、すなわち共同体の中で分かち合われ、増幅される霊的実践である。慰めは贈与され、共有され、さらにそれによって慰められた者が他者を慰めるという連鎖によって、教会の中で霊的循環を形成する。

 またルカ福音書において、弟子たちはそれぞれ「二人ずつ」遣わされた。この構造は、教会的召命の原型を示している。すなわち、証しと奉仕は決して単独ではなく、交わりと協働のうちに行われるものであるという真理である。教会における奉仕とは、「わたしが」「あなたが」ではなく、「私たちが」担う責任なのである。慰めは分かち合われてはじめて完成する贈り物であり、交わりの中でしかその真価を発揮しない。

 このような召命に生きるためには、慰めを「受け取る」ことそのものが、教会の第一の責任となる。なぜなら、慰めを受けることは、神の愛を信頼する行為であり、自らの弱さと貧しさを認める謙遜のしるしでもあるからだ。慰めを受け取ることができない共同体は、やがて他者にも慰めを与えることができなくなる。それゆえ教会はまず、自らのうちに「傷ついた者としての自覚」を保持しなければならない。

 アングリカンの教会論においては、「Wounded Healer(傷ついた癒し手)」という霊的概念が、祈りと奉仕の両面において極めて重要である。私たちは、完全であるがゆえに慰めを与えるのではなく、不完全でありながら神の慰めに包まれているがゆえに、それを差し出す者となるのである。ニーヴン・ヴァン・ベルグやヘンリ・ナウエンが繰り返し説いたこの霊性は、共同体の形成においてきわめて現実的かつ神学的な支柱となる。

 こうして、慰めに生きる教会は、単に礼拝の場に集う人々の集団ではない。それは、現代社会の裂け目、貧困、孤独、差別、暴力、拒絶、沈黙のただ中に、神の慰めを媒介する「預言的共同体」となることを要請されている。福音が拒絶され、教会が疎外される時代だからこそ、慰めに生きることは、無力な黙認ではなく、主の霊に導かれた応答的行為であり、キリストのからだの現れである。

 そしてその召命を担うには、教会内部における相互の赦しと祈り、弱さの共有と善行の分かち合いが必要不可欠である。私たちは、「主の慰めを携えて出ていく」民であると同時に、「慰めに帰り着く場」を担う民でもある。この循環の中に、霊の働きが息づく。

 慰めは、教会の中にとどまるものではない。それは、世界の苦しみに触れたとき、はじめて真に燃え立つ。「互いの重荷を担い合うこと」「平和を祈ること」「記憶に立ち返ること」――これらすべての行為が、神の慰めをこの世にあらわす召命である。

慰めの神学的統合と典礼的応答への招き

 ここまで見てきた三つの聖書箇所――イザヤ、ガラテヤ、ルカ――は、異なる文脈と表現を通して、一つの神学的中心を照らし出している。それは、「慰めは、霊において与えられ、共同体において共有され、主の記憶のうちに保証される」という三位一体的構造を有する神学的現実である。この構造を私たちの信仰生活に統合することが、教会の本来的な使命である。

 イザヤ書が描いた母なるエルサレムの姿――神の胸に抱かれ、乳房から養われる民の幻――は、典礼の中で最も深く響くイメージでもある。私たちは主日の聖餐において、御言葉を味わい、キリストの体に与ることによって、霊的に養われ、慰められる。この養いと慰めは、個人的体験にとどまらず、教会という神の都に生きるすべての者がともに受ける恵みである。

 またガラテヤ書が示した「霊にまく者となれ」「互いの重荷を担いなさい」「十字架を誇れ」との勧めは、典礼生活の倫理的裏付けとなる。聖餐に招かれるとは、単に恵みを受けることではない。それは、「恵みを他者と分かち合う者として生きよ」との神の呼びかけに応答することである。典礼は、霊的安堵ではなく、霊的召命への再出発点である。Book of Common Prayerの祝祷が「Go in peace to love and serve the Lord(平和のうちに行き、主を愛し主に仕えよ)」と閉じられるのは、この霊的統合を象徴する瞬間である。

 そしてルカ福音書の弟子派遣は、典礼と証しの間に横たわる「生活としての信仰」の本質を示している。私たちは、礼拝の中で受けた慰めと平和を、日々の歩みの中であかしするよう召されている。拒絶されても、迎え入れられなくても、なお平和を祈る。慰めが拒まれても、神の記憶に立つ。典礼に生きるとは、感情の高揚ではなく、霊的アイデンティティの確かさに立ち戻る行為なのである。

 アングリカンの典礼神学は、この慰めの霊性を洗練された構造のうちに包含している。集会冒頭の悔い改め、赦しの宣言、聖書朗読と説教、信仰告白、平和の挨拶、聖餐、祝祷――この流れ全体が「慰めの神学」に他ならない。それは、悔い改めの涙から始まり、赦しの確信を通って、互いに平和を宣べ合い、主の体に与って遣わされるという、慰めの礼典である。

 ここで「慰めを受けた者として生きる」という信仰の姿勢が、信仰生活全体を形づくる鍵となる。慰めは過去の傷をなかったことにするのではない。それは、傷の記憶のうちに新たな意味と力をもって働き、共同体全体を包む霊的雰囲気として流れ続ける。聖霊は、そのような慰めの源泉であり、教会のただ中に絶えず注がれている神の力である。

 典礼における沈黙、赦しの言葉、聖餐の祈り、そして最後の祝祷――これらすべては、慰めの神学の断片であり、統合された霊的ドラマである。私たちは、その物語の登場人物であると同時に、証人でもある。典礼に生きるとは、慰められた者として出て行き、慰める者となる旅に再び踏み出すことである。

 このようにして、慰めの神学は、日課の朗読を超えて、私たちの礼拝と祈り、証しと共同体の実践すべてを内側から形づくっていく。それは、教会が教会であるための、根源的な霊的骨格である。

天に記された名の記憶に生きる

 主は言われた――「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」。この一言に、今朝与えられた聖書全体の響きが凝縮されている。慰めは、神のまなざしにおいて、私たちの名が呼ばれているという記憶のうちに宿る。人間に拒まれても、世界に疎外されても、神の記憶から私たちの名は消えない。この確かさにこそ、慰めの根源がある。

 イザヤの幻において、主は民を母のように抱き、都を慰めの泉として示された。それは神が「忘れない」という慰めの力であった。ガラテヤ書のパウロは、キリストの十字架のもとに新しい創造があることを語った。十字架は、苦しみと傷を通して記憶される神の愛の証である。そしてルカ福音書の主イエスは、「天に記された名」という象徴を用い、私たちの霊的アイデンティティの永遠性を告げた。

 記憶。それは単なる思い出ではなく、霊の世界における存在の確かさである。典礼において私たちは、「このパンをわたしの記念として行え」との主の言葉に従い、記憶の中で主と出会い、互いを憶え合う。この記憶が、教会の祈りを支え、共同体をつなぎ、赦しを成り立たせる。神に記憶されるとは、神の心の中に生きるということであり、それが慰めの最大の源である。

 現代の社会において、忘却は日常の現実である。名前が消され、声がかき消され、傷が無視される中で、多くの者が「慰めの場所」を持たずに生きている。教会は、そうした人々のために、「神の記憶に包まれた共同体」として存在しなければならない。それは慰めを語ること以上に、慰めをかたちづくる霊的責任である。

 慰めは、優しさではない。それは力であり、義であり、記憶のうちに生きる霊の現れである。私たちは今日、主の言葉に聴いた。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」。そしてまた、主が共におられると知る。「わたしは見た。わたしは憶えている。あなたの名は天にある」と。

 この確信を胸に、私たちは再びこの世界に遣わされてゆく。荒れた道を歩みながらも、平和を祈り、慰めを携え、十字架を誇りとする者として。

 慰められた者は、慰める者となる。主に記憶される者は、他者の名を憶える者となる。天に記された名を胸に、私たちは今日も、霊と真理のうちに歩んでゆこう。

 主の記憶に生きる、慰めの民として。

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