
私たちが信じ、共に生きるもの
カトリックにしてアングリカン
— 私たちの立ち位置
自由と友愛の独立アングリカン教会は、その名にこめられたとおり、神の遍(あまね)き愛と、キリストにおける自由なる良心に根ざした信仰の旅路を、教会の根幹としています。私たちは、「カトリック(公同)」にして「アングリカン(聖公会)」という二つの霊的伝統に立脚しつつ、制度の枠を超えて、霊的自治と開かれた交わりを生きる教会として召されています。
ここで言う「カトリック」とは、ある特定の制度的共同体を指すものではなく、使徒時代より受け継がれてきた、普遍にして正統なる信仰と礼拝の伝統にあずかることを意味します。「聖公会」とは、16世紀イングランドにおける宗教改革の中で育まれ、聖書に基づく信仰、『公祈祷書(The Book of Common Prayer)』による礼拝、そして「中庸の道(via media)」という霊性を柱とする、聖公会の豊かな信仰遺産を受け継ぐ姿勢を指します。
「独立(Independent)」という語は、分離や対立の志向ではなく、むしろキリストにおいて自由とされた良心の責任を自覚し、祈りと共同の識別に根ざす自治的な共同体を目指すことを意味します。それは、制度に仕えるがゆえに霊的いのちを失うことなく、主イエス・キリストへの誠実な従順と信頼に基づく、自由なるキリスト者の交わり(コイノニア)を象徴しています。
私たちは、教会の本質を制度の形式や歴史的継承のみで定義することを避け、むしろその霊的召命—すなわち、福音の宣教、聖奠の執行、共同体の形成、そして被造物への奉仕—への応答にこそ、教会のいのちがあると信じます。
この信仰の道は、過去の制度的形骸をなぞるのではなく、聖公会の霊的遺産に深く根を下ろしつつ、時代の課題に応答する自由と責任の道であり、歴史のただ中にあって神の呼びかけに耳を澄ませる、祈りの応答の道でもあります。私たちは、聖霊の導きに信頼し、謙遜をもって、されど確信と希望をもって、この信仰の旅路を歩み続けてまいります。
このような教会理解と信仰の道行きは、まさにリベラル・アングリカニズム(Liberal Anglicanism)の霊的系譜における現代的な応答でもあります。そこでは、伝統と改革、個人の良心と共同体の識別、聖なるものと公共的責任とが、絶えざる祈りと対話の中で織り成されています。自由と友愛の独立アングリカン教会は、この霊性の流れに深く根ざし、いのちある信仰の共同体を形成しています。
聖書に立つ信仰
私たちは、旧約聖書と新約聖書とを、神の霊感によって記された救いの歴史と啓示の証しとして、信仰をもって受けとめます。聖書は、もはや過去の遺物ではなく、今も生きて語りかける神の言葉(Verbum Dei vivum)であり、あらゆる時代の神の民にとって、信仰と生活の礎です。
聖書に向き合う私たちの姿勢は、祈りに根ざした霊的なまなざしと、神学的・歴史的探究心とを併せ持つものです。すなわち、聖霊の導きに耳を澄ませる信仰の態度と、文脈・言語・歴史に対する学びと識別の営みとが、たがいに響き合い、御言葉に新たないのちを吹き込みます。
このようにしてなされる聖書の黙想と解釈は、信仰者一人ひとりの慰めにとどまらず、現代社会の課題に対する教会の応答を形づくる神学的基盤でもあります。たとえば、創世記に示される「神のかたち」によって造られた人間の尊厳と、被造物との責任ある関係、預言者たちの言葉に響く義と平和への叫び、福音書における主イエス・キリストの赦しと共なる歩みへの招き、そして使徒書簡に記された共同体の倫理と交わり—これらすべてが、私たちの生活と祈り、そして福音に仕える実践に方向を与えるのです。
さらに聖書は、教会的な交わり—すなわち聖なるコイノニア(koinōnia)—の中心に据えられています。ともに聖書を開き、聴き、分かち合うとき、聖霊の導きのもとで、信仰の共同体は深められ、教会(ekklēsia)は「共なる識別(communal discernment)」へと招かれてゆきます。そこに、神の民としての歩みの方向と力とが、新たにされていくのです。
三信条と公同の信仰
私たちは、使徒たちから受け継がれ、主にある公同の教会によって代々守り伝えられてきた以下の三つの信仰告白を、信仰の基盤として受け入れます。これらの信条は、私たちの教えと礼拝生活の根幹を成すものとして、大切に掲げられています。
▪︎ 使徒信条(The Apostles’ Creed)
▪︎ ニケア・コンスタンティノープル信条(The Niceno-Constantinopolitan Creed)
▪︎ アタナシウス信条(The Athanasian Creed)
これらの信条は、聖なる三位一体(The Holy Trinity)—すなわち、父と子と聖霊なる唯一の神—への礼拝を中心とし、御子の受肉、十字架の死と復活、再臨の希望、また聖霊の働きと教会の一致についての信仰を、公同教会の普遍的な証しとして明確に表現するものです。
信仰とは、個人的な感情や私的解釈にのみ依拠するものではなく、使徒的伝承と教会の共同識別に基づいて受け継がれてきた、歴史に根ざす真理の上に立つ霊的営みです。私たちはこの確信に立ち、時代の風潮や一時的な思想に流されることなく、変わることなき神の真理と、祈りと実践によって形づくられてきた教会の記憶に根ざして歩みます。
三信条が証しする信仰の普遍性は、教派や文化を超え、主イエス・キリストにある一致を希求する全教会の交わり(コイノニア)の礎です。信条を共に告白することは、単なる形式ではなく、キリストのからだなる教会の一致にあずかるしるしであり、私たちはこの一致の証し人として召されています。
聖奠の恵み
— 神のいのちにあずかる信仰の歩み
主イエス・キリストは、その地上におけるご生涯と教えのうちに、私たちの救いのために二つの主要な聖奠—すなわち、洗礼(Baptism)と聖餐(Holy Eucharist)—を制定されました。これらは、教会の礼拝生活と信仰の中心に据えられ、神の恵みにあずかる確かな道として、すべての信徒に与えられた神の賜物です。
さらに、堅信(Confirmation)、悔悛(Reconciliation)、婚姻(Marriage)、叙任(Ordination)、病者の塗油(Anointing of the Sick)の五つの聖奠的儀式も、信仰者の召命と霊的成熟を支える恵みのしるしとして、教会において尊ばれています。
聖奠とは、目に見えるしるし(signum visibile)を通して、目に見えない神の恵み(gratia invisibilis)が実際に注がれる、神ご自身の救いの業(Opus Dei)です。それは単なる象徴的な儀礼ではなく、聖霊の働きによって、信徒を神のいのちと交わりに結び合わせる、実際的かつ霊的な出来事です。
洗礼において、私たちはキリストの死と復活にあずかり、罪の赦しと新生の恵みを受けて、神の民としての歩みを始めます。聖餐においては、主の御体と御血にあずかり、赦しと癒し、信徒相互の交わりに生かされつつ、教会の一致と終末の希望にあずかります。
悔悛は、罪を悔い改め、神の憐れみに立ち返ることによって、霊的刷新と和解に生きる道です。婚姻は、神の祝福のもとに結ばれる夫婦の契約であり、愛と忠実に生きる中で神の召命を果たす生活のかたちです。叙任は、主の民に仕えるために召された者が、按手と祈りによって聖別され、奉仕の職に任じられる神聖な務めです。病者の塗油は、病いや苦しみのただ中にある者に対して、癒しと慰め、そして主にある平安を告げる、希望の聖奠です。
これらの聖奠と儀式は、信徒の生涯を霊的にかたちづくり、教会共同体の成熟と一致を育む恵みの器です。人生の節目ごとに、それぞれの聖奠が神の臨在を告げ知らせ、私たちの信仰の旅路を照らし出します。
聖奠の執行は、主教の牧会的監督のもとで、公祈祷書に定められた典礼に従い、祈りに満ちた共同体の中で、秩序と美とをもって行われます。それは、単に正統を保つためではなく、神の臨在を豊かに体現する礼拝のかたちとして、信仰者の心を神のいのちへと開かせるものです。
聖公会の典礼と祈りの霊性
自由と友愛の独立アングリカン教会は、その信仰の歩みの中心に、聖公会の典礼的伝統を据えています。私たちは、1662年版『公祈祷書』の霊的遺産を継承しつつ、その正統な発展形とみなされる現代的典礼書にも連なりながら、地域の文化的文脈と共同体の問いに応答する礼拝を築いています。
共に祈る礼拝(Common Worship)と、信徒一人ひとりによる静かな祈りの生活とは、たがいに響き合いながら、信仰の根を深く養う霊的な土壌となっています。聖公会の典礼は、整えられた言葉の美しさ、沈黙と音楽の交差、日常と神秘との交わりを通して、魂に深く働きかける霊性の源泉です。
この典礼は、ただ伝統的形式の保存にとどまらず、そこに集うすべての者が、神の臨在に触れ、赦しと変容へと招かれる霊的空間を開くものです。祈りの場において、私たちは神の御前に心を注ぎ出し、和解と共なる歩みへと招かれるのです。
典礼はまた、時を聖別する奉仕でもあります。教会暦に即した季節ごとの礼拝、日々の聖務日課(Daily Office)、主の祭りや聖人の記念を通じて、私たちは日常のただ中に神の恵みのリズム(Rhythm of Grace)を取り戻していきます。それは、感謝と希望をもって生きる道へと、静かに促していく信仰の歩みです。
このような典礼の営みは、信徒の霊的形成の場であり、また、キリストにおいて結ばれた交わりを深める空間でもあります。祈りによって養われた信仰共同体は、聖霊の導きのもとに神の御心を識別し、世界に対する証しと奉仕へと押し出されてゆきます。
礼拝と祈りの生活のなかに、私たちはキリストのからだとしての教会の真実を見出します。それは、現代の混迷のただ中にあっても、希望を語り、愛に生きる民として、神の国のしるし(Signum Regni)となることを目指す道なのです。
この典礼の実践と祈りの霊性は、まさにリベラル・アングリカニズムが大切にしてきた「神秘と理性」「自由と伝統」「共同体の祈りと個人の内的誠実さ」が結ばれる交差点に立っています。自由と友愛の独立アングリカン教会は、この霊性を地域の文脈と信徒の声に応じて展開する「いのちある礼拝」の共同体として、歩みを続けています。
聖職制度と使徒継承の意義
私たちの教会は、聖公会の歴史的伝統に立ちつつ、主教(Bishop)・司祭(Priest)・助祭(Deacon)1からなる三品の聖職制度(Threefold Order of Ministry)を継承しています。これらの聖職は、単なる制度的役割を超えて、主イエス・キリストに仕える奉仕の召命(vocation)として位置づけられ、礼拝と聖奠、宣教と牧会、交わりの形成という教会のいのちの働きに仕えるものです。
この三品の秩序は、使徒的継承(Apostolic Succession)のうちに保たれています。すなわち、初代の使徒たちに始まり、祈りと按手を通じて連綿と受け継がれてきた聖職の連続性は、教会の交わりと奉仕の正統性を根づかせる霊的信託(spiritual trust)にほかなりません。
私たちは、この継承を過去の権威に安住するためではなく、むしろコイノニアのうちに互いに仕え合う奉仕の秩序として受けとめます。それは、聖霊の導きのもとに教会を建て上げるための、謙遜と責任をともなう共同の召命なのです。
主教は、教区において信仰と礼拝、そして神の民の一致を牧する者として召され、聖奠の正統性と交わりの整合を保つ務めを担います。司祭は、主教のもとで、聖奠の執行、御言葉の宣教と教え、また牧会的配慮をもって地域教会に仕える奉仕職です。助祭は、奉仕(diakonia)に召された者として、困窮する人びとや病める者、孤立する者の傍らに立ち、キリストの愛をもって仕える者です。
三品の聖職は、階層的支配の構造ではなく、互いに仕え合う奉仕の交わりとして整えられています。それぞれの職は、固有の賜物と召命に生かされつつ、教会の公的礼拝と共同体形成のために機能する有機的秩序です。
このような聖職制度は、福音の自由と真実に生きる教会にふさわしい構造であり、聖霊によって与えられた霊的な備えです。私たちは、制度のための制度に陥ることなく、むしろ主イエス・キリストに従う群れとして、仕える信仰の共同体としての教会を、祈りと奉仕によって築き上げていきます。
裂かれた時代に立つ三つの柱
— ディアスポラ教区・十字架と復活の教区・福音的自律聖職運動
現代という時代は、国境を超える移動と孤立の拡大、信仰共同体の解体と霊的空洞化という、二重のディアスポラを生み出しています。
この歴史的断絶と霊的飢渇に応答するために、自由と友愛の独立アングリカン教会は、三つの霊的柱—すなわち、ディアスポラ教区、十字架と復活の教区、福音的自律聖職運動を、互いに補完し合う霊的・制度的基盤として打ち立てました。
これらは、それぞれ異なる課題に応じながら、共通して「制度の空洞化と霊性の喪失」に対する教会的応答として存在しており、いずれも神の呼びかけに対する祈りのかたちとして創出されたものです。以下、その連関を明示しつつ、全体の神学的布置を明らかにします。
離散のただ中に立つ教会
— ディアスポラ教区、交わりを紡ぐ陪餐共同体
ディアスポラ教区(The Diocese of the Diaspora)は、地理的・文化的・制度的な「中心」に集まることのできない人々—離島や山間地、海外居住者、制度から遠ざかった信徒、社会的に孤立した者たち—に向けて、聖餐と祈りを中心に築かれる交わりの場、コイノニアとして立ち上がりました。
それは、単なる「代替教区」ではなく、あらゆる場所において裂かれたキリストのからだを囲みつつ共に祈る者たちが形づくる、非集中型の祭壇共同体です。そこにおいて主教は、地理ではなく聖奠(sacrament)と祈りによる使徒的監督を果たし、断絶された共同体の再結びを担います。
ディアスポラ教区は、教会の中心が「建物」ではなく「陪餐」にあるという福音的真理を、制度として証しする場に他なりません。
傷と和解のただ中に立つ教会
— 十字架と復活の教区:裂かれた歴史への霊的応答
そして、三つ目の柱である「十字架と復活の教区(The Diocese of the Crucified and Risen)」は、社会的・歴史的な裂け目—戦争、分断、貧困、抑圧、喪失—のただ中において、教会が主の傷を負いながら共に祈る場であることを証しする霊的構造体です。
この教区は、制度による支配ではなく、裂かれることを引き受ける祈りの共同体として、自らを差し出す者たちによって立ち上がります。そこにおいて主教は、制度的監督者ではなく、十字架を共に担う同伴者としての奉仕者であり、傷ついた者の傍らに座す者としての証人です。
ここに、教会が「傷を覆う制度」ではなく、「傷とともに生きる共同体」へと変容する道が開かれます。
奉仕としての聖職、清貧としての自由
— 福音的自律聖職運動、祈りと労働による霊的自立
このような霊的共同体を支えるもう一つの柱が、福音的自律聖職運動(The Evangelical Autonomous Ministry Movement)です。
この運動は、聖職者が教会制度に財政的に依存せず、自らの手による労働をもって生活を支えつつ、奉仕・祈り・福音のあかしに献身するという召命に生きる実践です。
それは、使徒パウロがテント作りをしながら福音を宣べ伝えたように、労働と聖奠が分断されない「日常に根ざした聖性」を体現する在り方です。
この運動の核心には、聖職を特権でも職能でもなく、「仕えること」そのものとして再定義する意志があります。清貧を恐れず、報酬を求めず、教会に依存せず、ただキリストの召命に応える道—その姿こそが、現代の聖職の本質的刷新なのです。
三つの柱の交差が示す未来
この三つの霊的柱—ディアスポラ教区、十字架と復活の教区、福音的自律聖職運動は、それぞれが独立した構造ではなく、互いに深く結びつき、教会の本質を多面的に証しする一つの福音的生態系(ecosystem)を形づくります。
▪︎ ディアスポラ教区が、祈りと陪餐による空間の交わりを創り
▪︎ 福音的自律聖職運動が、労働と奉仕による聖職の刷新を担い
▪︎ 十字架と復活の教区が、歴史の傷を担う和解の霊的臨在となる
この交差点において、制度と霊性、祈りと労働、傷と希望、自由と共同性といった、現代教会の諸課題が霊的に結び直され、「再び福音に仕える教会」の未来像が垣間見えるのです。
裂かれた世界のただ中に、なお祈りをもって
私たちはいま、断絶と沈黙が満ちる世界のなかで、あえて教会という祈りの共同体を問い直しています。
それは、制度や歴史の過去形ではなく、いまこの瞬間、裂かれた世界において祈りをあきらめない者たちのために、教会が再び呼吸することを願う試みです。
この三つの柱は、どれも壮麗な建物を持ちません。
けれども、その根には、十字架を仰ぎ、復活を信じ、聖霊に導かれて歩む者たちの沈黙の祈りが息づいています。
そこに、私たちは未来の教会のかたちを見るのです。
包摂と対話の神学
自由と友愛の独立アングリカン教会は、すべての人が神のかたち(imago Dei)に創られ、かけがえのない尊厳を与えられているという信仰に立脚しています。この根本的な確信に導かれて、私たちは包摂と対話を中心に据える神学的姿勢を公に告白します。
この姿勢は、性的指向や性自認、民族的・文化的背景、宗教的アイデンティティ、また制度的教会によって傷ついた経験をもつ方々など、すべての人に向けられています。私たちは、教会が「神の家」として、すべての人を迎え入れる憩いと癒しの場であるよう、祈りをもって努め続けます。
「誰ひとりとして排除されない教会」というヴィジョンは、倫理的理念にとどまらず、主イエス・キリストの福音そのものに根ざした信仰的確信です。主は、徴税人、サマリア人、女性、病める者、異邦人といった、当時の社会的周縁にあった人々を、神の国の食卓に招かれました。私たちもまた、この主の招きに応える教会として、より広く、より深い交わりを築く責務を担っています。
真の包摂とは、ただ受け入れることではなく、共に語り、聴き、問い、変えられていく霊的な関係性の営みです。そこには、しばしば緊張や摩擦が伴います。しかし、まさにその困難の中にこそ、聖霊が働き、真正な交わりが鍛えられていくのです。それは、神の憐れみに満ちた旅路であり、信仰共同体の成熟のしるしでもあります。
この神学的姿勢は、礼拝における祈りと朗読、説教における真理のあかし、また日々の生活における傾聴と仕えの実践を通じて、現実に結実していきます。私たちの教会は、福音のしるしとして、また社会的正義と和解を担う場として、時代の痛みと対話しつつ歩むキリストのからだでありたいと願っています。
このような姿勢こそ、リベラル・アングリカニズムの神学的中心をなす霊的直観であり、「福音に根ざす開かれた対話」「愛によって形づくられる交わり」「弱さに寄り添う神学」を具体化する営みです。自由と友愛の独立アングリカン教会は、対話に開かれた教会として、共に祈り、共に変わる希望の旅路を担ってゆきます。
私たちが大切にする信仰の姿勢
ここに掲げる信仰の諸姿勢は、自由と友愛の独立アングリカン教会が祈りと交わりのうちに育んできた霊的ヴィジョンの核心をなすものです。それらは、信徒一人ひとりの信仰の歩みに霊的な指針を与えるとともに、キリストのからだなる教会共同体の成熟を導く羅針盤です。
▪︎ 聖書の霊的・歴史的真理への謙虚な応答
私たちは、聖書を神の啓示の言葉として畏れ敬い、聖霊の導きのうちに日ごとに耳を傾けます。御言葉は今も生きて語りかけ、私たちの歩みを照らす光と命の糧です。
▪︎ 三信条に表された公同の信仰の継承とあかし
ニケア信条、使徒信条、アタナシウス信条において言い表された正統の信仰を基盤とし、歴代の教会の群れと共に、主イエス・キリストの福音を確かに受け継ぎ、時代にあって忠実にあかしします。
▪︎ 礼拝と聖奠に根ざす日々の聖なる営み
公祈祷と聖奠—とりわけ聖餐の恵みにあずかる礼拝生活を中心に据え、主にある交わりと霊的豊かさのうちに生かされながら、日々を祈りと感謝に満ちた歩みとして捧げます。
▪︎ 使徒継承に立つ聖職と、仕える牧会的奉仕
使徒的継承に立てられた聖職者は、キリストに倣い、謙遜と愛をもって神の民に仕えます。私たちは、権威に拠ることなく、仕える者として牧会と宣教に携わり、神の家族を支える奉仕の霊性を大切にします。
▪︎ 多様性を抱擁する交わりの共同体の形成
人種、文化、性、年齢、社会的背景を超えて、すべての人が神の子として受け入れられる包摂的な共同体を形づくり、互いのかけがえのない尊厳を祈りと実践をもって支え合います。
▪︎ 現代社会に仕える、開かれた教会としての召命
正義と平和、対話と和解、愛と奉仕に根ざす福音的使命を担い、私たちはこの時代のただ中にあって、開かれた教会として神の国のしるしを生きることを召命として受けとめます。
▪︎ 伝統と自由、理性と神秘との霊的な調和
聖公会の霊性と神学的伝統に根ざしつつ、理性と対話を尊び、祈りと識別によって応答する自由な信仰の探究を続けます。伝統に生かされつつ、神の新しい導きに心を開く姿勢を大切にします。
「開かれた招き」としての信仰
私たちの信仰は、決して何かを強いるものではなく、また特定の内輪のみに閉ざされたものでもありません。それはむしろ、すべての人に向けて差し出される「開かれた招き(An Open Invitation)」—神の恵みと和解への招請です。
教会は、使徒たち以来の信仰の伝統に深く根ざしながらも、時代の痛みと叫びに敏く応える霊的共同体でありたいと願っています。私たちは、変わりいく世界のただ中にあって、神の国のしるしとして福音の喜びを生き、語り継ぐ者として召されているのです。その福音の光が、一人ひとりの人生の歩みにおいて証しされていくとき、そこには祈りがあり、志があり、仕える奉仕のかたちが生まれます。
教会とは、建物や制度によって定義されるものではありません。それは、主の召しに応えてともに歩む者たちによって紡がれる、キリストにある交わり(コイノニア)です。まさにこのような交わりにおいて、混迷と不安に覆われた世界のただ中にあっても、なお希望のしるしとして立ち現れる教会の姿があります。
神の愛は、すべての境界を越えて注がれています。 この愛に生かされるとき、私たちは応答し、分かち合い、仕える者とされてゆきます。その歩みこそが、信仰に生きる旅路であり、福音を担う教会の使命にほかなりません。
- 本教会では「Deacon」を「助祭」と訳しています。日本聖公会や他のアジア聖公会では「執事」が用いられますが、本教会は奉仕職の神学的意義を明確に伝える観点から「助祭」を採用しています。 ↩︎