
福音、歩む教会、リベラルな霊性のかたち
「自由と友愛」に込められた祈りのかたち
自由と友愛の独立アングリカン教会は、その名称があらわすとおり、「キリストにある自由(Christian liberty)」と「キリストにおける友愛の交わり(Fellowship in Christ)」とを、福音に根ざした信仰の核心として掲げています。
ここで語られる「自由」と「友愛」は、決して抽象的な理念や単なるスローガンにとどまるものではありません。それは、祈りと奉仕に生きるアングリカン(聖公会)の霊性(Anglican spirituality)と、人格の尊厳と共生の倫理に根差すキリスト教倫理神学とが響き合う場において、私たちの信仰と生活の礎となっているのです。
私たちは、聖公会的中道の歩み(via media)に立ちつつ、信仰における良心の自由を尊重し、礼拝と社会的責任とを不可分のものとして捉え、その統合的な霊的実践を通して福音の光を証ししています。
このような霊性のあり方は、現代のリベラルな倫理的感受性と、歴史に根ざした公共的霊性(public spirituality)とが出会うところにおいて形づくられています。人間のかけがえのない尊厳に深く仕え、過去の傷と沈黙に耳を傾けつつ、「自由」と「友愛」による交わりとしての教会共同体は、今日も生けるかたちでこの時代にあって証しを続けているのです。
このような霊性は、聖公会におけるリベラル・アングリカニズム(Liberal Anglicanism)の系譜に深く連なっています。そこでは、信仰と倫理、伝統と改革、聖なるものと公共の責任とが、互いに対話しながら成熟していく霊的運動体として、教会の姿が捉え直されてきました。自由と友愛の独立アングリカン教会は、この霊的運動の現代的な結実として、自らの群れを形成しています。
リベラルな霊性、信じることの自由と誠実さ
信仰と良心の自由
聖公会の霊的伝統において、「信仰」とは、神と人とのあいだに交わされる深く個人的な対話であり、外から強制される思想や制度ではありません。
それは、信じる者が自己の現実のただ中で、祈りと沈黙のうちに神の御前に立ち、自らの良心の声に誠実に耳を澄ましつつ、聖書と出会い、教会の交わりにあって養われていく生きた営みです。
この「良心の自由(liberty of conscience)」という理念は、トマス・クランマーやリチャード・フッカーに始まる聖公会神学の中心的遺産として、今日にいたるまで息づいています。
信仰は、自発的な応答であり、その自由にして誠実な応答を通してこそ、人は神との生きた関係へと招かれていくのです。
教義(doctrine)は、信徒の思索や問いを押し込める硬直した枠ではなく、むしろ、教会の歴史と伝統、そして現代世界の知見とを祈りのうちに照らし合わせつつ、ともに信仰を深め合うための霊的な探究の場—すなわち、教会の成熟と整えられた識別を支える神学的共同の営みとして理解されるべきです。
包摂と平等を求めて
自由と友愛の独立アングリカン教会は、「神は御自身にかたどって人を創造された」(創世記一章二七節)との聖書の宣言に立脚し、すべての人が神のかたちにおいて創られた存在であり、いかなる者も神の愛から排除されることのない尊厳を有すると確信しています。
私たちは、あらゆる差別や排除を明確に拒み、すべての人が神の家において歓迎され、尊ばれる礼拝共同体を築く使命を担っています。とりわけ、LGBTQ+の方々、障がいを持つ方々、ご高齢の方々、また社会的孤立や排除の中にある人びとに対して、教会は開かれた心と扉をもって応えるべきです。
この包摂は、単なる受容や配慮を超え、祈りと聖奠を共に担う交わり—すなわち完全な参与(full inclusion)として実現されねばなりません。
この信仰に根ざして、私たちは、性別や性自認にかかわらず、すべての人が司祭および主教として按手されうることを、ごく自然なこととして受けとめています。それは単なるジェンダー平等の倫理的主張ではなく、むしろ、歴史を通じて聖霊が女性たちをも確かに召し出し、奉仕へと遣わしてこられたという霊的現実に対して、教会が誠実に応答しようとする営みなのです。
初代教会において仕えた女性奉仕者たちの姿、そして現代の聖公会の共同体における広範な識別と一致のもとになされた決議の光に照らすとき、聖職を性別によって制限するいかなる神学的根拠も、もはや成立し得ないのです。
こうした包摂と平等の実践は、リベラル・アングリカニズムにおける霊性の中心にある「神の像を宿すすべての人の尊厳」への信仰に支えられています。福音はすべての人に開かれており、教会のかたちもまた、その福音の開かれた性格にふさわしくあるべきなのです。
教会とは、「義なる者たちの集い」ではなく、癒やしと赦しに生かされる神の民の共同体であるべきです。すべての人が、傷を負ったまま神のもとに招かれ、祈りと交わりのうちに癒やされ、新たに立ち上がることのできる場所—
私たちは、そのような信仰の家を、主と共に、また互いと共に築いていくことを願っています。
ともに在る教会のかたち
— ディアスポラ教区・十字架と復活の教区・福音的自律聖職運動の三位的交差
裂かれた世界にあって、ともに祈る教会の構想
今日の世界は、分断と断絶、喪失と沈黙のただ中にあります。制度に傷つき、礼拝から離れ、社会的に孤立する人びと—そうした人々の呻きとともに、なお祈りをあきらめない者たちの集いとして、この教会のかたちは始まりました。
私たちは、教会を「ともに在る」出来事として捉えます。
それは、単なる組織や建物でも、制度によって一義的に規定される団体でもありません。むしろそれは、福音に呼び集められた者たちが、裂かれた歴史のただ中で祈りを共有し、パンを裂き合い、赦しと希望を告げ知らせる、霊的な存在そのものなのです。
この理解のもとに、自由と友愛の独立アングリカン教会は三つの柱をもって教会の実存的応答を形づくっています。
ディアスポラ教区
— 地を離れてなお、主と共にある場
第一の柱は、「ディアスポラ教区(The Diocese of the Diaspora)」です。これは、国家、制度、地理的教区という枠を越え、あらゆる場所に散らされた信徒たちが、主の食卓を囲み、祈りと奉仕に結ばれる陪餐的ネットワークです。
この教区においては、教会の本質を「ともにパンを裂く共同体」として捉え、どこにいても主の体にあずかることができることを保障します。礼拝堂を持たずとも、財産を有せずとも、祈りと陪餐を中心に据えた聖なる集いこそが、教会そのものの証しとなるのです。
ここでは、離島に生きる人も、夜勤で日曜日に集えない人も、セクシュアル・マイノリティの方々も、医療・介護の現場で奉仕する者も、「教会から離れた」のではなく、「教会としてそこに在る」ことが宣言されます。
十字架と復活の教区
— 傷ついた歴史の裂け目に立つ教会
第二の柱は、「十字架と復活の教区(The Diocese of the Crucified and Risen)」です。この教区は、制度設計から出発したのではありません。それは、苦難に満ちた世界への霊的応答として、祈りと沈黙のうちに胎動した預言的共同体のかたちです。
ここに集う者たちは、喪失と暴力の現場に身を置きながら、あえて裂かれたままのパンを掲げて福音を証しします。この教区において教会は、社会の周縁に立ち続け、分断と抑圧、沈黙と痛みに満ちた世界の裂け目に、キリストの十字架と復活の光をもって臨在し続けます。
この教区が目指すのは、制度の保守でも、安寧の追求でもなく、叫びすら声にならない場所にあってなお祈る教会の沈黙の証しです。祈りと正義、聖奠と抵抗のうちに、神の国の到来を待ち望む者たちの、痛みを帯びた共同体なのです。
福音的自律聖職運動
— 制度を超えて生きる召命の霊性
第三の柱が、「福音的自律聖職運動(The Evangelical Autonomous Ministry Movement)」です。この運動は、聖職を「制度によって与えられる地位」ではなく、生活のただ中で神に応える召命の道として捉え直す信仰のかたちです。
制度に依存しないために、彼らはしばしば教会建物を持ちません。経済的支援を教会から受けず、日々の労働と祈りによって自己の霊的生活を築き上げます。この清貧と無償の霊性は、まさに主イエスが歩まれた道—「人の子には枕するところもない」(ルカ9:58)という生き方の具体的証しでもあります。
この霊性に生きる者たちは、教会の常勤職員ではありません。むしろ彼らは、教育、医療、建設、農業、IT、看護、音楽、介護—あらゆる現場において働きつつ、祈りと福音の証しをもってその場に教会を生きる者なのです。
三位一体のように
— 霊性・制度・交わりの交差点にある教会
この三つの柱は、それぞれが独立した構想ではありますが、分断された別個の実体ではありません。
▪︎ ディアスポラ教区
場所を越えて共に祈る教会の制度的基盤
▪︎ 十字架と復活の教区
痛みのただ中で祈る教会の霊的証し
▪︎ 福音的自律聖職運動
働きながら祈り続ける教会の生き方と召命
これらは、まるで三位一体の神のように、交わり、相補い、同じ霊に結ばれながら、世界の裂け目において福音の灯を掲げる教会をかたちづくっているのです。
▪︎ 彼らは教会に属するのではなく、教会として在る
▪︎ 彼らは制度を守るのではなく、制度を超えて祈る
▪︎ 彼らは財を持たずとも、すべてを与える
この共同体において、制度と霊性、祈りと行動、召命と交わりが深く交差するとき、教会はふたたび、裂かれたパンと流された杯のうちに、キリストのからだとして現れるのです。
このような教会像もまた、リベラル・アングリカニズムが重んじてきた「福音に生かされる多様性」と「祈りによって結ばれる公共性」に根ざしています。自由と友愛の独立アングリカン教会は、この霊性を現代の小さな交わりのうちに具現化する試みに生きています。
社会正義と、私たちの責任
「主はあなたに告げられた。何が善であるかを。ただ、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか。」
— ミカ書 第六章第八節
預言者ミカのこの呼びかけは、私たちの信仰と生の奥深くに響いています。
信仰とは、ただ個人の霊的な慰めや内面の救済にとどまるものではありません。それは、神の義と憐れみとを、この世界のただ中で証しし、あかしするという公的な責任をも担うものです。
貧困、差別、暴力、環境破壊、ジェンダー不平等—
これら現代の社会に根を張る構造的な不正義に対して、もし教会が沈黙し続けるとすれば、それは神の国の福音への根源的な裏切りとなりかねません。
私たちは、声を奪われた人々の声となり、抑圧と苦しみの中にある隣人と連帯し、ともに立ち上がる—そうした預言者的共同体(prophetic community)としての教会の姿を、日々問い直しています。
気候変動をはじめとする環境の危機に取り組むことも、単なる社会的な活動ではなく、
創造主なる神に仕える者としての霊的な召命の応答です。被造物を敬い、すべてのいのちの未来に誠実であること—それは、信仰者としての責務にほかなりません。
「神が造られたものは、すべて良いものであり、感謝して受けるなら、退けるべきものは何ひとつない。」
— テモテへの第一の手紙 第四章第四節
この御言葉は、神の創造の御業としての世界を、新たな目で見つめ直すようにと私たちを招きます。
正義を行い、慈しみに生き、神とともに歩むこと—それこそが、私たちに託された福音の召命であり、祈りを通して生きられる教会の使命なのです。
教会は、希望のかたちであるために
私たちが目指す教会の姿は、制度に閉じこもった枠組みでも、個人の霊的安寧だけを追い求める場所でもありません。むしろそれは、神の国のしるしとしてこの世界のただ中に立ち現れ、絶えず「希望のかたち」となって歩む共同体にほかなりません。
この希望の在り方は、聖公会の歴史を貫く証しの伝統に深く根ざしています。たとえば、元カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズは、神学的省察と公共的実践を両立させる姿勢のうちに、教会を「公共的聖性(public holiness)」のしるしとして理解しました。また、デズモンド・ツツ大主教は、アパルトヘイト体制と闘いつつ、和解と正義とを結ぶ橋渡し人(a bridge-builder of reconciliation and justice)として、その生涯を通してキリストの愛を証し続けました。
私たち自由と友愛の独立アングリカン教会は、こうした先達の歩みに倣いながら、二一世紀という歴史の深まりの中で、時代と共に問い直される「希望のしるし」としての召命に応答しようとしています。
私たちは、伝統のうちに根を張りながらも制度に縛られず、苦悩する世界の呻きを聴き、新たな枝葉を育むようにして—まるで「深く張る根と、しなやかに広がる枝」をあわせ持つ樹のように—霊的いのちに生かされた教会として、これからも成長しつづけていきたいと願うのです。
ともに歩む祈りへ
自由と友愛の独立アングリカン教会は、キリストにある信仰共同体としての〈交わり〉(コイノニア)を、単なる人的つながりとしてではなく、祈りと奉仕と正義に生きる霊的生活様式(way of life)として受けとめています。
私たちは、「自由に祈り、友愛に結ばれ、正義と慈しみに生きる」という三つの霊的柱を、この教会の信仰的アイデンティティの中心に据えています。この霊性は、聖公会の伝統が大切にしてきた三重の源泉(threefold sources)—聖書(Scripture)、聖なる伝統(Tradition)、理性(Reason)—と深く響き合いながら、現代の苦悩と希望に応答する、しなやかで真摯な信仰のかたちとして育まれています。
この霊的ヴィジョンに導かれ、私たちは次のような祈りと生き方を志します。
▪︎ 一人ひとりが、神に愛され、召されていることを見出す〈場〉となること
▪︎ 傷を抱えた魂が癒され、再び歩み出せる〈聖奠の交わり〉が守られること
▪︎ 声なき人びとの声に耳を傾け、正義と和解の道を共に求める〈交わり〉が育まれること
▪︎ この世界のただ中で、福音の光を証しする〈信仰者の共同体〉が歩み続けること
もし、この祈りと志が、ほんのかすかにでもあなたの心に触れるなら—
どうか、共に祈り、共に歩み、共に仕える道へと、歩みを共にしていただけますよう、心より願っています。
「あなたがたは、召された方にふさわしく歩みなさい。」
— エフェソの信徒への手紙 4章1節
この教会は、聖公会の伝統に立脚しながら、リベラル・アングリカニズムの霊性に根ざした包摂と平等の信仰を実践しています。性別や性自認にかかわらず、すべての人が司祭および主教として按手されうることを当然のことと受けとめ、聖霊が歴史を通して女性をも召し出してこられたという霊的現実に、誠実に応答します。この姿勢は、ジェンダー平等の倫理的主張にとどまらず、神の像を宿すすべての人の尊厳を大切にするリベラル・アングリカニズムの核心にある信仰に支えられています。