自由と友愛の独立アングリカン教会における「十字架と復活の教区」の使命と構造

裂かれた世界に立つ教会の召命

教会的応答としての根源的問い

「いま、教会は何のために存在しているのか。」

 この問いは、もはや抽象的な理念にとどまるものではありません。信仰者一人ひとりの祈りと生活のただ中で、切実かつ避けがたく響いている問いです。制度の形骸化、信仰の空洞化といった教会内部の困難に加え、世界全体が深く断裂する現代において、教会はなおも神の臨在を証しうるのか—その根源的な可能性が、鋭く、そして静かに問い直されています。

 戦争と暴力、差別と貧困、孤立と沈黙、気候の崩壊と政治的抑圧—こうした多層的な痛みと断絶が交錯する現実のただ中で、教会はどこに立ち、誰と共に歩むのか。私たちはこの深い問いを、祈りと識別をもって受けとめ、霊的かつ神学的な応答を形づくろうとしています。

神学的決断としての教区の誕生

 「十字架と復活の教区(The Diocese of the Crucified and Risen)」は、そうした応答の中から祈りのうちに生まれた共同体です。それは既存の教会制度の延長線上に描かれた構想ではなく、むしろ、福音の源泉へと立ち返ることを求める一つの神学的決断に他なりません。引き裂かれた歴史のただ中で、主イエス・キリストの十字架と復活の神秘を証しする—この霊的かつ倫理的な確信こそが、本教区の礎です。

 本教区は、地理的範囲や行政単位に基づいて編成されてはいません。それは、社会的に「裂けた場所」や「沈黙を強いられた現場」に身を置く者たちと共にあるために存在しています。排除され、忘れ去られてきた人々のそばに立ち、祈りをささげ、御言葉を分かち合い、礼拝をもって命の尊厳を確認し合う—そのような信仰の実践を共有する新しい教会のかたちが、ここに築かれているのです。

 本教区はまた、抑圧された歴史のただ中で沈黙を強いられてきた者たち、すなわち移民、非正規労働者、障がい者、性的少数者を含むあらゆる「名を奪われた存在」とともに立つことを使命としています。

 その傷と祈りに応答し、神の像としての尊厳を明確に証ししうる教会のかたち—それが、この教区創設に込められた霊的決断の一端です。

「ディアスポラ教区」との補完的関係

 この構造が、なぜいまアングリカン(聖公会)の伝統において求められるのか。その鍵は、すで制度化された「ディアスポラ教区」の存在にあります。ディアスポラ教区は、物理的に散在する信徒が典礼と聖奠を通して陪餐の交わりを保ち、祈りの継続と霊的アイデンティティの維持を果たす共同体であり、「散らされた者たちのための教会」として豊かな実りを結びます。

 これに対して、「十字架と復活の教区」は、「引き裂かれた現実を前に、公共空間において証しする共同体」です。ディアスポラ教区が信仰者を祈りによって支え、静かな一致を保つ構造であるならば、本教区はその祈りを歴史のただ中に押し出し、行動と証しをもって福音の真実を生きることを使命とします。

 二つの教区は制度的には独立しており、それぞれ固有の召命に生きています。しかし、霊的本質においては、アングリカン・スピリチュアリティが本来的に有する二極性—「黙想と奉仕」「沈黙と声」「内面の祈りと外的な参与」—を、相補的に体現する関係にあります。

福音的自律聖職運動との交差点

 加えて、この構造は、私たちの教会が提唱する「福音的自律聖職運動」とも深く交差しています。この運動の本質は、制度改革や財政的自立を超えた、霊的倫理の刷新にあります。すなわち、キリストの十字架に根ざす行動倫理の構築です。この霊性は、本教区において制度として具現化され、公共空間における証しの場として立ち上がっているのです。

公共性と社会的霊性としての教会

 このようにして、「十字架と復活の教区」の使命は、教会の公共性(public character of the Church)と社会的霊性(social spirituality)という二つの視座において定義されます。前者は、教会がいかにして社会に向けて福音の真理を語り続けるかという責任であり、後者は、教会が裂かれた世界において傷を負いながら、悼みを共にし、祈りを絶やさぬ存在として生きる霊的理解の深化です。

 この二つの視点が交差する地点—そこでこそ、「十字架と復活の教区」は、制度のかたちを帯びた一つの祈り、一つの応答として、静かに、しかし確かに息づいています。

十字架と復活の神学的・倫理的構造
— 贖い・希望・行動としての応答

 「十字架」と「復活」—この二つの言葉は、キリスト教信仰において最も根源的な象徴であると同時に、最も深く傷つけられ、しばしば誤解されてきた神学的語彙でもあります。

 その神秘に正面から向き合うことは、福音の中心を問い直すことに他なりません。

 この節では、贖罪の神学、復活信仰、宗教倫理、そして公共神学の視座から、「十字架と復活」が本教区の霊的・制度的構造にいかに刻み込まれているかを説明します。

十字架の神学的意味
— 被抑圧者の苦難における神の連帯

 十字架とは、ローマ帝国において反逆者や奴隷を見せしめとして処刑するために用いられた、最も残酷で屈辱的な死のかたちでした。

 しかし、それこそが神の子が選び取られた道であったことに、キリスト教信仰の根源的逆説があります。パウロはこれを「神の力」「神の知恵」と呼び(Ⅰコリント1:18–25)、そこに神が人間の苦難のうちに連帯される出来事を見出しました。

 この理解のもとで、十字架はもはや単なる贖罪の道具ではなく、「神が歴史の裂け目において共におられる」ことの最終的な証しとなります。

 本教区において、十字架は沈黙の中に叫びが響き、赦しが倫理的に最も困難な状況で生まれ、「勝者」ではなく「敗者」の視座から歴史を読み直す霊的枠組として受けとめられています。

 本教区における礼拝共同体は、この神学に基づき次のような応答を担います。

▪︎ 被害と苦難の記憶を祈りの中で守り、受けとめること
▪︎ 社会の不正義に対して、福音の光をもって立ち向かうこと
▪︎ 「声を奪われた者」と共に歩むことを霊的な選択とすること

 これは、福音的自律聖職運動が掲げる「傷を隠さず共に担う聖職の倫理」と深く響き合います。

 制度改革の先にあるのは、痛みの中で祈り、祈りの中で赦し、赦しの中で行動するという、霊性の刷新にほかなりません。

復活の希望
— 裂かれた歴史のただ中に灯される新たな始まり

 十字架が「終わり」を語るのであれば、復活は「始まり」を宣言します。

 それは死を否定する奇跡ではなく、むしろ「不条理と絶望に対する神の最終的な応答」としての出来事です。

 復活の光は、慰めの物語を越えて、「正義と希望は決して滅びない」という信頼を再び点火する神の行為なのです。

 本教区は、この復活信仰を次のように体現します。

▪︎ 癒されない傷を抱えたまま、それでも赦しと和解に向かって歩み出すこと
▪︎ 暴力の記憶を忘れず、信頼を築く共同体として祈りと対話を継続すること
▪︎ 社会構造に挑みながら、希望を制度に刻み、政策提言を通して証しすること

 この働きは、ディアスポラ教区の「離散の中で祈りと希望を支える霊的構造」と補完関係にあります。

 ディアスポラ教区が祈りによって支え続ける共同体であるならば、「十字架と復活の教区」は祈りを社会のただ中へと送り出す共同体です。

十字架と復活の倫理構造
— 傷を担いながら希望を生きる共同体

 宗教倫理の観点から見れば、十字架と復活とは理念ではなく、「傷ついた歴史の中で希望を生きるという生の構造」です。

 本教区では、信徒一人ひとりが「現実のただ中で十字架を担い、復活の光に照らされて生きるよう」召されています。

 この倫理的召命は、三つの相において現れます。

▪︎ 対自的次元
 痛みと葛藤のなかで祈りを手放さぬ誠実さ

▪︎ 対他者的次元
 記憶と赦しの交差点に立ち、共生の困難を生き抜く勇気

▪︎ 対社会的次元
 不正義と対峙しつつ、制度の中に神の希望を埋め込む責任

 ここにおいて、祈りと行動は切り離されるものではありません。

 祈りは行動の源であり、行動は祈りのかたちをこの世に刻むのです。

 それは、制度と霊性の交差点に立つ教会の姿そのものです。

制度としての〈裂かれた場所〉
— 応答としての教区構造

 十字架と復活を制度の中に刻むとは、単なる記念や象徴の操作ではなく、「預言的記憶と希望を、教会の制度において可視化すること」です。

 本教区の制度構造は、行政的装置ではなく、裂け目に立つための霊的構造として用いられます。

 本教区とディアスポラ教区との間には、以下のような神学的相補性が認められます。

▪︎ ディアスポラ教区
 離散の中で陪餐と祈りの一致を保持する信仰共同体

▪︎ 十字架と復活の教区
 社会的痛みのただ中に福音のしるしを刻む証し共同体

 この相補関係の中で、福音的自律聖職運動のめざす自己献身と共同性の霊性は、本教区において制度化され、祈りから制度、制度から行動へとつながる生きた霊的循環が形成されていきます。

 このように、「十字架と復活」という信仰の中心的神秘は、本教区のあらゆる制度・祈り・実践の中に刻み込まれています。

 それは、象徴でも理念でもなく、歴史の重さと傷の深さを知る共同体が、それでもなお「希望を手放さない」と決意するところにこそ、証しとして現れていくのです。

聖書における裂かれた者の霊性
— 旧約から黙示録まで

 「十字架と復活の教区」は、単なる制度的構想でも理念的装置でもなく、祈りと識別のうちに生まれた霊的応答です。

 その応答の核心にあるのは、「裂かれた現実においてこそ語られる信仰の声」に耳を澄まし、それを制度として証ししようとする志向です。

 この霊性は、慈善や行動主義を超えて、聖書全体を貫く神の応答と共苦の歴史に根ざしています。

 創世記から黙示録にいたるまで、聖書は、裂かれた者の呻きに応答する神の姿と、それに応じて立ち上がる信仰共同体の物語に満ちています。本教区の霊的土台は、まさにこの連続性の中に据えられているのです。

創世記と出エジプト記
— 神は苦しみの叫びを聞かれる

 聖書において、神の救いの働きは常に「苦しみの叫び」に対する応答として始まります。出エジプト記3章では、こう記されています。

 「主は言われた。わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、その叫び声を聞いた。…それゆえ、わたしは下って行く。」(出エジプト記3:7–8)

 ここに描かれているのは、傍観する神ではなく、民の痛みのうちに身を置く神です。神の霊的臨在は、宗教的空間よりも、むしろ抑圧と苦悩の現場において最も鮮やかに現れます。

 この霊性は、やがて主イエスの十字架において極まる「逆説的臨在」へと至り、本教区の使命—すなわち「構造的不正義のただ中での解放と証し」—に直接つながっていく原型を提供しています。

詩編と預言書
— 裂け目における神との対話

 詩編は、神との正直な対話の書です。神への賛美だけでなく、怒り、嘆き、訴え、問いが、隠すことなく記されています。

 その代表的な一節は、主イエスが十字架上で引用された言葉に凝縮されています。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(詩編22:1)

 この詩編の叫びは、単なる絶望ではなく、神との関係が破れたように感じられるその時にも、なお神を呼び求め続ける信仰の呻きです。

 そして、イザヤ書に登場する「主の僕(servant of the Lord)」は、共同体の傷を担い、贖いの道を歩む者として描かれています(イザヤ52–53章)。

 本教区の霊性は、こうした「裂け目に立つ霊性」に根ざしています。そこでは祈りが社会的現実と無縁ではなく、むしろ苦悩のただ中で神と向き合う場として捉え直されます。

イエスの交わり
— 傷に触れ、境界を越える福音

 イエスの宣教は、社会的に周縁化された人々との関わりによって特徴づけられます。律法や慣習の境界線を越え、人間として扱われてこなかった者と出会い、その尊厳を回復させていく行為は、福音の具体的な形でした。

▪︎ サマリアの女との対話(ヨハネ4章)
▪︎ 長血を患う女に触れるイエス(マルコ5章)
▪︎ 重病人に手を置き癒される行為(マタイ8章)

 このような行動は、福音が「言葉」ではなく「交わり(コイノニア)」として現れる場であることを示しています。

 本教区もまた、この霊性に倣い、制度の境界を超え、傷ついた者の傍らに立つ教会のかたちを探求します。

使徒言行録とパウロ書簡
— 宣教と苦難の交差点

 初代教会の歩みは、苦難と迫害のただ中にありました。パウロはこう記しています。

 「私たちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず…」(Ⅱコリント4:8–10)

 ここに描かれるのは、勝利の信仰ではなく、打ち砕かれた中でも立ち続ける信仰です。

 この霊性は、本教区が掲げる「共苦(compassion)と共働(cooperation)」の実践と重なり合います。

 十字架と復活を生きるとは、恵まれた状況において福音を語ることではなく、むしろ裂かれた歴史の現場で、なお希望を捨てずに信仰を証し続けることなのです。

黙示録
— 新しい天と新しい地への終末的希望

 ヨハネの黙示録は、迫害下の教会に向けて書かれた書でありながら、驚くほど鮮明な希望の光を放っています。

 「神の幕屋が人と共にある。…彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」(黙示録21:3–4)

 終末的希望とは、現実逃避ではなく、痛みと不条理を抱えたこの世界に、すでに到来しつつある神の国の徴(しるし)を見出し、それを証ししながら歩む姿勢です。

 本教区は、この黙示録的視野のもとに、裂けた世界に差し出される終末の光を、制度として照らし続ける使命を担っています。

ディアスポラ的霊性との相補性

 ここで、ディアスポラ教区との関係にも目を向ける必要があります。前者が散在する信徒たちの礼拝的交わり(陪餐コイノニア)を支える場であるのに対し、本教区は、裂かれた社会のただ中にあって証しと行動を制度として体現する、公共的コイノニアの場です。

 祈りと行動、静けさと預言、礼拝と変革—両者はその両翼をなす信仰の構造体として、互いに支え合い、教会全体がより豊かにキリストの体として形づくられていきます。

 こうして「十字架と復活の教区」は、聖書全体に脈打つ霊性の系譜に連なる共同体として、裂かれた場所における神の応答をいまここに受けとめ、祈りと制度のうちにそれを証し続けているのです。

教会の公共的使命と制度の刷新
— 制度化された預言者性

 現代社会において、キリスト教会はこれまでになく厳しい二重の挑戦に直面しています。一方では、「制度としての教会」が歴史的権威と社会的信頼を著しく損ないつつあり、他方では、「信仰共同体としての教会」が、断絶と暴力に満ちた世界のただ中で、なおも預言者的な証しを強く求められています。

 このような時代状況にあって、「十字架と復活の教区」は、単なる新制度の構想としてではなく、裂かれた世界において祈りと応答のうちに示された一つの霊的決断として立ち上げられました。その決断は、単に制度を刷新するのではなく、制度のただ中に福音の証しを刻み込むことを志すものです。

 この節では、この教区の使命を「制度化された預言者性」として明確にし、霊性と制度が交差する地点において開かれる可能性を説明します。

預言者性とは何か
― 制度と霊性の交わるところ

 預言者とは、未来を予見する者ではなく、「神の言葉を背負い、時代の痛みに応じて真実を語る者」です。旧約の預言者たち—イザヤ、エレミヤ、ホセア、アモスら—は、制度的権力と霊的忠実との間で引き裂かれながらも、現実の裂け目に立ち続けました。

 この「裂け目に立つ信仰」の系譜にあって、「十字架と復活の教区」がその預言者性を制度として刻むことは、次のような姿勢を意味します。

▪︎ 社会的不正義と沈黙しない信仰の声
 信仰は、社会の不正義に対して沈黙するのではなく、福音に根ざした声をもって応答する責任である

▪︎ 教会制度の自己保存を拒み、常に省察と刷新に開かれる姿勢
 制度の安定に安住せず、霊的識別と共に常に改革の可能性に心を開く態度を貫く

▪︎ 典礼・教育・行動を通じて、福音の召命を現実に生きること
 祈りと学び、そして具現的な行動をとおして、キリストの福音に応える生き方を日々に刻む

 預言者性とは、制度の外部性ではなく、制度のうちに聖なる不安を持ち込み、教会を福音に照らし続ける霊的責任なのです。

公共神学の視点
— 教会は誰のためにあるのか

 公共神学とは、教会の言葉が内向きにとどまらず、社会の文化的・倫理的課題に誠実に関わるべきであるという神学的姿勢です。その根本には、「教会は誰のために存在するのか」という問いが据えられています。

 本教区の応答は明快です。
 教会は、信徒だけのためでなく、社会の裂け目に生きるすべての人々のために存在する。

 ゆえに、教会には以下のような働きが求められます。

▪︎ 被差別者・周縁化された人びとへの霊的および制度的支援
▪︎ 公共政策への神学的提言と倫理的参与
▪︎ 「祈りの共同体」として、社会に対する責任と応答を担うこと

 教会の公共性とは、祈りをもってこの世界と関わり、福音の光を公共空間において証しすることにほかなりません。

聖公会的制度の刷新
— 典礼共同体から制度共同体へ

 聖公会はその歴史において、「リベラルな保守性(liberal conservatism)」という特性を培ってきました。すなわち、伝統を深く敬いつつも、時代の変化と対話し、祈りのうちに改革を見出していく姿勢です。

 この霊的伝統を受け継ぎつつ、「十字架と復活の教区」は、以下のような制度的刷新を担います。

▪︎ 教区の使命を「典礼中心」から「公共的証し」へと拡張すること
▪︎ 地理的区分から離れ、霊的・倫理的召命に基づく主題的編成へと転換すること
▪︎ 社会参加と倫理的実践を支える制度(社会委員会、市民連携センター、祈祷行動ネットワーク等)を整備すること

 これらは、ディアスポラ教区が果たしてきた「礼拝と祈りの共同体」としての務めを土台としつつ、教会の公共的使命を制度的にかたちづくる新たな応答です。

制度の霊性
— 祈りに始まり、行動に至る

 制度とは、単なる仕組みや枠組みではありません。それは祈りから生まれ、教育によって深まり、行動として証しされる、霊的な器でありうるのです。

 「十字架と復活の教区」における制度は、以下のような霊的三位一体的構造を備えています。

▪︎ 祈り ― 制度の源であり、神との交わりのうちに制度が芽生える
▪︎ 教育 ― 制度の知恵であり、信仰を識別する霊的洞察を育む
▪︎ 行動 ― 制度の証しであり、制度が福音を体現する場となる

 このように、制度は信仰を支える枠にとどまらず、福音のいのちを世界に注ぎ出す媒介として再構成されます。

ディアスポラ教区との神学的補完性

 「十字架と復活の教区」の使命は、「ディアスポラ教区」が担ってきた信徒の霊的アイデンティティ保持の働きと、明確な補完関係をなしています。以下にその対照を示します。

ディアスポラ教区|十字架と復活の教区
散在する信徒の霊的アイデンティティの保持|社会的裂け目に生きる人びとの制度的包摂
礼拝と祈りの共同体形成|公共的証しと預言的参与
家庭礼拝・祈祷資源の提供|行動倫理と政策提言の霊的基盤形成

こうした補完性は、「福音的自律聖職運動」が示す聖職像—すなわち、制度のうちに霊性を生き、制度をとおして福音をあかしする者—とも深く響き合います。

 このように、「十字架と復活の教区」は、制度の刷新と霊性の刷新とを不可分のものとして結び合わせ、現代の苦難に応答する新たな教会の姿を形づくろうとするのです。それはすなわち、福音が歴史のただ中で生きた言葉として響き、制度のかたちをもって祈りとなる、深い信仰の営みにほかなりません。

性の多様性と婚姻の祝福
— 包摂のための制度化された応答

 さらに本教区は、制度刷新と霊的包摂の実現に向けて、性の多様性と婚姻の聖性に関する教会的応答を、明確に制度の中に刻み込みます。

 私たちは、同性どうしの忠実な愛と誓約を、神の前における聖なる交わりとして受けとめ、その祝福を典礼的に認める歩みを進めます。これは、「すべての人が神のかたちに創られた」という信仰に根ざす、聖公会的かつ福音的な応答にほかなりません。

 この働きを教会全体として担うため、本教区は「婚姻と多様性のための補佐主教(Suffragan Bishop for Marriage and Diversity)」を置きます。この補佐主教は、典礼、牧会、教育、政策的証しのすべてにおいて、性の多様性に配慮し、包摂と尊厳を育む教会の使命を共に担います。

 この歩みは、福音の自由と友愛に生きる信仰共同体として、未来をひらく実践であり、また、制度をとおして祈りがかたちづくられる—その最も深いかたちの一つなのです。

信仰共同体のかたち
— 祈り・教育・証しの三重の営み

 「十字架と復活の教区」は、制度設計から出発した構想ではありません。それはむしろ、深く裂かれた時代への応答として、祈りに根ざす霊的運動として現れたものです。そしてこの応答は、抽象的理念にとどまらず、「祈りに始まり、学びに深まり、行動として実を結ぶ」という三重の信仰実践を通じて、ひとつの共同体の姿へとかたちづくられていきます。

 この「祈り・教育・証し」の三重軸は、それぞれが独立して存在するのではなく、たがいに呼応し、響き合う動態のうちに、教会共同体を育み、制度として具現化されていくものです。ここに、教会が「信仰の学び舎」となり、「預言的証しの場」となり、「神の臨在の祭壇」となる姿が、あらわれます。

 こうした霊的構造は、ディアスポラ教区が担う「典礼的交わりと霊的アイデンティティの保持」と、福音的自律聖職運動が追い求める「倫理的刷新と公共的証し」とを、神学的にも制度的にも橋渡しするものとして、相補的に結びついています。

祈りの交わり
— 沈黙に耐えうる霊性

 祈りとは、願いを述べることに先立ち、「神の沈黙に身を開く」ことです。それは、沈黙のうちに語られる神の言葉に耳を澄ませる営みであり、ときに嘆きと呻きのなかに、神の臨在を祈り求める行為です。

 本教区は、抑圧、孤独、断絶、沈黙といった場所にこそ立ち、そこで祈ることの意味を問い直してきました。言葉が届かず、応答が与えられぬような場においてこそ、聖霊は深く働かれるのです。

 以下のような祈りの実践が、聖公会の典礼伝統に基づいて制度化されています。

▪︎ 黙想礼拝、嘆きのリタニー、悔い改めと和解の晩祷
▪︎ 心に傷を負った者に寄り添う牧会的カウンセリングおよび祈祷グループ
▪︎ 教会暦に即した「裂かれた世界のための祈祷ガイド」の発行と共有

 この祈りは、個人の慰めを超えて、共同体全体の霊的背骨となる「魂の言語」として、制度の内部に息づいています。

教育の実践
— 裂かれた現実を識別する神学

 この教区における教育は、単なる知識伝達ではなく、「神のまなざしをもって世界を識別する霊的訓練」です。ここでは、命令の暗記よりも内的識別が重んじられ、教義体系よりも霊性の深まりが求められます。祈りに根ざした自由な探求こそが、その学びの根幹をなします。

 教育の主な取り組み

▪︎ 「公共神学」「社会倫理」「ディアスポラ神学」等の講座の開講
▪︎ 現実に根ざした参加型聖書読解(コンテクスチュアル・バイブル・リーディング)
▪︎ 教区による「公共信仰学校(The School of Public Faith)」の展開

 これらの学びは、「信じる」ことの内的経験を、社会的現実のただ中において問い直し、信仰を応答としての言葉と行動へと鍛え直す霊的鍛錬の場となります。

証しの行動
— 愛と正義の制度化

 「行いのない信仰は死んでいる」(ヤコブ2:26)。この言葉に照らされるとき、信仰は単なる理念ではなく、現実の中であらわされる証しでなければなりません。しかしたとえ誠実な個人の善意があったとしても、それだけでは制度としての教会が担う召命を全うするには足りません。

 そこで本教区は、証しの行動を以下のように制度的に組織化しています。

▪︎ 「傷つけられた者のための聖務日」や「破れを繕う日」といった典礼的実践の年間化
▪︎ 社会的に疎外された人々(移民、障がい者、LGBTQ+、暴力被害者など)への支援を担う「破れを繕う会」の設置
▪︎ 信徒主導の小規模な信仰実践グループによる「社会変革のための小共同体」の形成とネットワーク化

 証しとは、単なる抗議や介入ではなく、「神の憐れみが今ここにある」という福音の徴(しるし)を、制度のかたちにおいて体現することです。

三重軸の交差
— 霊的構造としての制度

 祈り・教育・証しという三つの軸は、互いに響き合い、循環しながら、教区共同体の全体性を支えています。

▪︎ 祈りは学びを深め、学びは証しを生み、証しはふたたび祈りへと還る
▪︎ 沈黙が学びを招き、学びが行動を促し、行動が再び沈黙に帰る

 この動態的な循環こそが、「制度は霊性を殺すのではなく、霊性を育む」という刷新された教会理解のしるしです。制度はもはや冷たい枠組みではなく、祈りを宿す器、福音に仕える場として生かされるのです。—ここに、「十字架と復活の教区」が指し示す、信仰共同体の真のかたちがあります。

公共空間における信仰の証し
─ 社会的実践としての教区の使命

 「十字架と復活の教区」は、理念として構想された制度ではありません。それは、深く裂かれたこの世界において、福音の光を生きて証しようとする、祈りと霊的識別の中から立ち上がった応答です。

 その核心には、こうした確信があります—福音とは単なる語りではなく、歴史のただ中で、身体をもって貫かれてゆく現実そのものである、ということ。

 信仰は、聖所の静けさに閉じこもることではなく、広場の喧噪、裁きの座の緊張、街頭の怒声、病床の沈黙といった裂け目に分け入り、神の国の徴(しるし)を身をもって生きることに開かれています。

 本章では、本教区が担う具体的な社会的実践の全体像と、それを支える神学的基盤とを明らかにします。

 そこには、祈りに根ざした霊的共同体を担うディアスポラ教区の静けさと、倫理的決断と参与を重んじる福音的聖職自律運動の預言性とが、深く共鳴しています。宗教倫理、公共神学、キリスト教社会思想の交差点において、この教区は制度として祈り、行動し、語り続けているのです。

信仰と公共性
─ 黙して語る教会

 信仰が公共空間において証しされるとき、それは時に政治的と誤解されることがあります。しかし、聖書において神の言葉は常に全被造物に向けて語られており、信仰の言葉は本来的に公共的です。

 主イエスは、神殿や会堂にとどまらず、市場にて、湖畔にて、街道にて、墓所にて、傷ついた者と問いを抱える者と出会い、神の国を告げられました。

 この姿に倣い、本教区は以下のような実践を制度として整えています。

▪︎ 街頭、大学、矯正施設、難民キャンプなどでの公共礼拝(public liturgies)の定期実施
▪︎ 社会的声明文の発信、および信仰に根ざした非暴力的抗議と公的行動
▪︎ 政府機関・市民団体・報道機関との神学的対話と協働的参与の構築

 これらは、祈りに根ざす行動として「沈黙の福音」が決して逃避ではなく、傍らに立ち続ける応答であることを社会に向けて示すものです。

 これは、日常のなかに祈りを埋め込むディアスポラ教区の礼拝的霊性とも深く響き合います。

正義の神学
— 神の義を社会に映す

 旧約聖書において語られる「正義」(צֶדֶק/δικαιοσύνη)とは、単なる法の適用や秩序の維持にとどまらず、神との正しい関係の回復、そして共同体における調和と連帯の実現を指しています。主イエス・キリストの宣教においても、この正義は、「囚われ人に解放を、見えない人に視力の回復を」(ルカ四・一八〜一九)という行動する愛として、福音の核心に位置づけられています。

 この神学的視座に立ちつつ、「十字架と復活の教区」は以下のような具体的取り組みを制度として形成しています。

▪︎ 教会法における保護条項の明記
 移民、非正規労働者、性的マイノリティをはじめとする社会的少数者の尊厳と権利を、神の像に創られた者として明確に守る規定を整備します。

▪︎ 「正義の研修所(The Justice Formation Institute)」の設立
 解放神学・黒人神学・女性神学・障がい者神学など、被抑圧者の視点に根ざした神学的探究を重んじ、それに基づく信仰と奉仕の養成を行います。

▪︎ 公共政策への神学的介入
 自治体、国家、国際機関に対して、キリスト教倫理に基づいた政策提言や応答文書を発信し、公共の善に貢献する霊的実践を展開します。

 これらの働きは、福音的自律聖職運動が掲げる「自己献身的霊性」を、制度のかたちをもって体現し、教会生活の中に深く根づかせてゆくものです。

 教会は、神の義がこの歴史のただ中において視覚的に現れる器であるように召されています。制度の正しさに留まらず、裂かれた関係を癒やし、祝福の交わりを再び結び直してゆくこと—それが、私たちが担う証しの本質です。

 福音における正義とは、制度改革という名の手段ではなく、すべての人のいのちと関係性が、神の愛に包まれているという信仰の確信に根ざした希望です。

 ゆえに、私たちはこう信じます。性的指向や性自認にかかわらず、すべての誓約と交わりは、神の御前において尊ばれるものであり、教会もまた、その祝福の務めを担うべきであると。それこそが、神の義(δικαιοσύνη)を、この世界において証しする私たちの、深い応答なのです。

和解と記憶
─ 裂かれた歴史への応答

 私たちが生きるこの地には、戦争、植民地主義、構造的差別、沈黙という、幾重にも折り重なった歴史的暴力の痕跡が刻まれています。これらの記憶とどう向き合うかは、教会の霊性と信頼性を問う決定的課題です。

 「十字架と復活の教区」では、「記憶と和解のミッション(The Mission for Memory and Reconciliation)」を制度として設け、以下の実践を担います。

▪︎ 加害と被害を共に記憶する礼拝・記念式の制定と実施
▪︎ 当事者と協働しての証言集・記録アーカイブ・ドキュメンタリー制作
▪︎ 歴史的・交差的加害責任に関する謝罪と悔い改めの公式文書化と、それに基づく対話の継続

 これは、沈黙と離散のなかに祈りを保ち続けてきたディアスポラ教区の霊性と、公共的証しを制度に刻もうとする本教区との霊的な交響に他なりません。

 和解とは忘却ではなく、記憶のうちに生まれ直す交わり(koinonia)の創出なのです。

創造の神学と地球的責任
─ 気候正義への献身

 「十字架と復活の教区」は、人間中心主義を超える創造霊性(Creation Spirituality)に根ざし、環境倫理を信仰の不可分の一部として捉えます。

 すべての被造物に及ぶ神の愛に基づき、以下のような具体的制度を整備します。

▪︎ 環境危機への応答を「信仰告白」として位置づけた教義文書の採択
▪︎ 持続可能なエネルギー政策・土地利用・教会施設運用に関する倫理ガイドラインの制定
▪︎ 「被造物の季節(The Season of Creation)」における礼拝・教育・奉仕プログラムの展開

 ここでの環境配慮は倫理ではなく、礼拝の延長であり祈りの形式でもあります。それは、ディアスポラ教区が築く静かな祈りの交わりを、地球的次元へと拡張する霊的呼吸でもあるのです。

沈黙の声を聴く
─ 無名の人びとの神学

 本教区における最も根源的な霊的実践のひとつは、「語られざる声」に耳を傾けることにあります。名もなき祈り、抑圧された沈黙、苦しみの中に耐え忍ぶ存在—こうした者こそが、実に教会の心臓部を形成しているのです。

 本教区では以下のような神学的実践を制度として展開しています。

▪︎ 路上生活者の証言をもとに編まれた祈祷文と礼拝形式の作成
▪︎ 障がい者の身体経験に根ざすインクルーシブ神学の形成
▪︎ 難民の歩みを軸に再解釈された救済史の教育と語り直しの場の創設

 これらは、福音的聖職自律運動が重んじる霊的傾聴と自己献身の倫理に深く根ざしています。

 また、ディアスポラ教区が支えてきた沈黙のうちに祈る共同体への伴走とも響き合います。沈黙に耳を澄ますこと—そこに、主の臨在がひそやかに息づいているのです。

 このように、「十字架と復活の教区」が担う社会的実践とは、ただの行動主義ではなく、霊性の深みに根ざし、制度を通して形を与えられた祈りの応答です。

 福音とは、いのちの痛みと構造的不正義のただ中で、沈黙を超えてなお語られる神の言葉である—その信仰を携えて、この教区は歩みを続けています。

傷を担い、希望を告げる教会の未来
— 結語としての黙想と招き

 「十字架と復活の教区」は、単なる制度や構想ではありません。それは、世界の深い痛みと沈黙に応答する、一つの霊的な身振りにほかなりません。祈りのうちに形づくられ、信仰のうちに息づくこの教区は、裂かれた時代への応答として、福音に生きる者たちが自らを主の裂かれたからだとして捧げ、歴史の裂け目において神の臨在を証しようとする、静かな叫びに他なりません。

 この教区が体現するのは、裂けた歴史のただ中に立つ教会の姿です。戦争と分断、差別と排除、喪失と孤独、疲弊と沈黙—そうした現実が交錯する世界の中で、なおも祈りを手放さず、礼拝を献げ、隣人のために生きる者たちがいます。声を奪われながらも賛美を歌い、居場所を失いながらも祭壇を囲み、名を知られずとも交わりを築く—そのような人々の歩みのうちに、この教区の本質は現されます。

 この教区が指し示すのは、受難において啓かれる神のかたち—すなわち「十字架の神の像(imago Dei crucis)」です。それは、力や栄光に先立ち、傷ついたかたちであらわれる神の姿であり、敗者と虐げられた者、そして名もなき者と共におられるインマヌエルの神です。主イエス・キリストの十字架と復活とは、まさにこの神のしるしであり、教会がその歩みにおいて立ち帰るべき召命の根源でもあります。

 私たちが志す教会の未来は、数や財や制度によって測られる繁栄ではありません。それはむしろ、より深く、より静かに、より十字架のかたちに従う霊的成熟の道です。制度や構造が必要とされる一方で、本質的には、教会の未来とは、信じ、祈り、共に歩む者たちの誠実な応答のなかに息づいていくのです。

 ゆえに、「十字架と復活の教区」の存在そのものが、一つの霊的な招きでありつづけます。

 ── 沈黙を恐れず、神の語りかけに耳を澄ます信仰へ。
 ── 痛みに寄り添い、祈りのうちにとどまる霊性へ。
 ── 裂かれた場所における陪餐の交わりへ。
 ── 名を持たぬ人びとの声を聴く、謙虚な傾聴の道へ。

 そこにはまた、こうした信頼があります。すなわち、私たちの傷と不完全さが神の光に拭い去られるのではなく、まさにその傷のうちに、神の栄光が宿るという確信です。主の傷跡に触れて信じたトマスのように、私たちもまた、この世界の深い裂け目のうちに、復活の主を見出す者とされていくのです。

 「十字架と復活の教区」は、こうした召命に応えて祈り続ける者たちの、ひそやかな灯火でありたいと願います。それは、あらゆるものが見えなくなる時代においても、なお消えずに燃え続ける、復活の夜明けを告げる小さな光です。

 その光のもとで、私たちは今日も祈ります。
主の平和と希望が、この裂かれた世界のただ中に、
今も静かに、しかし確かに、注がれていることを信じつつ。

 この教区の祈りが向かうその先は、あらゆる関係と誓約とが、神の愛のうちに聖別され、ともに生きる道が祝福される世界です。裂かれた関係の癒し、拒まれた愛の回復、見えなかった交わりへの新たな光—その一つひとつの歩みが、主の復活の光に照らされて、命にあふれる新たな交わり(コイノニア)へと導かれますように。

信仰共同体のかたち
— 祈り・教育・証しの三重の営み

 「十字架と復活の教区」は、制度設計から出発した構想ではありません。それはむしろ、深く裂かれた時代への応答として、祈りに根ざす霊的運動として現れたものです。そしてこの応答は、抽象的理念にとどまらず、「祈りに始まり、学びに深まり、行動として実を結ぶ」という三重の信仰実践を通じて、ひとつの共同体の姿へとかたちづくられていきます。

 この「祈り・教育・証し」の三重軸は、それぞれが独立して存在するのではなく、たがいに呼応し、響き合う動態のうちに、教会共同体を育み、制度として具現化されていくものです。ここに、教会が「信仰の学び舎」となり、「預言的証しの場」となり、「神の臨在の祭壇」となる姿が、あらわれます。

 こうした霊的構造は、ディアスポラ教区が担う「典礼的交わりと霊的アイデンティティの保持」と、福音的自律聖職運動が追い求める「倫理的刷新と公共的証し」とを、神学的にも制度的にも橋渡しするものとして、相補的に結びついています。

祈りの交わり
— 沈黙に耐えうる霊性

 祈りとは、願いを述べることに先立ち、「神の沈黙に身を開く」ことです。それは、沈黙のうちに語られる神の言葉に耳を澄ませる営みであり、ときに嘆きと呻きのなかに、神の臨在を祈り求める行為です。

 本教区は、抑圧、孤独、断絶、沈黙といった場所にこそ立ち、そこで祈ることの意味を問い直してきました。言葉が届かず、応答が与えられぬような場においてこそ、聖霊は深く働かれるのです。

 以下のような祈りの実践が、聖公会の典礼伝統に基づいて制度化されています。

▪︎ 黙想礼拝、嘆きのリタニー、悔い改めと和解の晩祷
▪︎ 心に傷を負った者に寄り添う牧会的カウンセリングおよび祈祷グループ
▪︎ 教会暦に即した「裂かれた世界のための祈祷ガイド」の発行と共有

 この祈りは、個人の慰めを超えて、共同体全体の霊的背骨となる「魂の言語」として、制度の内部に息づいています。

教育の実践
— 裂かれた現実を識別する神学

 この教区における教育は、単なる知識伝達ではなく、「神のまなざしをもって世界を識別する霊的訓練」です。ここでは、命令の暗記よりも内的識別が重んじられ、教義体系よりも霊性の深まりが求められます。祈りに根ざした自由な探求こそが、その学びの根幹をなします。

 教育の主な取り組み

▪︎ 「公共神学」「社会倫理」「ディアスポラ神学」等の講座の開講
▪︎ 現実に根ざした参加型聖書読解(コンテクスチュアル・バイブル・リーディング)
▪︎ 教区による「公共信仰学校(The School of Public Faith)」の展開

 これらの学びは、「信じる」ことの内的経験を、社会的現実のただ中において問い直し、信仰を応答としての言葉と行動へと鍛え直す霊的鍛錬の場となります。

証しの行動
— 愛と正義の制度化

 「行いのない信仰は死んでいる」(ヤコブ2:26)。この言葉に照らされるとき、信仰は単なる理念ではなく、現実の中であらわされる証しでなければなりません。しかしたとえ誠実な個人の善意があったとしても、それだけでは制度としての教会が担う召命を全うするには足りません。

 そこで本教区は、証しの行動を以下のように制度的に組織化しています。

▪︎ 「傷つけられた者のための聖務日」や「破れを繕う日」といった典礼的実践の年間化
▪︎ 社会的に疎外された人々(移民、障がい者、LGBTQ+、暴力被害者など)への支援を担う「破れを繕う会」の設置
▪︎ 信徒主導の小規模な信仰実践グループによる「社会変革のための小共同体」の形成とネットワーク化

 証しとは、単なる抗議や介入ではなく、「神の憐れみが今ここにある」という福音の徴(しるし)を、制度のかたちにおいて体現することです。

三重軸の交差
— 霊的構造としての制度

 祈り・教育・証しという三つの軸は、互いに響き合い、循環しながら、教区共同体の全体性を支えています。

▪︎ 祈りは学びを深め、学びは証しを生み、証しはふたたび祈りへと還る
▪︎ 沈黙が学びを招き、学びが行動を促し、行動が再び沈黙に帰る

 この動態的な循環こそが、「制度は霊性を殺すのではなく、霊性を育む」という刷新された教会理解のしるしです。制度はもはや冷たい枠組みではなく、祈りを宿す器、福音に仕える場として生かされるのです。—ここに、「十字架と復活の教区」が指し示す、信仰共同体の真のかたちがあります。

公共空間における信仰の証し
─ 社会的実践としての教区の使命

 「十字架と復活の教区」は、理念として構想された制度ではありません。それは、深く裂かれたこの世界において、福音の光を生きて証しようとする、祈りと霊的識別の中から立ち上がった応答です。

 その核心には、こうした確信があります—福音とは単なる語りではなく、歴史のただ中で、身体をもって貫かれてゆく現実そのものである、ということ。

 信仰は、聖所の静けさに閉じこもることではなく、広場の喧噪、裁きの座の緊張、街頭の怒声、病床の沈黙といった裂け目に分け入り、神の国の徴(しるし)を身をもって生きることに開かれています。

 本章では、本教区が担う具体的な社会的実践の全体像と、それを支える神学的基盤とを明らかにします。

 そこには、祈りに根ざした霊的共同体を担うディアスポラ教区の静けさと、倫理的決断と参与を重んじる福音的聖職自律運動の預言性とが、深く共鳴しています。宗教倫理、公共神学、キリスト教社会思想の交差点において、この教区は制度として祈り、行動し、語り続けているのです。

信仰と公共性
─ 黙して語る教会

 信仰が公共空間において証しされるとき、それは時に政治的と誤解されることがあります。しかし、聖書において神の言葉は常に全被造物に向けて語られており、信仰の言葉は本来的に公共的です。

 主イエスは、神殿や会堂にとどまらず、市場にて、湖畔にて、街道にて、墓所にて、傷ついた者と問いを抱える者と出会い、神の国を告げられました。

 この姿に倣い、本教区は以下のような実践を制度として整えています。

▪︎ 街頭、大学、矯正施設、難民キャンプなどでの公共礼拝(public liturgies)の定期実施
▪︎ 社会的声明文の発信、および信仰に根ざした非暴力的抗議と公的行動
▪︎ 政府機関・市民団体・報道機関との神学的対話と協働的参与の構築

 これらは、祈りに根ざす行動として「沈黙の福音」が決して逃避ではなく、傍らに立ち続ける応答であることを社会に向けて示すものです。

 これは、日常のなかに祈りを埋め込むディアスポラ教区の礼拝的霊性とも深く響き合います。

正義の神学
— 神の義を社会に映す

 旧約聖書において語られる「正義」(צֶדֶק/δικαιοσύνη)とは、単なる法の適用や秩序の維持にとどまらず、神との正しい関係の回復、そして共同体における調和と連帯の実現を指しています。主イエス・キリストの宣教においても、この正義は、「囚われ人に解放を、見えない人に視力の回復を」(ルカ四・一八〜一九)という行動する愛として、福音の核心に位置づけられています。

 この神学的視座に立ちつつ、「十字架と復活の教区」は以下のような具体的取り組みを制度として形成しています。

▪︎ 教会法における保護条項の明記
 移民、非正規労働者、性的マイノリティをはじめとする社会的少数者の尊厳と権利を、神の像に創られた者として明確に守る規定を整備します。

▪︎ 「正義の研修所(The Justice Formation Institute)」の設立
 解放神学・黒人神学・女性神学・障がい者神学など、被抑圧者の視点に根ざした神学的探究を重んじ、それに基づく信仰と奉仕の養成を行います。

▪︎ 公共政策への神学的介入
 自治体、国家、国際機関に対して、キリスト教倫理に基づいた政策提言や応答文書を発信し、公共の善に貢献する霊的実践を展開します。

 これらの働きは、福音的自律聖職運動が掲げる「自己献身的霊性」を、制度のかたちをもって体現し、教会生活の中に深く根づかせてゆくものです。

 教会は、神の義がこの歴史のただ中において視覚的に現れる器であるように召されています。制度の正しさに留まらず、裂かれた関係を癒やし、祝福の交わりを再び結び直してゆくこと—それが、私たちが担う証しの本質です。

 福音における正義とは、制度改革という名の手段ではなく、すべての人のいのちと関係性が、神の愛に包まれているという信仰の確信に根ざした希望です。

 ゆえに、私たちはこう信じます。性的指向や性自認にかかわらず、すべての誓約と交わりは、神の御前において尊ばれるものであり、教会もまた、その祝福の務めを担うべきであると。それこそが、神の義(δικαιοσύνη)を、この世界において証しする私たちの、深い応答なのです。

和解と記憶
─ 裂かれた歴史への応答

 私たちが生きるこの地には、戦争、植民地主義、構造的差別、沈黙という、幾重にも折り重なった歴史的暴力の痕跡が刻まれています。これらの記憶とどう向き合うかは、教会の霊性と信頼性を問う決定的課題です。

 「十字架と復活の教区」では、「記憶と和解のミッション(The Mission for Memory and Reconciliation)」を制度として設け、以下の実践を担います。

▪︎ 加害と被害を共に記憶する礼拝・記念式の制定と実施
▪︎ 当事者と協働しての証言集・記録アーカイブ・ドキュメンタリー制作
▪︎ 歴史的・交差的加害責任に関する謝罪と悔い改めの公式文書化と、それに基づく対話の継続

 これは、沈黙と離散のなかに祈りを保ち続けてきたディアスポラ教区の霊性と、公共的証しを制度に刻もうとする本教区との霊的な交響に他なりません。

 和解とは忘却ではなく、記憶のうちに生まれ直す交わり(koinonia)の創出なのです。

創造の神学と地球的責任
─ 気候正義への献身

 「十字架と復活の教区」は、人間中心主義を超える創造霊性(Creation Spirituality)に根ざし、環境倫理を信仰の不可分の一部として捉えます。

 すべての被造物に及ぶ神の愛に基づき、以下のような具体的制度を整備します。

▪︎ 環境危機への応答を「信仰告白」として位置づけた教義文書の採択
▪︎ 持続可能なエネルギー政策・土地利用・教会施設運用に関する倫理ガイドラインの制定
▪︎ 「被造物の季節(The Season of Creation)」における礼拝・教育・奉仕プログラムの展開

 ここでの環境配慮は倫理ではなく、礼拝の延長であり祈りの形式でもあります。それは、ディアスポラ教区が築く静かな祈りの交わりを、地球的次元へと拡張する霊的呼吸でもあるのです。

沈黙の声を聴く
─ 無名の人びとの神学

 本教区における最も根源的な霊的実践のひとつは、「語られざる声」に耳を傾けることにあります。名もなき祈り、抑圧された沈黙、苦しみの中に耐え忍ぶ存在—こうした者こそが、実に教会の心臓部を形成しているのです。

 本教区では以下のような神学的実践を制度として展開しています。

▪︎ 路上生活者の証言をもとに編まれた祈祷文と礼拝形式の作成
▪︎ 障がい者の身体経験に根ざすインクルーシブ神学の形成
▪︎ 難民の歩みを軸に再解釈された救済史の教育と語り直しの場の創設

 これらは、福音的聖職自律運動が重んじる霊的傾聴と自己献身の倫理に深く根ざしています。

 また、ディアスポラ教区が支えてきた沈黙のうちに祈る共同体への伴走とも響き合います。沈黙に耳を澄ますこと—そこに、主の臨在がひそやかに息づいているのです。

 このように、「十字架と復活の教区」が担う社会的実践とは、ただの行動主義ではなく、霊性の深みに根ざし、制度を通して形を与えられた祈りの応答です。

 福音とは、いのちの痛みと構造的不正義のただ中で、沈黙を超えてなお語られる神の言葉である—その信仰を携えて、この教区は歩みを続けています。

傷を担い、希望を告げる教会の未来
— 結語としての黙想と招き

 「十字架と復活の教区」は、単なる制度や構想ではありません。それは、世界の深い痛みと沈黙に応答する、一つの霊的な身振りにほかなりません。祈りのうちに形づくられ、信仰のうちに息づくこの教区は、裂かれた時代への応答として、福音に生きる者たちが自らを主の裂かれたからだとして捧げ、歴史の裂け目において神の臨在を証しようとする、静かな叫びに他なりません。

 この教区が体現するのは、裂けた歴史のただ中に立つ教会の姿です。戦争と分断、差別と排除、喪失と孤独、疲弊と沈黙—そうした現実が交錯する世界の中で、なおも祈りを手放さず、礼拝を献げ、隣人のために生きる者たちがいます。声を奪われながらも賛美を歌い、居場所を失いながらも祭壇を囲み、名を知られずとも交わりを築く—そのような人々の歩みのうちに、この教区の本質は現されます。

 この教区が指し示すのは、受難において啓かれる神のかたち—すなわち「十字架の神の像(imago Dei crucis)」です。それは、力や栄光に先立ち、傷ついたかたちであらわれる神の姿であり、敗者と虐げられた者、そして名もなき者と共におられるインマヌエルの神です。主イエス・キリストの十字架と復活とは、まさにこの神のしるしであり、教会がその歩みにおいて立ち帰るべき召命の根源でもあります。

 私たちが志す教会の未来は、数や財や制度によって測られる繁栄ではありません。それはむしろ、より深く、より静かに、より十字架のかたちに従う霊的成熟の道です。制度や構造が必要とされる一方で、本質的には、教会の未来とは、信じ、祈り、共に歩む者たちの誠実な応答のなかに息づいていくのです。

 ゆえに、「十字架と復活の教区」の存在そのものが、一つの霊的な招きでありつづけます。

 ── 沈黙を恐れず、神の語りかけに耳を澄ます信仰へ。
 ── 痛みに寄り添い、祈りのうちにとどまる霊性へ。
 ── 裂かれた場所における陪餐の交わりへ。
 ── 名を持たぬ人びとの声を聴く、謙虚な傾聴の道へ。

 そこにはまた、こうした信頼があります。すなわち、私たちの傷と不完全さが神の光に拭い去られるのではなく、まさにその傷のうちに、神の栄光が宿るという確信です。主の傷跡に触れて信じたトマスのように、私たちもまた、この世界の深い裂け目のうちに、復活の主を見出す者とされていくのです。

 「十字架と復活の教区」は、こうした召命に応えて祈り続ける者たちの、ひそやかな灯火でありたいと願います。それは、あらゆるものが見えなくなる時代においても、なお消えずに燃え続ける、復活の夜明けを告げる小さな光です。

 その光のもとで、私たちは今日も祈ります。
主の平和と希望が、この裂かれた世界のただ中に、
今も静かに、しかし確かに、注がれていることを信じつつ。

 この教区の祈りが向かうその先は、あらゆる関係と誓約とが、神の愛のうちに聖別され、ともに生きる道が祝福される世界です。裂かれた関係の癒し、拒まれた愛の回復、見えなかった交わりへの新たな光—その一つひとつの歩みが、主の復活の光に照らされて、命にあふれる新たな交わり(コイノニア)へと導かれますように。

「私は自分の体に、イエスの焼き印を受けているのです。」
   —ガラテヤの信徒への手紙 6章17節