
自由と友愛に根ざし、祈りと行動で福音を生きる教会
「自由」と「友愛」に託された、私たちの祈り
「自由と友愛の独立アングリカン教会」という名に出会うとき、多くの方が立ち止まり、心のうちに静かな問いを抱くことでしょう—
「自由とは何か。友愛とは、どのように生きられるのか。」
これらは、理念の抽象的な探究にとどまらず、信仰の旅路において繰り返し立ち返るべき霊的泉であり、祈りの深みを映し出す問いです。
ここで言う「自由」とは、自己本位な選択や気ままな態度ではありません。それはむしろ、神の御前において、良心に誠実に応答しながら歩む内なる自由を意味します。
祈りと識別をとおして、みずから神の呼びかけを聴き取り、福音に応えていくこと—それは、教条や権威による拘束ではなく、聖霊の導きによって与えられる自由の賜物にほかなりません。
この自由のあり方は、聖公会が大切にしてきた「中庸の道(via media)」にも重なります。とりわけリベラル・アングリカニズム(Liberal Anglicanism)においては、この「中庸」は単なる中立ではなく、伝統と改革、信仰と理性、霊性と公共性が交差する〈開かれた信仰の空間〉として理解されてきました。自由と友愛の独立アングリカン教会は、まさにこの交差点に身を置きながら、良心に根ざした自由と、他者と生き合う友愛の霊性を、現代において実践的に追い求めています。
そして「友愛」とは、他者との違いを否定することではなく、むしろその違いのただ中にこそ、神の創造の豊かさと、福音の包容力を見いだす霊的志向を意味します。
信仰理解、文化的背景、ジェンダーのあり方に違いがあったとしても、神の愛のもとでは誰一人として除外されることなく、ともに祈り、ともに学び、仕え合う—そのような交わりの実現こそが、私たちの目指す教会のかたちです。
この「自由」と「友愛」は、決して抽象的なスローガンではなく、私たちの日々の祈りと奉仕のなかに息づくものです。たとえば、礼拝においては、すべての人が共に祈りにあずかることができるよう、言葉の選びと祈りのかたちに細やかな配慮をもって臨みます。牧会においては、孤立のうちにある方々の声に耳を澄ませ、その存在と時間を大切にするまなざしが育まれています。
こうして、「自由」と「友愛」は、私たちの信仰の根に深く宿り、交わり(コイノニア)のうちにかたちをなし、福音の現実として、この世界のただ中にあらわされていくのです。
聖公会の伝統に根ざし、
今を生きる祈りの共同体として
自由と友愛の独立アングリカン教会は、英国国教会(The Church of England)に源を持つ聖公会の信仰と礼拝の伝統に、深く根ざした祈りの共同体です。私たちは、この豊かな霊的遺産を、過去の記憶としてではなく、現代において生き続ける神のいのちの流れとして受けとめています。
時代が変わり、世界が揺れ動く中にあっても、私たちは日々の祈りと奉仕の歩みのなかで、聖公会の霊性の深みに立ち返りつつ、神の導きを聴き分けながら、ともに信仰の道を歩んでいます。
アングリカニズム(Anglicanism)とは何か—それは、カトリックの伝統に連なる典礼の荘厳さと、宗教改革に根ざした聖書中心の信仰とを、理性と良心によって照らし出しつつ、祈りと実践において均衡させる「中道の霊性」にほかなりません。この伝統は、単なる折衷や妥協ではなく、異なるものの間にあって和解と調和を選び取る霊的な姿勢の表れです。
このような聖公会の伝統のうちに、私たちの信仰共同体は、特に次の四つの柱を重んじています。
▪︎ 聖書
私たちは、聖書を「救いに至るために与えられた神の言葉」として受けとめ、その朗読と黙想、説教と祈りを通して、教会のあらゆる営みの中心に据えます。
▪︎ 典礼
1662年版『公祈祷書(The Book of Common Prayer)』の伝統に立脚した荘厳にして共同体的な礼拝を大切にし、その中で神の臨在に深くあずかります。
▪︎ 三信条
使徒信条(The Apostles’ Creed)、ニカイア信条(The Niceno-Constantinopolitan Creed)、アタナシウス信条(The Athanasian Creed)を保持し、時代と地域を越えた公同の信仰に連なるものとして、全世界の教会との一致に与ります。
▪︎ 三聖職制
主教(Bishop)、司祭(Priest)、助祭(Deacon)1の三職(Threefold Order)を、使徒的継承(Apostolic Succession)のうちに保ち、それぞれの奉仕職が礼拝と聖奠の秩序を支えています¹。
これらの柱は、単なる制度や教理の骨格ではなく、キリストのからだなる教会をかたちづくる霊的な器官であり、私たちがこの世界のただ中で、希望と光とを証ししていくための、生ける伝統にほかなりません。
変わらぬものにしっかりと立ちつつ、変化のただ中にあっても柔軟に歩む—そこに、聖公会としての私たちの祈りと応答があります。
信仰に根ざす、私たちの選びと歩み
自由と友愛の独立アングリカン教会は、聖公会の霊的遺産と礼拝の伝統を深く敬いながらも、アングリカン・コミュニオン(The Anglican Communion)の制度的枠組には加わっていません。この選択は、分裂や対立を意図するものではなく、祈りと識別を重ねる中で導かれた、福音への誠実な応答にほかなりません。
私たちが問い続けているのは、外的な所属の有無ではなく、「どのようにして福音に生きるのか」という信仰の核心にかかわる問いです。この道は、単なる制度的選択を超えて、教会とは何か、信仰共同体としていかに生きるかを深く問う歩みです。
時代の複雑さと揺らぎのただ中にあって、教会が真に問われているのは、「どこに属しているか」ではなく、「どのように祈り、どのように福音を証ししているか」という根本の姿勢です。私たちは、この確信に立ち、以下のような具体的実践を信仰の証しとして大切にしています。
▪︎ 聖職への召命における平等性
すべての人が、性別やジェンダー・アイデンティティにかかわらず、神の召しに応答する可能性を与えられています。聖職は、その召命に対する自由で誠実な応答として尊ばれます。
▪︎ LGBTQ+の兄弟姉妹との共なる信仰生活
性的少数者をも、洗礼と聖餐にあずかる神の民として迎え、ともに祈り、ともに仕える共同体を築きます。これは包摂の理念を超え、キリストにある一致のしるしです。
▪︎ 多文化・多言語による霊的共同体の形成
多様な文化的・言語的背景を持つ者が、互いの霊性を尊重しつつ、一つの信仰に結ばれる道を共に歩みます。聖霊の働きは、言葉の壁を越えて、私たちを一つにします。
これらの実践は、福音が語る赦しと愛が、あらゆる人に向けて開かれているという真理への、生きた応答です。
このような応答のかたちは、リベラル・アングリカニズムの霊性において長らく育まれてきた、「共に問う教会」「包摂する福音」という霊的伝統と響き合っています。私たちの信仰共同体は、この霊性を制度の限界を超えて具現化しようとする、現代的な実験であり祈りのかたちでもあります。
三つの柱
— ディアスポラ教区・十字架と復活の教区・福音的自律聖職運動
私たちの教会は、「ディアスポラ教区(The Diocese of the Diaspora)」「十字架と復活の教区(The Diocese of the Crucified and Risen)」「福音的自律聖職運動(The Evangelical Autonomous Ministry Movement)」という三つの柱において、制度と霊性と奉仕が深く結び合う教会の姿を形づくっています。
それぞれは独立した制度や構想に見えながら、実際には一つの霊的な有機体として機能しており、聖公会の伝統に根ざしつつ、現代の課題に応答する教会共同体の多面的なかたちを生み出しています。
ディアスポラ教区
— 離れていても共に在る教会
この教区は、地理的・制度的制約を超えて交わりを保つ教会のかたちとして構想されました。定住性を前提としない現代社会において、教会は「場」や「建物」を超えて、聖奠と祈りによる一致のうちに生きることが求められます。
ディアスポラ教区の霊的特徴
▪︎ 主教職のもとに使徒的教導と礼拝を継承
▪︎ 聖餐と洗礼を中心とした陪餐共同体としてのかたち
▪︎ 孤立した信徒への継続的陪伴と司牧的支援
▪︎ 教会暦と典礼に基づく霊的リズムの回復
▪︎ オンライン礼拝や家庭礼拝を含む柔軟な霊的構造の採用
この教区は、「離れていても共にある(Dispersed yet united)」という聖公会教会論の核心を体現しています。制度の周縁に置かれた信徒たちにとって、それは霊的母胎としての教会の新たな姿であり、また福音のもとに結ばれる「一つの体」としての希望のかたちでもあります。
そのような分散型共同体において、常に聖餐式を行うことが困難であるという現実に応える礼拝のかたちとして、《アンテ・コミュニオン(Ante-Communion)》はきわめて重要な典礼的実践となっています。これは1662年版『公祈祷書』に定められた聖餐式の前半構造を用い、御言葉の朗読と祈りをもって礼拝共同体を築く、整えられた奉事です。
アンテ・コミュニオンは、単なる「代替」ではなく、「御言葉における完全な奉献」として神学的に理解されており、特に主教の認可を受けた伝道師によって導かれることで、聖公会としての制度的整合性と霊的誠実さが共に保たれます。これは、「奉仕の欠如に妥協するのではなく、現実に誠実に応答する」教会の姿を証しする典礼でもあるのです。
御言葉に基づく交わりは、物理的に離れた信徒たちに、「聖霊による一致」という霊的現実を指し示します。ディアスポラ教区において、アンテ・コミュニオンは家庭や仮礼拝所、オンライン空間など、あらゆる場所において共に祈り、共に聴き、共に応答する「一つの教会」としての生命を支え続けています。
このように、アンテ・コミュニオンは、ディアスポラ教区における主日礼拝の霊的基盤として位置づけられ、「どこにいても神の御言葉と祈りに生きる教会」の姿を、力強くかたちづくっているのです。
※この教区のより詳しい構造と霊的実践については、こちらのページをご覧ください。
※また、アンテ・コミュニオンの典礼的構造と霊的意義については、こちらの特設解説をご参照ください。
十字架と復活の教区
— 裂かれた世界に立つ預言的共同体
「十字架と復活の教区」は、制度設計ではなく、時代の裂け目に対する霊的応答として生まれました。分断、差別、孤立、疲弊—そうした傷ついた現実のただ中に、裂かれたパンとしての教会が身を置くこと。それがこの教区の召命です。
この教区の構造は、三重の信仰実践によって支えられています。
▪︎ 祈り(Liturgia)
被造物全体と人類の痛みを担う代祷者としての霊性。
▪︎ 学び(Paideia)
歴史と現実を福音の光で読み直す神学的識別。
▪︎ 証し(Martyria)
声なき声を聴き、社会の沈黙に向けて福音を語る行動。
この教区は、十字架の神学に基づき、キリストに倣う「自ら裂かれる教会」の姿を現代に提示します。制度的安定ではなく、応答と犠牲において教会であることを証しする、まさに「祈りを生きる共同体」です。
※この教区の信仰実践と神学的背景については、こちらに詳しく記しています。
福音的自律聖職運動
— 制度に依らず、召命に生きる聖職者の道
福音的自律聖職運動は、既存の制度構造に依存せず、福音に根ざす召命に従って歩む聖職者たちの霊的運動です。経済的自立、生活の現実に根ざした奉仕、制度を超えた信仰的証し—そのすべてが、キリストの道を生きる応答として統合されています。
この運動の神学的中核は以下の三要素に集約されます。
▪︎ 福音(Evangelium)
主の十字架と復活の愛に日常の言葉と行いで応える。
▪︎ 奉仕(Diakonia)
社会の周縁に生きる人々に寄り添い、祈りと行動をもって仕える。
▪︎ 霊的成熟(Teleiosis)
共同体との交わりと黙想を通じて、信仰者としての深まりを求める。
多くの聖職者は、定職や家族の責任を担いながらも、礼拝・牧会・教育・宣教といった務めに自律的に、かつ真摯に取り組んでいます。それは、初代教会の使徒たちが日々の労働の中に福音を生きた姿と重なります。
この霊的道は、「無償で与え、名を求めず、教会に仕える」という逆説の召命に根ざしています。
※この運動の理念と歩みについては、こちらの特設ページをご参照ください。
三本柱の統合的ヴィジョン
これら三つの柱—「ディアスポラ教区」・「十字架と復活の教区」・「福音的自律聖職運動」は、制度・霊性・奉仕という三重の教会的本質を、それぞれの角度から補完し合う相互依存的構造として存在しています。
▪︎ ディアスポラ教区
場を越えて信徒をつなぐ聖奠の土台。
▪︎ 十字架と復活の教区
時代の裂け目に立つ祈りと証しの共同体。
▪︎ 福音的自律聖職運動
制度の外で制度を支える奉仕の霊性。
三者は孤立した要素ではなく、交差しながら祈りを深め、制度を刷新し、奉仕を具体化する教会のからだの諸器官として働いています。
裂かれたパンに宿る教会の真実
「教会とは何か」と問うとき、私たちはこう答えます。
教会とは、裂かれたパンのうちにあずかる者たちの交わりである。
ディアスポラのただ中で、世界の裂け目で、名もなき聖職者たちの祈りのうちに—
神の国のしるしとして、教会は今も生き続けています。
教会の未来をともに担うために
私たちが今日なお模索し続けている「教会のかたち」とは、決して制度の刷新や構造の改革といった外面的な変更にとどまるものではありません。それはむしろ、福音の根源的な呼びかけにこたえ、聖霊の導きのうちに新たな創造の業へと参与する—そうした霊的旅路にほかなりません。
祈り、奉仕、労働、学び、そして交わり—
これら五つの霊的実践は、キリストのからだなる教会において、その日々の歩みをかたちづくる中心的な営みです。それぞれが孤立した行為として存在するのではなく、一つの霊的リズムのうちに結び合い、天の国のしるしとして、私たちの地上の歩みにおいて証しされていきます。
祈りとは、沈黙のうちに養われる個人の内的対話であると同時に、公祷を通して聖徒たちの交わりにあずかることであり、常に生ける神との関係を深める源泉です。
奉仕は、単なる善意の表出にとどまらず、十字架の主に倣い、苦しむ隣人とともに在るということにおいて、福音の現臨(real presence)を告げ知らせます。
学びは、信仰理解のための知的営みであるとともに、神を語る言葉(theologia)への飽くなき希求と、真理を求めて交わされる謙虚な対話のなかで深められていくものです。
こうした霊的実践は、リベラル・アングリカニズムの歩みにおいて重んじられてきた、祈り・行動・対話の三位一体的な信仰姿勢にもつながります。
私たちは、人の手による制度に依存するのではなく、聖霊の導きに信頼しながら、ともに祈り、ともに歩む「教会のからだ」として生きることを選びとっています。
教会とは、建造物や制度の名にとどまるものではなく、キリストにある交わり(コイノニア)と霊的生活のうちに、絶えずかたちづくられていく神の民の姿なのです。
この確信こそが、私たちの希望を支え、いまここにある教会の未来を、祈りと行いのうちに、ともに担っていく歩みへと、私たち一人ひとりを招いているのです。
「歴史の一歩」を、
私たちの信仰において刻むために
2023年、私たちは、長きにわたる祈りと対話の実りとして、新たな信仰共同体の歩みを始めました。この始まりは、単なる制度や名称の刷新ではなく、神の御前における霊的識別と、祈りに満ちた共同的熟慮を経て導かれた、「霊的決断」そのものでした。
それ以前の私たちは、北米聖公会(The Anglican Church in North America)およびGAFCON(Global Fellowship of Confessing Anglicans)のもとで歩んできました。しかし、やがてその制度的枠組みが、交わりの豊かさよりも制度の維持を優先し、祈り、赦し、陪餐といった聖公会的召命の核心を曇らせ、主にある交わりを裂く結果を招いている現実に直面するようになったのです。
アングリカン・コミュニオンには、神学的対話と倫理的応答の柔軟性が備わっており、それは、ジェンダーの平等、LGBTQ+の尊厳、気候危機への応答といった現代的課題に対する誠実な模索に表れています。けれども、その誠実さのうちにも、しばしば理想と現実とのあいだに緊張が走り、教会の証しが曖昧となり、交わりの本質的な回復が妨げられている事実も否定できません。
このような葛藤のただ中で、私たちは問い続けました—制度のなかに留まることが信仰にとって忠実なのか、それとも主イエス・キリストにある交わりの真実を、いかにして誠実に生きるのか。そこで見出したのは、「独立」という選択が、決して分裂や孤立を意図したものではなく、むしろ聖公会の霊的遺産に深く根ざしつつ、自らの良心と信仰において神の呼びかけに応える、霊的な歩みであるという確信でした。
この決断は、聖公会の伝統を否定するものではありません。むしろ、既成の制度的構造にとらわれることなく、その霊的遺産をより忠実に、より自由なかたちで受け継ぎ、いまを生きる信仰として新たに具体化しようとする試みです。
こうした霊的応答のもと、私たちは「自由と友愛の独立カトリック教会(The Independent Catholic Church of Liberty and Fellowship)」の名を掲げ、信仰共同体としての方向性を表明しました。しかしながら、「カトリック(Catholic)」という語が一部に誤解を招きかねないとの慎重な配慮から、2025年4月、「自由と友愛の独立アングリカン教会(The Independent Anglican Church of Liberty and Fellowship)」へと改称しました。これは決して、「公同(catholic)」の信仰を放棄するものではなく、むしろ「一つ、聖なる、公同、使徒的教会」を告白する者としての責任を、より明確に言い表す選択にほかなりません。
私たちが掲げる「自由」とは、信仰者が良心の自由において神の御前に立ち、御言葉と祈りに応えて歩むことを意味します。「友愛」とは、その自由を他者と分かち合い、隔たりを超えて祈り合い、生き合おうとする霊的な志を指します。この二つの霊的ヴィジョンは、制度的境界を越えて広がるキリストにある交わり—神の民のコイノニア—の礎であり、私たちの信仰実践の核心を成しています。
ゆえに、私たちは、制度的な枠組みや名称の有無によって教会の本質が定まるとは考えません。むしろ、教会とは祈りの共同体として、キリストにおける交わりを生き、福音を証し、聖奠を執行し、被造世界に仕えることにおいて、その召命を具現するのです。ここにこそ、私たちの「独立」の真意があり、この選択は閉じられた道ではなく、あらたな交わりと奉仕へと開かれた道なのです。
この霊的実在性に支えられながら、私たちは今も問いを携えて歩み続けています—「教会とは何か」「教会はいかにあるべきか」。この問いに向き合い、小さくとも誠実な応答を、祈りと識別と日々の歩みのうちに刻み続けているのです。
祈りと行動に息づく、私たちの命
教会とは、単なる建物や制度の集合ではありません。その核心をかたちづくるのは、祈りに根ざし、聖餐に養われた、神の民の交わり—すなわちコイノニアです。この交わりは、まるで教会の心臓のように、祈りの血流を全身に巡らせるいのちの源であり、聖霊の息吹によって日々新たにされています。
礼拝において、聖書朗読と説教に耳を傾け、聖餐の恵みにあずかることで、私たちは神との和解、人と人との交わりに生き直すよう招かれます。祈りの沈黙は、ただ音がないという以上のもの—そこに身を置く者すべてが、自らの弱さも問わずに「そのままで在る」ことを赦される、神の臨在に満ちた空間なのです。
同時に、教会は信仰を探求する共同体でもあります。疑いや葛藤もまた、信仰の成熟に欠かせない歩みの一部として大切にされます。「問い続ける勇気」をたずさえながら、私たちは互いの声に耳を澄ませ、多様な視点を尊重しつつ、光に向かってともに歩むのです。これは、日本聖公会が代々育んできた、「共に祈り、共に考える教会」の姿にほかなりません。
さらに教会は、祈りを社会のただ中でかたちにしようとする行動する共同体でもあります。私たちは、以下のような実践をとおして、神の愛を具体的に証ししています。
▪︎ 地域社会における支援活動
孤立死の予防、子ども食堂の運営など。
▪︎ 難民・ホームレスとの連帯
食糧支援、法的相談、伴走的支援。
▪︎ 創造世界の保全
脱炭素社会への奉仕、環境正義のための信仰的取り組み。
▪︎ 平和と正義の促進
憲法第九条の理念を活かした平和教育、反差別の取り組み。
これらの働きは、ただ「感じる愛」にとどまらず、「生きられる愛」への応答です。祈り、学び、行動—この三つが互いに響き合い、根を張り合うとき、教会は単なる信仰の場を超えて、「いのちを養う学校」としての役割を果たしはじめます。
この教会を、ぜひ知っていただきたい
いま、「教会」という言葉に、どこか距離を感じておられる方も少なくないでしょう。
とりわけこの国では、宗教がしばしば個人の内面に閉じ込められ、「信仰とは押しつけではないか」「排他的な集団なのではないか」といった先入観が、いまだ根強く残っています。
けれども、私たちが祈り求めている教会の姿は、そのようなものとはまったく異なります。
たとえば—
▪︎ 祈りたいと願う人が、いかなる否定も受けず、あるがままに神の御前に立てる場所
▪︎ 信仰についての迷いや問いを抱える人が、共に探り、共に学ぶことができる場所
▪︎ 社会の不正義に心を痛める人が、その痛みを声にし、共に担い合うことができる場所
—それが、私たちが目指す「キリストのからだ」としての教会のかたちです。
ここには、「こう信じよ」「こう生きよ」と命じる声はありません。
あるのは、ただひとつ、「神はあなたを深く愛しておられる」という揺るぎない福音の約束と、それを共に生きる、あたたかな祈りの交わり(コイノニア)です。
信仰とは、一度の回心によってすべてが完成するものではありません。
むしろそれは、日ごとの歩みの中で問い、つまずき、悔い、赦されながら、なおも歩み続ける生涯の旅路です。
私たちは願っています—この教会が、あなたにとって、その旅の「始まりの場所」となりますように。
私たちの願い
— 信じること、生きること、共に歩むこと
私たちが掲げる「自由」と「友愛」は、単なる理念ではありません。それは、主イエス・キリストの福音に根ざした生のあり方を体現する、深い霊的姿勢です。
もし、この教会を一本の樹木にたとえるなら—
「自由」は、目には見えぬ地中深くに張りめぐらされた根のようなものです。どれほど風が吹きすさび、地が揺れ動こうとも、神への信頼と誠実さによって、私たちの歩みを支えつづけます。
「友愛」は、陽の光を浴びて枝を伸ばし、風にそよぐ緑の葉のようなものです。他者との出会いと交わりの中で培われ、やがて恵みの実りをもたらします。
そして「信仰」は、根と枝葉をつなぐ幹として、いのちの流れを全体に行き渡らせる霊のはたらきそのものです。見えないけれど確かにそこにある神の息吹が、教会という共同体を内側から生かし続けるのです。
私たちはまだ、小さな群れにすぎません。壮麗な大聖堂も、大きな制度の支えもありません。しかし、祈り、問い、涙、そして笑いをたずさえて歩んできた日々のなかにこそ、キリストの体なる教会の真実が宿っていると、私たちは信じます。
この場では、誰もが、自らの声で祈り、自らの問いを差し出し、自らの涙と喜びを携えて神の前に立つことができます。信仰は、孤立した思索の結果ではなく、コイノニア—主にある交わりの中で養われ、深められていくものだからです。
信仰に揺らぎを覚えている方も、問いの途上にある方も、あるいは教会から一度離れた方も—どうか心に留めていてください。
あなたは、造り主なる神の御手のうちにあり、深く知られ、変わることのない愛をもって包まれています。
この教会は、その愛に応え、共に祈り、共に歩もうとする神の民の集いとして、あなたを待ち望んでいます。
たとえどこにおられても、いかなる歩みの途中にあっても—主の平安と憐れみが、あなたとともにありますように。
自由と友愛に根ざし、祈りと行動で福音を生きる教会
「自由」と「友愛」に託された、私たちの祈り
「自由と友愛の独立アングリカン教会」という名に出会うとき、多くの方が立ち止まり、心のうちに静かな問いを抱くことでしょう—
「自由とは何か。友愛とは、どのように生きられるのか。」
これらは、理念の抽象的な探究にとどまらず、信仰の旅路において繰り返し立ち返るべき霊的泉であり、祈りの深みを映し出す問いです。
ここで言う「自由」とは、自己本位な選択や気ままな態度ではありません。それはむしろ、神の御前において、良心に誠実に応答しながら歩む内なる自由を意味します。
祈りと識別をとおして、みずから神の呼びかけを聴き取り、福音に応えていくこと—それは、教条や権威による拘束ではなく、聖霊の導きによって与えられる自由の賜物にほかなりません。
この自由のあり方は、聖公会が大切にしてきた「中庸の道(via media)」にも重なります。とりわけリベラル・アングリカニズム(Liberal Anglicanism)においては、この「中庸」は単なる中立ではなく、伝統と改革、信仰と理性、霊性と公共性が交差する〈開かれた信仰の空間〉として理解されてきました。自由と友愛の独立アングリカン教会は、まさにこの交差点に身を置きながら、良心に根ざした自由と、他者と生き合う友愛の霊性を、現代において実践的に追い求めています。
そして「友愛」とは、他者との違いを否定することではなく、むしろその違いのただ中にこそ、神の創造の豊かさと、福音の包容力を見いだす霊的志向を意味します。
信仰理解、文化的背景、ジェンダーのあり方に違いがあったとしても、神の愛のもとでは誰一人として除外されることなく、ともに祈り、ともに学び、仕え合う—そのような交わりの実現こそが、私たちの目指す教会のかたちです。
この「自由」と「友愛」は、決して抽象的なスローガンではなく、私たちの日々の祈りと奉仕のなかに息づくものです。たとえば、礼拝においては、すべての人が共に祈りにあずかることができるよう、言葉の選びと祈りのかたちに細やかな配慮をもって臨みます。牧会においては、孤立のうちにある方々の声に耳を澄ませ、その存在と時間を大切にするまなざしが育まれています。
こうして、「自由」と「友愛」は、私たちの信仰の根に深く宿り、交わり(コイノニア)のうちにかたちをなし、福音の現実として、この世界のただ中にあらわされていくのです。
聖公会の伝統に根ざし、
今を生きる祈りの共同体として
自由と友愛の独立アングリカン教会は、英国国教会(The Church of England)に源を持つ聖公会の信仰と礼拝の伝統に、深く根ざした祈りの共同体です。私たちは、この豊かな霊的遺産を、過去の記憶としてではなく、現代において生き続ける神のいのちの流れとして受けとめています。
時代が変わり、世界が揺れ動く中にあっても、私たちは日々の祈りと奉仕の歩みのなかで、聖公会の霊性の深みに立ち返りつつ、神の導きを聴き分けながら、ともに信仰の道を歩んでいます。
アングリカニズム(Anglicanism)とは何か—それは、カトリックの伝統に連なる典礼の荘厳さと、宗教改革に根ざした聖書中心の信仰とを、理性と良心によって照らし出しつつ、祈りと実践において均衡させる「中道の霊性」にほかなりません。この伝統は、単なる折衷や妥協ではなく、異なるものの間にあって和解と調和を選び取る霊的な姿勢の表れです。
このような聖公会の伝統のうちに、私たちの信仰共同体は、特に次の四つの柱を重んじています。
▪︎ 聖書
私たちは、聖書を「救いに至るために与えられた神の言葉」として受けとめ、その朗読と黙想、説教と祈りを通して、教会のあらゆる営みの中心に据えます。
▪︎ 典礼
1662年版『公祈祷書(The Book of Common Prayer)』の伝統に立脚した荘厳にして共同体的な礼拝を大切にし、その中で神の臨在に深くあずかります。
▪︎ 三信条
使徒信条(The Apostles’ Creed)、ニカイア信条(The Niceno-Constantinopolitan Creed)、アタナシウス信条(The Athanasian Creed)を保持し、時代と地域を越えた公同の信仰に連なるものとして、全世界の教会との一致に与ります。
▪︎ 三聖職制
主教(Bishop)、司祭(Priest)、助祭(Deacon)の三職(Threefold Order)を、使徒的継承(Apostolic Succession)のうちに保ち、それぞれの奉仕職が礼拝と聖奠の秩序を支えています¹。
これらの柱は、単なる制度や教理の骨格ではなく、キリストのからだなる教会をかたちづくる霊的な器官であり、私たちがこの世界のただ中で、希望と光とを証ししていくための、生ける伝統にほかなりません。
変わらぬものにしっかりと立ちつつ、変化のただ中にあっても柔軟に歩む—そこに、聖公会としての私たちの祈りと応答があります。
信仰に根ざす、私たちの選びと歩み
自由と友愛の独立アングリカン教会は、聖公会の霊的遺産と礼拝の伝統を深く敬いながらも、アングリカン・コミュニオン(The Anglican Communion)の制度的枠組には加わっていません。この選択は、分裂や対立を意図するものではなく、祈りと識別を重ねる中で導かれた、福音への誠実な応答にほかなりません。
私たちが問い続けているのは、外的な所属の有無ではなく、「どのようにして福音に生きるのか」という信仰の核心にかかわる問いです。この道は、単なる制度的選択を超えて、教会とは何か、信仰共同体としていかに生きるかを深く問う歩みです。
時代の複雑さと揺らぎのただ中にあって、教会が真に問われているのは、「どこに属しているか」ではなく、「どのように祈り、どのように福音を証ししているか」という根本の姿勢です。私たちは、この確信に立ち、以下のような具体的実践を信仰の証しとして大切にしています。
▪︎ 聖職への召命における平等性
すべての人が、性別やジェンダー・アイデンティティにかかわらず、神の召しに応答する可能性を与えられています。聖職は、その召命に対する自由で誠実な応答として尊ばれます。
▪︎ LGBTQ+の兄弟姉妹との共なる信仰生活
性的少数者をも、洗礼と聖餐にあずかる神の民として迎え、ともに祈り、ともに仕える共同体を築きます。これは包摂の理念を超え、キリストにある一致のしるしです。
▪︎ 多文化・多言語による霊的共同体の形成
多様な文化的・言語的背景を持つ者が、互いの霊性を尊重しつつ、一つの信仰に結ばれる道を共に歩みます。聖霊の働きは、言葉の壁を越えて、私たちを一つにします。
これらの実践は、福音が語る赦しと愛が、あらゆる人に向けて開かれているという真理への、生きた応答です。
このような応答のかたちは、リベラル・アングリカニズムの霊性において長らく育まれてきた、「共に問う教会」「包摂する福音」という霊的伝統と響き合っています。私たちの信仰共同体は、この霊性を制度の限界を超えて具現化しようとする、現代的な実験であり祈りのかたちでもあります。
三つの柱
— ディアスポラ教区・十字架と復活の教区・福音的自律聖職運動
私たちの教会は、「ディアスポラ教区(The Diocese of the Diaspora)」「十字架と復活の教区(The Diocese of the Crucified and Risen)」「福音的自律聖職運動(The Evangelical Autonomous Ministry Movement)」という三つの柱において、制度と霊性と奉仕が深く結び合う教会の姿を形づくっています。
それぞれは独立した制度や構想に見えながら、実際には一つの霊的な有機体として機能しており、聖公会の伝統に根ざしつつ、現代の課題に応答する教会共同体の多面的なかたちを生み出しています。
ディアスポラ教区
— 離れていても共に在る教会
この教区は、地理的・制度的制約を超えて交わりを保つ教会のかたちとして構想されました。定住性を前提としない現代社会において、教会は「場」や「建物」を超えて、聖奠と祈りによる一致のうちに生きることが求められます。
ディアスポラ教区の霊的特徴
▪︎ 主教職のもとに使徒的教導と礼拝を継承
▪︎ 聖餐と洗礼を中心とした陪餐共同体としてのかたち
▪︎ 孤立した信徒への継続的陪伴と司牧的支援
▪︎ 教会暦と典礼に基づく霊的リズムの回復
▪︎ オンライン礼拝や家庭礼拝を含む柔軟な霊的構造の採用
この教区は、「離れていても共にある(Dispersed yet united)」という聖公会教会論の核心を体現しています。制度の周縁に置かれた信徒たちにとって、それは霊的母胎としての教会の新たな姿であり、また福音のもとに結ばれる「一つの体」としての希望のかたちでもあります。
そのような分散型共同体において、常に聖餐式を行うことが困難であるという現実に応える礼拝のかたちとして、《アンテ・コミュニオン(Ante-Communion)》はきわめて重要な典礼的実践となっています。これは1662年版『公祈祷書』に定められた聖餐式の前半構造を用い、御言葉の朗読と祈りをもって礼拝共同体を築く、整えられた奉事です。
アンテ・コミュニオンは、単なる「代替」ではなく、「御言葉における完全な奉献」として神学的に理解されており、特に主教の認可を受けた伝道師によって導かれることで、聖公会としての制度的整合性と霊的誠実さが共に保たれます。これは、「奉仕の欠如に妥協するのではなく、現実に誠実に応答する」教会の姿を証しする典礼でもあるのです。
御言葉に基づく交わりは、物理的に離れた信徒たちに、「聖霊による一致」という霊的現実を指し示します。ディアスポラ教区において、アンテ・コミュニオンは家庭や仮礼拝所、オンライン空間など、あらゆる場所において共に祈り、共に聴き、共に応答する「一つの教会」としての生命を支え続けています。
このように、アンテ・コミュニオンは、ディアスポラ教区における主日礼拝の霊的基盤として位置づけられ、「どこにいても神の御言葉と祈りに生きる教会」の姿を、力強くかたちづくっているのです。
※この教区のより詳しい構造と霊的実践については、こちらのページをご覧ください。
※また、アンテ・コミュニオンの典礼的構造と霊的意義については、こちらの特設解説をご参照ください。
十字架と復活の教区
— 裂かれた世界に立つ預言的共同体
「十字架と復活の教区」は、制度設計ではなく、時代の裂け目に対する霊的応答として生まれました。分断、差別、孤立、疲弊—そうした傷ついた現実のただ中に、裂かれたパンとしての教会が身を置くこと。それがこの教区の召命です。
この教区の構造は、三重の信仰実践によって支えられています。
▪︎ 祈り(Liturgia)
被造物全体と人類の痛みを担う代祷者としての霊性。
▪︎ 学び(Paideia)
歴史と現実を福音の光で読み直す神学的識別。
▪︎ 証し(Martyria)
声なき声を聴き、社会の沈黙に向けて福音を語る行動。
この教区は、十字架の神学に基づき、キリストに倣う「自ら裂かれる教会」の姿を現代に提示します。制度的安定ではなく、応答と犠牲において教会であることを証しする、まさに「祈りを生きる共同体」です。
※この教区の信仰実践と神学的背景については、こちらに詳しく記しています。
福音的自律聖職運動
— 制度に依らず、召命に生きる聖職者の道
福音的自律聖職運動は、既存の制度構造に依存せず、福音に根ざす召命に従って歩む聖職者たちの霊的運動です。経済的自立、生活の現実に根ざした奉仕、制度を超えた信仰的証し—そのすべてが、キリストの道を生きる応答として統合されています。
この運動の神学的中核は以下の三要素に集約されます。
▪︎ 福音(Evangelium)
主の十字架と復活の愛に日常の言葉と行いで応える。
▪︎ 奉仕(Diakonia)
社会の周縁に生きる人々に寄り添い、祈りと行動をもって仕える。
▪︎ 霊的成熟(Teleiosis)
共同体との交わりと黙想を通じて、信仰者としての深まりを求める。
多くの聖職者は、定職や家族の責任を担いながらも、礼拝・牧会・教育・宣教といった務めに自律的に、かつ真摯に取り組んでいます。それは、初代教会の使徒たちが日々の労働の中に福音を生きた姿と重なります。
この霊的道は、「無償で与え、名を求めず、教会に仕える」という逆説の召命に根ざしています。
※この運動の理念と歩みについては、こちらの特設ページをご参照ください。
三本柱の統合的ヴィジョン
これら三つの柱—「ディアスポラ教区」・「十字架と復活の教区」・「福音的自律聖職運動」は、制度・霊性・奉仕という三重の教会的本質を、それぞれの角度から補完し合う相互依存的構造として存在しています。
▪︎ ディアスポラ教区
場を越えて信徒をつなぐ聖奠の土台。
▪︎ 十字架と復活の教区
時代の裂け目に立つ祈りと証しの共同体。
▪︎ 福音的自律聖職運動
制度の外で制度を支える奉仕の霊性。
三者は孤立した要素ではなく、交差しながら祈りを深め、制度を刷新し、奉仕を具体化する教会のからだの諸器官として働いています。
裂かれたパンに宿る教会の真実
「教会とは何か」と問うとき、私たちはこう答えます。
教会とは、裂かれたパンのうちにあずかる者たちの交わりである。
ディアスポラのただ中で、世界の裂け目で、名もなき聖職者たちの祈りのうちに—
神の国のしるしとして、教会は今も生き続けています。
教会の未来をともに担うために
私たちが今日なお模索し続けている「教会のかたち」とは、決して制度の刷新や構造の改革といった外面的な変更にとどまるものではありません。それはむしろ、福音の根源的な呼びかけにこたえ、聖霊の導きのうちに新たな創造の業へと参与する—そうした霊的旅路にほかなりません。
祈り、奉仕、労働、学び、そして交わり—
これら五つの霊的実践は、キリストのからだなる教会において、その日々の歩みをかたちづくる中心的な営みです。それぞれが孤立した行為として存在するのではなく、一つの霊的リズムのうちに結び合い、天の国のしるしとして、私たちの地上の歩みにおいて証しされていきます。
祈りとは、沈黙のうちに養われる個人の内的対話であると同時に、公祷を通して聖徒たちの交わりにあずかることであり、常に生ける神との関係を深める源泉です。
奉仕は、単なる善意の表出にとどまらず、十字架の主に倣い、苦しむ隣人とともに在るということにおいて、福音の現臨(real presence)を告げ知らせます。
学びは、信仰理解のための知的営みであるとともに、神を語る言葉(theologia)への飽くなき希求と、真理を求めて交わされる謙虚な対話のなかで深められていくものです。
こうした霊的実践は、リベラル・アングリカニズムの歩みにおいて重んじられてきた、祈り・行動・対話の三位一体的な信仰姿勢にもつながります。
私たちは、人の手による制度に依存するのではなく、聖霊の導きに信頼しながら、ともに祈り、ともに歩む「教会のからだ」として生きることを選びとっています。
教会とは、建造物や制度の名にとどまるものではなく、キリストにある交わり(コイノニア)と霊的生活のうちに、絶えずかたちづくられていく神の民の姿なのです。
この確信こそが、私たちの希望を支え、いまここにある教会の未来を、祈りと行いのうちに、ともに担っていく歩みへと、私たち一人ひとりを招いているのです。
「歴史の一歩」を、
私たちの信仰において刻むために
2023年、私たちは、長きにわたる祈りと対話の実りとして、新たな信仰共同体の歩みを始めました。この始まりは、単なる制度や名称の刷新ではなく、神の御前における霊的識別と、祈りに満ちた共同的熟慮を経て導かれた、「霊的決断」そのものでした。
それ以前の私たちは、北米聖公会(The Anglican Church in North America)およびGAFCON(Global Fellowship of Confessing Anglicans)のもとで歩んできました。しかし、やがてその制度的枠組みが、交わりの豊かさよりも制度の維持を優先し、祈り、赦し、陪餐といった聖公会的召命の核心を曇らせ、主にある交わりを裂く結果を招いている現実に直面するようになったのです。
アングリカン・コミュニオンには、神学的対話と倫理的応答の柔軟性が備わっており、それは、ジェンダーの平等、LGBTQ+の尊厳、気候危機への応答といった現代的課題に対する誠実な模索に表れています。けれども、その誠実さのうちにも、しばしば理想と現実とのあいだに緊張が走り、教会の証しが曖昧となり、交わりの本質的な回復が妨げられている事実も否定できません。
このような葛藤のただ中で、私たちは問い続けました—制度のなかに留まることが信仰にとって忠実なのか、それとも主イエス・キリストにある交わりの真実を、いかにして誠実に生きるのか。そこで見出したのは、「独立」という選択が、決して分裂や孤立を意図したものではなく、むしろ聖公会の霊的遺産に深く根ざしつつ、自らの良心と信仰において神の呼びかけに応える、霊的な歩みであるという確信でした。
この決断は、聖公会の伝統を否定するものではありません。むしろ、既成の制度的構造にとらわれることなく、その霊的遺産をより忠実に、より自由なかたちで受け継ぎ、いまを生きる信仰として新たに具体化しようとする試みです。
こうした霊的応答のもと、私たちは「自由と友愛の独立カトリック教会(The Independent Catholic Church of Liberty and Fellowship)」の名を掲げ、信仰共同体としての方向性を表明しました。しかしながら、「カトリック(Catholic)」という語が一部に誤解を招きかねないとの慎重な配慮から、2025年4月、「自由と友愛の独立アングリカン教会(The Independent Anglican Church of Liberty and Fellowship)」へと改称しました。これは決して、「公同(catholic)」の信仰を放棄するものではなく、むしろ「一つ、聖なる、公同、使徒的教会」を告白する者としての責任を、より明確に言い表す選択にほかなりません。
私たちが掲げる「自由」とは、信仰者が良心の自由において神の御前に立ち、御言葉と祈りに応えて歩むことを意味します。「友愛」とは、その自由を他者と分かち合い、隔たりを超えて祈り合い、生き合おうとする霊的な志を指します。この二つの霊的ヴィジョンは、制度的境界を越えて広がるキリストにある交わり—神の民のコイノニア—の礎であり、私たちの信仰実践の核心を成しています。
ゆえに、私たちは、制度的な枠組みや名称の有無によって教会の本質が定まるとは考えません。むしろ、教会とは祈りの共同体として、キリストにおける交わりを生き、福音を証し、聖奠を執行し、被造世界に仕えることにおいて、その召命を具現するのです。ここにこそ、私たちの「独立」の真意があり、この選択は閉じられた道ではなく、あらたな交わりと奉仕へと開かれた道なのです。
この霊的実在性に支えられながら、私たちは今も問いを携えて歩み続けています—「教会とは何か」「教会はいかにあるべきか」。この問いに向き合い、小さくとも誠実な応答を、祈りと識別と日々の歩みのうちに刻み続けているのです。
祈りと行動に息づく、私たちの命
教会とは、単なる建物や制度の集合ではありません。その核心をかたちづくるのは、祈りに根ざし、聖餐に養われた、神の民の交わり—すなわちコイノニアです。この交わりは、まるで教会の心臓のように、祈りの血流を全身に巡らせるいのちの源であり、聖霊の息吹によって日々新たにされています。
礼拝において、聖書朗読と説教に耳を傾け、聖餐の恵みにあずかることで、私たちは神との和解、人と人との交わりに生き直すよう招かれます。祈りの沈黙は、ただ音がないという以上のもの—そこに身を置く者すべてが、自らの弱さも問わずに「そのままで在る」ことを赦される、神の臨在に満ちた空間なのです。
同時に、教会は信仰を探求する共同体でもあります。疑いや葛藤もまた、信仰の成熟に欠かせない歩みの一部として大切にされます。「問い続ける勇気」をたずさえながら、私たちは互いの声に耳を澄ませ、多様な視点を尊重しつつ、光に向かってともに歩むのです。これは、日本聖公会が代々育んできた、「共に祈り、共に考える教会」の姿にほかなりません。
さらに教会は、祈りを社会のただ中でかたちにしようとする行動する共同体でもあります。私たちは、以下のような実践をとおして、神の愛を具体的に証ししています。
▪︎ 地域社会における支援活動
孤立死の予防、子ども食堂の運営など。
▪︎ 難民・ホームレスとの連帯
食糧支援、法的相談、伴走的支援。
▪︎ 創造世界の保全
脱炭素社会への奉仕、環境正義のための信仰的取り組み。
▪︎ 平和と正義の促進
憲法第九条の理念を活かした平和教育、反差別の取り組み。
これらの働きは、ただ「感じる愛」にとどまらず、「生きられる愛」への応答です。祈り、学び、行動—この三つが互いに響き合い、根を張り合うとき、教会は単なる信仰の場を超えて、「いのちを養う学校」としての役割を果たしはじめます。
この教会を、ぜひ知っていただきたい
いま、「教会」という言葉に、どこか距離を感じておられる方も少なくないでしょう。
とりわけこの国では、宗教がしばしば個人の内面に閉じ込められ、「信仰とは押しつけではないか」「排他的な集団なのではないか」といった先入観が、いまだ根強く残っています。
けれども、私たちが祈り求めている教会の姿は、そのようなものとはまったく異なります。
たとえば—
▪︎ 祈りたいと願う人が、いかなる否定も受けず、あるがままに神の御前に立てる場所
▪︎ 信仰についての迷いや問いを抱える人が、共に探り、共に学ぶことができる場所
▪︎ 社会の不正義に心を痛める人が、その痛みを声にし、共に担い合うことができる場所
—それが、私たちが目指す「キリストのからだ」としての教会のかたちです。
ここには、「こう信じよ」「こう生きよ」と命じる声はありません。
あるのは、ただひとつ、「神はあなたを深く愛しておられる」という揺るぎない福音の約束と、それを共に生きる、あたたかな祈りの交わり(コイノニア)です。
信仰とは、一度の回心によってすべてが完成するものではありません。
むしろそれは、日ごとの歩みの中で問い、つまずき、悔い、赦されながら、なおも歩み続ける生涯の旅路です。
私たちは願っています—この教会が、あなたにとって、その旅の「始まりの場所」となりますように。
私たちの願い
— 信じること、生きること、共に歩むこと
私たちが掲げる「自由」と「友愛」は、単なる理念ではありません。それは、主イエス・キリストの福音に根ざした生のあり方を体現する、深い霊的姿勢です。
もし、この教会を一本の樹木にたとえるなら—
「自由」は、目には見えぬ地中深くに張りめぐらされた根のようなものです。どれほど風が吹きすさび、地が揺れ動こうとも、神への信頼と誠実さによって、私たちの歩みを支えつづけます。
「友愛」は、陽の光を浴びて枝を伸ばし、風にそよぐ緑の葉のようなものです。他者との出会いと交わりの中で培われ、やがて恵みの実りをもたらします。
そして「信仰」は、根と枝葉をつなぐ幹として、いのちの流れを全体に行き渡らせる霊のはたらきそのものです。見えないけれど確かにそこにある神の息吹が、教会という共同体を内側から生かし続けるのです。
私たちはまだ、小さな群れにすぎません。壮麗な大聖堂も、大きな制度の支えもありません。しかし、祈り、問い、涙、そして笑いをたずさえて歩んできた日々のなかにこそ、キリストの体なる教会の真実が宿っていると、私たちは信じます。
この場では、誰もが、自らの声で祈り、自らの問いを差し出し、自らの涙と喜びを携えて神の前に立つことができます。信仰は、孤立した思索の結果ではなく、コイノニア—主にある交わりの中で養われ、深められていくものだからです。
信仰に揺らぎを覚えている方も、問いの途上にある方も、あるいは教会から一度離れた方も—どうか心に留めていてください。
あなたは、造り主なる神の御手のうちにあり、深く知られ、変わることのない愛をもって包まれています。
この教会は、その愛に応え、共に祈り、共に歩もうとする神の民の集いとして、あなたを待ち望んでいます。
たとえどこにおられても、いかなる歩みの途中にあっても—主の平安と憐れみが、あなたとともにありますように。
「あなたがたは、真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
—ヨハネによる福音書 8章32節
- 本教会では「Deacon」を「助祭」と訳しています。日本聖公会や他のアジア聖公会では一般に「執事」が用いられますが、本教会は奉仕職の神学的意義を明確に伝える観点から「助祭」を採用しています。 ↩︎