降臨節第4主日 説教草稿 「恐れのただ中で生まれる神」

恐れのただ中で生まれる神
【教会暦】
降臨節第4主日 2025年12月21日 A年
【聖書日課】
旧約 イザヤ書 7:10-17
使徒書 ローマの信徒への手紙 1:1-7
福音書 マタイによる福音書 1:18-25
【本 文】
クリスマスは、穏やかな光と懐かしい旋律に包まれた、心安らぐ祝祭として語られがちである。しかし、降臨節第4主日が私たちに差し出す言葉は、そのような安心の手前で立ち止まることを求める。主の降誕は、整えられた舞台の上で起こった出来事ではない。恐れ、戸惑い、決断不能の沈黙、そのすべてを引き受ける場所に、神は来られた。クリスマスの光は、闇を知らない者のためではなく、闇の深さを知り尽くした者のために灯される。
イザヤ書に描かれるインマヌエルの預言は、信仰の高揚ではなく、政治と軍事の現実に追い詰められた王の物語である。アハズは信仰者としての言葉を口にしながら、神を信頼する決断からは逃げた。主はその不信仰を断罪する前に、なお「しるし」を与えると言われる。若い女が身ごもるという出来事は、力による解決ではなく、弱さのただ中で続いていく命の徴である。神は、人間が強くなるのを待たれない。恐れの中で立ち尽くす私たちの現実に、共におられる方として現れ出る。
この預言が、マタイによる福音書でヨセフの物語として具体化されることは決定的である。ヨセフは義人であった。しかし、その義は、マリアと共に生きる未来を切り開く力を持っていなかった。彼は正しさの名の下に、静かな別れを選ぼうとする。そこに差し込まれる御使いの言葉は、慰めではなく、命令である。「恐れるな」。この言葉は、恐れが消えるという意味ではない。恐れを抱えたまま、それでも従え、という招きである。ヨセフは説明を求めず、保証も得ない。ただ起き上がり、引き受ける。その沈黙の中で、神は歴史に身を置かれる。
ローマの信徒への手紙の冒頭で、パウロは福音を「神の子についての知らせ」と語る。それは抽象的な信条ではなく、肉を取り、人間の系譜と傷を引き受けた方についての現実の宣言である。この福音は、恵みと平和をもたらすが、それは現状を肯定する平穏ではない。神の正義が、私たちの社会の不正義を暴き、私たち自身の沈黙を問う平和である。パウロが召し出されたように、教会もまた、その福音のために安定を失うことを恐れてはならない。
クリスマスを前にした私たちは、ヨセフの選択を自分の問題として引き受けるよう招かれている。排除が常態化し、貧しさが自己責任として処理され、戦争が言葉によって正当化される世界において、ただ「正しく」生きることは容易である。しかし、神はその一歩先を求められる。恐れを理由に距離を取るのではなく、共に生きる決断をせよ、と。インマヌエルとは、神が人間の世界に同情されたという意味ではない。神が私たちの歴史に責任を持たれた、という宣言である。
まもなく私たちは、飼い葉桶に横たえられた幼子を見上げる。その姿は、力の象徴ではない。しかし、この弱さこそが、世界を変える神のかたちである。恐れの中で与えられた名、イエス。神は救う。神は我らと共におられる。この真理に支えられ、主の民として歩み出そう。聖餐の恵みによって養われ、公同の教会として、光を必要とする場所へ遣わされるために。クリスマスは、私たちの人生を安全にするためではなく、神と共に生きるために来るのである。

