降臨節第3主日 説教草稿「揺れる問いのただ中で、来たり給う主を待つ」

揺れる問いのただ中で、来たり給う主を待つ

【教会暦】
降臨節 第3主日 2025/12/14

【聖書日課】
旧約 イザヤ書 35:1-10
使徒書 ヤコブの手紙 5:7-10
福音書 マタイによる福音書 11:2-11

【本 文】
 降臨節第3主日を迎え、私たちは待つことのただ中に立たされています。降臨節とは、単に救い主の到来を静かに指折り数える期間ではありません。むしろそれは、希望と不安、確信と疑念が交錯する時間であり、主の民が自らの現実を直視しつつ、なお神の約束に身を委ねる緊張の季節です。教会の暦はこの主日を喜びの主日とも呼びますが、その喜びは軽やかな楽観ではなく、闇を知る者だけが抱き得る深い光への期待です。私たちは今日、揺れる心を抱えたまま、この礼拝に集められています。

 福音書は、牢に囚われた洗礼者ヨハネの問いを伝えています。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」かつて彼は荒れ野で大胆に悔い改めを叫び、来たるべき方を力強く指し示しました。そのヨハネが、いま疑問を差し出しているのです。主イエスは彼を責めません。しるしと業を示し、イザヤの預言を想起させながら、「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と応えます。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人に福音が告げ知らされている。この応答は、権威の誇示ではなく、神の国がどのようなかたちで到来するのかを静かに指し示す証しです。

 旧約のイザヤ書もまた、荒れ野に花が咲き、弱った手が強められ、恐れる心に「雄々しくあれ」と語りかける幻を描きます。そこに描かれる救いは、勝者だけの祝祭ではありません。弱さを抱え、声を失い、道を見失った者が回復され、共に歩む道が備えられる希望です。ヤコブの手紙は、この希望を生き抜くために忍耐を勧めます。主の来臨は近い、だからこそ互いに不平を言わず、苦難の中でも心を確かにせよと語ります。忍耐とは、現実から目を逸らすことではなく、神の正義が必ず貫かれると信じて踏みとどまる、能動的な信仰の姿勢です。

 しかし私たちの現代は、待つことに耐えがたい時代です。即時の結果、即効性の解決が求められ、苦しみや貧しさは自己責任として切り捨てられがちです。社会の片隅で声を上げることさえ許されない人々がいます。戦争、分断、経済的不安、差別と排除。その現実の中で、私たちもまたヨハネのように問わずにはいられません。本当に神の国は来ているのか、公同の教会は福音の真理を生きているのか、と。主イエスは今日も同じ答えを示されます。苦しむ者の側に立ち、尊厳を回復し、沈黙を強いられた人に言葉を取り戻させるところに、神の国はすでに芽生えているのだと。

 降臨節第3主日は、私たちに選択を迫ります。確信なき問いを封じ込めるのか、それとも問いを携えたまま主の業を見つめるのか。疑いを持つことは信仰の失敗ではありません。むしろ、誠実に生きようとする者の避けがたい道です。主は、つまずかない者は幸いだと言われました。それは、強固な信念を持つ者への称賛ではなく、壊れやすい希望を手放さず、なお主に委ねる者への祝福です。

 この礼拝において、私たちは聖餐の恵みにあずかります。そこでは、完全な理解も揺るがぬ確信も求められません。ただ、渇きと空腹を覚える主の民が招かれ、共にパンを裂き、杯を分かち合います。待つことに疲れた私たちを、神は見捨てられません。荒れ野に道が備えられるという約束は、いまここで生き始めています。どうか私たちが、揺れる問いを抱いたまま、希望のしるしを互いに見いだし、忍耐と連帯をもって歩み続ける群れとされますように。主の来臨を待ち望みつつ、すでに与えられている光を、この世界のただ中で証しする者として遣わされていく、その恵みに応答したいと願います。

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