牧者雑記「政治を語らない聖職者に、どうしても違和感がある」

政治を語らない聖職者に、どうしても違和感がある
正直に言います。このご時世で政治をまったく語らない聖職者に、私はどうしても偽善を感じています。もちろん異論はあるでしょう。でも、今の社会状況を冷静に見れば、沈黙はもはや説明できません。
物価高、低賃金、医療や教育の負担増、生活保護水準の逼迫、非正規雇用の拡大…。これらは信徒の生活そのものです。つまり政治そのものです。教会の相談室に来る悩みの多くが、制度の歪みから生まれている現実を、聖職者が知らないはずがありません。それでも「政治的に誤解されるから」と口を閉ざす。これは慎重ではなく、ただの逃げではないでしょうか。
聖書の世界では、権力の不正や社会の不条理に沈黙した預言者など一人もいません。イザヤも、アモスも、イエス自身も、政治の問題に正面から切り込んでいます。神の民の苦しみから目を逸らさないことが使命だったからです。その系譜に立つと言いながら、現代だけ「政治は語りません」は、どう考えても一貫性がありません。
私は、特定政党を支援せよと言っているわけではありません。むしろ逆で、特定政党の利害を超えて、社会の構造的問題を語るべきだということです。弱者が切り捨てられ、労働環境が悪化し、家庭が潰され、子どもが将来を描けない社会で、聖職者が沈黙を選ぶ理由はありません。沈黙は中立ではありません。沈黙は現状追認です。
教会が「政治は避けます」と言った瞬間、弱者の声は消えます。制度に押しつぶされている人々の現実を無視することになります。それを牧会とは呼べないと、私は思っています。
この国の状況は、もう黙っていられる段階ではありません。聖職者こそ、語るべきときに語らなければならないのではないでしょうか。皆さんはどう感じますか。ここでの沈黙が、本当に正しい姿なのか。私はそうは思えません。
