牧者雑記「アドベントに問われる — 教会と聖職の“身を切る覚悟”」

アドベントに問われる — 教会と聖職の“身を切る覚悟”
アドベントを迎えましたね。主の到来を待ち望む季節に、私たちは毎年「闇の中の光」「貧しい飼い葉桶にお生まれになったキリスト」を語ります。でも正直に言って、私たちの教会の現実は、その言葉とどこまでつながっているでしょうか。
いまの日本社会で、いちばんアドベントを切実に待っているのは誰か。物価高で生活保護ギリギリ、あるいはその下で生きている人たち、家族の介護で心身がすり減っている人たち、非正規でいつクビになるか分からない若い世代ではないでしょうか。そういう人たちの隣に、教会と聖職は本気で立っていると言えるのか。これはきれいごとではなく、生活のレベルの話です。
イエスは、神のかたちであられる方なのに、そのあり方に固執せず、ご自分を無にして来られました(フィリピ2章)。生まれた場所は宮殿ではなく、家畜小屋。これは「清く、貧しく」が美しいスローガンだからではなく、そこにしか届かない人々がいたからです。教会が「中流以上の人のための安全地帯」になっているとしたら、それはキリストの方向と真逆です。
ですから、私ははっきり言いたいのです。教会と聖職の在り方は、もっと徹底的に「身を切る改革」が必要だと。建物を維持することより、人のいのちと尊厳を守る方を優先させること。教会活動も、会館の中で完結させず、街中に出ていくこと。財政も同じです。聖職の報酬は、少なくとも「生活保護レベル」を上限の目安とすべきだと本気で考えています。
もちろん、どこの教会も財政的には厳しいのは分かっています。だからこそ「もうこれ以上は無理だ」と言いやすい。でも、それでもなお一歩踏み込んで、自分たちの安全圏を削り、社会的弱者と同じ目線に立つ覚悟があるかどうかが問われているのではないでしょうか。
私は、自分自身、そのレベルで生きることを原則として実践しています。自慢でも、美談でもありません。ただ、説教台から「貧しい人と共に」と語る以上、自分の生活もそこから逃げるわけにはいかないと思うからです。聖職者がまず身を削らないで、「社会のために」「弱者のために」と言っても、言葉が軽くならないでしょうか。
ルカ4章でイエスは、「貧しい人に福音を告げ知らせるために」来られたと宣言しました。アドベントにその御言葉を朗読しながら、自分たちの生活レベルだけは守り抜くとしたら、それはもう信仰ではなく、宗教サービス業です。皆さん、そうは思いませんか。
清く、貧しく。これはロマンチックな理想ではなく、具体的な家計、給与、予算の組み替えの話です。そこに手をつけないまま、「教会改革」や「伝道戦略」を語っても、中身は空洞のままかもしれません。このアドベント、私たちの教会と聖職が、本気でどこまで貧しさを引き受ける覚悟があるのか。答えは、それぞれの財布と生活の中に、はっきり表れてしまうはずです。(俊)

