降臨節前主日 説教草稿「王として、羊飼いとして — 信頼の転倒と信頼の回復」

王として、羊飼いとして―信頼の転倒と信頼の回復

【教会暦】
降臨節前主日(特定29) 2025年11月23日

【聖書日課】
旧約 エレミヤ書23:1-6
使徒書 コロサイの信徒への手紙1:11-20
福音書 ルカによる福音書23:35-43

【本文】

 私たちが生きる時代ほど、「王」や「羊飼い」という言葉が空洞化して響く時代はないのかもしれません。政治指導者から企業経営、地域の意思決定まで、あらゆる場面でリーダーシップが語られる一方、その裏側には深い不信が横たわっている。格差は拡大し、社会の分断は強まり、国家も共同体も疲弊している。人々は誰かに導かれることを望みながら、同時に「誰も信じられない」とつぶやく。この二重の感情が、今日の私たちの不安の核心のように思えます。聖書が語る「王」と「羊飼い」の物語は、このねじれた時代に向けて静かに、しかし鋭く語りかけてきます。

 エレミヤ書が告げるのは、支配者への痛烈な断罪です。「わざわいだ、群れを滅ぼし散らす羊飼いたちよ」。指導者でありながら、守らず、顧みず、弱い者を食い物にする“羊飼い”。古代の王たちの話ではありません。これはまさに、共同体のために働くはずのリーダーが、共同体を疲弊させてしまう現代の現実と重なる言葉です。権力は時に人を傲慢にし、正義より自己保身を優先させ、民を散らす力にもなり得る。エレミヤが見た光景は、時代を超えて私たちを照らします。しかし同時に、神は散らされた民を再び集めると語る。「義の若枝」を立て、真の王として、正義と平和をもたらす方を起こすと告げるのです。

 その約束の実体を、コロサイ書は宇宙的なスケールで示します。弱い小さな教会を励ますために、著者はキリストの姿を果てしない広がりの中に描きます。「万物はキリストにあって造られ、キリストによって保たれている」。教会も世界も国家も、そして私たち一人ひとりの存在さえも、あるべき秩序の中心に置くべき“王”は、一点の暴力も誇示も必要としない方だという宣言です。支配とは恐れによる支配ではなく、存在を保つ力、すべてを結び合わせる和解の力のことだと語るのです。私たちはこの視野をどれほど失っているでしょう。日々の忙しさの中で、目先の危機や対立にばかり心を奪われ、宇宙的な調和のうちにある神の計画を見失ってしまってはいないでしょうか。

 そして、ルカ福音書はこの王の姿を十字架の上に置きます。「もしお前が王なら、救ってみろ」と嘲られ、権力も栄光もなく、ただ傷つきながら息絶えようとする方。しかしその場でただ一人、悔い改めた盗賊に向けて、「今日、あなたはわたしと共に楽園にいる」と告げる。その言葉のやわらかさと決定性は、どんな政治的権威よりも強い王権の証でした。弱さのただ中でこそ現れる王、失われた者を探し、罪に沈む者を決して見捨てない羊飼い。それがキリストの王としての姿なのです。

 今日の私たちの社会は、散らす羊飼いたちの問題だけでなく、私たち自身の側の問題も抱えています。私たちがどこに信頼を置いてきたのか。誰に期待し、何に委ね、どの力を“王”としてきたのか。成長、富、国力、効率、人気、あるいは目立つ魅力を持つ人物。これらは一時的に私たちを安心させても、しばしば深い失望を生みます。エレミヤが語る「散らす羊飼い」は、外側の問題であると同時に、私たち自身の心の傾きの問題でもあります。

 キリストは、私たちが見失った信頼の中心を回復するために、王として現れ、羊飼いとして呼びかけられます。その呼びかけは、教会という共同体にも向けられています。教会がキリストの体であるならば、教会は社会に向けて、和解と平和の王権を体現する使命を託されています。分断を養うのではなく、散らされた者を集める共同体として立つこと。権力ではなく奉仕を、独占ではなく分かち合いを、除外ではなく包摂を選ぶこと。これは単なる倫理ではなく、王であるキリストに根ざした生き方そのものです。

 私たちは今日、改めて問われています。「私の王は誰か。私の羊飼いは誰か」。この問いは政治的問題ではなく、存在の中心に関わる霊的な問いです。もし私たちがキリストを王として迎えるなら、私たちの日常は必ず変わります。ひとりの弱さに気づき、寄り添う姿勢が生まれます。搾取ではなく守り、奪うのではなく支える行動が生まれます。そして教会は、散らされたまま生きる社会に向けて、回復のしるしとして立ち続けることができます。

 主の民である私たちが今朝受け取るべき福音は明確です。転倒した信頼を正し、正義と平和の王を仰ぎ、羊飼いとしてのキリストに従う道へと立ち返ること。その道こそが、社会の混乱の中であっても、私たちが歩むべき唯一の確かな道です。

 どうか主が私たちの心を整え、散らされた者を集める働きに参加する勇気を与えてくださいますように。今日、十字架から語られた言葉が、私たち一人ひとりのうちに静かに、しかし確かに響きますように。

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