牧者雑記「孤独と無関心の時代に、イエスが日本の私たちにまず求めておられること」

孤独と無関心の時代に、イエスが日本の私たちにまず求めておられること

 子どもの貧困はおよそ七人に一人、自殺者数は年間二万人を上回り、出生数は史上最少を更新し続けている。統計は冷たいが、福音書を読む私たちは知っているはずだ。ここには「一人を見失った社会」の姿がある。

 イエスは「九十九匹を野に残して、迷い出た一匹を捜しに行く」牧者を語られた。今の日本は逆をやっている。少子化だ、国力だと「九十九匹」の数字ばかり騒ぐのに、学校に行けない子、家に閉じこもる若者、声を上げられないシングルマザー、その「一人」の顔を見ようとしない。

 イエスが今日の私たちにまず望まれるのは、「一人の重さ」を取り戻せ、ということだと思う。票数やフォロワー数ではなく、目の前の一人を、天の父が見る重さで見ること。それは気分の問題ではなく、生活の組み替えを迫る命令だ。

 第二に、「安全な宗教」に引きこもるのをやめよ、ということだろう。きれいな礼拝、整った教理、同じ価値観の仲間に囲まれた居心地の良さ。そのどれも悪くない。しかしイエスの福音は、道ばたに倒れた人に近づいた「良きサマリア人」として現れる。痛みの現場を避ける信仰は、どれほど聖書的な言葉で飾っても、イエスの足跡とは別物だ。

 そして第三に、「恐れからの道徳」をやめ、「愛からの従順」に戻れ、と迫っておられるのではないか。神罰や国の没落をちらつかせて人を脅すのは、早道に見えて、心を殺す。イエスは「最も小さい者」にしたことが、自分への応答だと言われた。天国行きのチケットより先に、ここで苦しむ小さな隣人を見よ、と。

 日本社会は今、「静かな緊急事態」の中にある。だからこそ、私たちキリスト者が一番最初に悔い改めを始める番だ。イエスが望んでおられるのは、声高なスローガンではなく、孤独な一人のそばに腰を下ろす、小さくて具体的な従順。その小さな従順は、国の未来を論じる前に、まず私たち自身の心の硬さを砕き、そこで初めて福音書の言葉が、今日の日本社会の痛みと響き合い始める。こで初めて、福音書は日本の今日とつながり始める。(俊)

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