聖霊降臨後第23主日 説教草稿「待つだけで終わらない信仰 ― 来臨を備える民として」

「備えて歩む信仰 ― 来たる主の日と、この国の現実」

【教会暦】
聖霊降臨後第23主日(特定28) 2025年11月16日

【聖書日課】
旧約 マラキ書 3:13-4:2,5-6
使徒書 テサロニケの信徒への手紙二 3:6-13
福音書 ルカによる福音書 21:5-19

【本 文】

 今、私たちの国では約17兆円規模の経済刺激策が検討されていると報じられています。生活費の高騰、地域の疲弊、将来不安。政治が遅すぎるほどに対処を迫られる課題ばかりです。こうした時代にあって、私たちは単に「何かが改善されるのを待つ側」にとどまるのか、それとも「備え、行動する側」へと呼び出されているのか。今日の聖書箇所は、その問いにまっすぐ向き合わせます。

 マラキ書は、神の民が疲れ果て、正義が遅れ、望んだ救いが見えないと嘆く時代に語られました。「主の臨在はどこにあるのか」「正しい者には報いがないではないか」。その叫びのただ中で、マラキは主が必ず来られること、義の太陽が昇ること、そしてその時を「見張りをする者のように」備えよと促します。待つとは、思考を停止することではありません。来られる方に心を整え、隣人のために正義を実際に行う姿勢そのものが、主の臨在を迎える道なのだとマラキは語ります。

 使徒パウロは、テサロニケ教会の中に「主がすぐ来られるのだから、働かなくてよい」と考える者がいたことを指摘し、「働こうとしない者は、食べてはならない」と厳しい言葉を放ちました。ここで語られる働きとは、単なる労働義務ではありません。主の民が互いの重荷を分かち合い、共同体を支えるための責任です。与えられた日々を空費せず、神の恵みを実際の営みとして結実させる姿勢です。パウロの語調は容赦なく聞こえますが、その核心は「互いのために誠実であれ」という勧めにあります。

 そして福音書では、イエスが神殿の壮麗さに目を奪われる人々に、やがてすべてが崩れ去る時が来ると告げます。国と国は争い、社会は揺らぎ、人々の心もまた不安に巻き込まれる。現代の私たちにも重く響く言葉です。高市政権の下で巨額の財政支出が議論されている今も、私たちの生活は決して安定しているとは言い難い。物価の重圧、不安定な雇用、災害の頻発、国際情勢の緊迫。物質的な支援が一時的に安心をもたらすとしても、主は「備えていなさい」と語ります。頼るべきは制度でも財源でもなく、揺るがぬ神のまなざしであり、そこから生まれる隣人への責任です。

 それでは、私たちは何を備えるのか。まず、主の民としての心を整えることです。マラキが語った「主に立ち返る」姿勢は、自己中心的な願望を捨て、弱い者の声を聞くことから始まります。財政支援が恵みとして機能するためには、受ける側と運用する側の双方に、正しさと誠実さが問われます。政策そのものが正義を生むのではなく、それをどう生かすかという人間の態度が正義を形づくるのです。

 次に、共同体としての働きを整えることです。パウロが示したように、信仰者が自らの務めを怠り、ただ誰かの働きを待っているだけでは、共同体は崩れていきます。主に選ばれた民は、待ちながら働く民です。与えられた賜物を生かし、困難のただ中で互いを支える人々がそこに立ち上がる時、来られる主を迎える道は確かに備えられます。

 最後に、福音の語る「恐れるな」の言葉を受け取ることです。イエスは、激動の現実が迫っても「あなたがたの忍耐によって、いのちは救われる」と語られました。忍耐とは、ただ耐え忍ぶことではありません。希望を手放さず歩み続ける力、隣人のために正義を求め続ける心、世界の痛みに目をそらさず向き合う勇気です。そこにこそ、神の国の光が、私たちの足もとにささやかに差し始めます。

 主の来臨を待つとは、未来に身を委ねて何もしないことではありません。むしろ、今の社会と現実のただ中で「主の民としてどう生きるか」を問われる、厳しくも恵みに満ちた召命です。私たちがここで共に祈り、共に働く時、神は私たちのわずかな行いを用いて、世界の片隅に確かな光を灯してくださいます。主が来られる道を、共に備えてまいりましょう。

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