聖霊降臨後第21主日 説教草稿「いのちを支える経済を」

聖霊降臨後第21主日 説教草稿「いのちを支える経済を」
【教会暦】
聖霊降臨後第21主日 2025年11月2日
【聖書日課】
旧約 イザヤ書1:10-20
使徒書 テサロニケの信徒への手紙二1:1-5,11-12
福音書 ルカによる福音書19:1-10
【本 文】
神の言葉は、時に社会の根幹を問います。イザヤ書の預言者は、形ばかりの礼拝を献げる民に向かって、「あなたたちの多くのいけにえを、わたしはうんざりしている」と厳しく告げました。血と香の煙が満ちる神殿で、人々は安堵していたでしょう。しかし主は言われます。「正義を学べ。虐げられた人を正しくさばけ。孤児のために正義を行い、やもめの訴えを弁護せよ。」そこに神が求める礼拝の真の姿が示されています。祈りも献金も、弱き者の声を聞かぬなら虚しいのです。
今日の福音書では、取税人ザアカイが登場します。人々から搾取していた彼は、イエスと出会い、心を揺さぶられました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」利得に生きていた男が、突然にいのちを分かち合う者へと変えられたのです。そのときイエスは言われました。「今日、この家に救いが来た。」救いとは、ただ魂の安堵ではなく、社会の関係を癒やす現実の出来事なのです。富が偏り、貧しさが広がるところに、神の国は成り立ちません。
いま、わたしたちの社会もまた、イザヤとザアカイの物語に照らされねばなりません。物価高が続き、弱き者の生活は限界にあります。にもかかわらず、日本銀行は0.5%の低金利を据え置き、6会合連続で利上げを見送りました。全国消費者物価指数は前年より2.9%上昇し、コメは49.2%、食料品全体で6.7%も上がっています。数字の背後にあるのは、疲弊した家計、削られた食卓、子どもの栄養の低下です。政策の議論は専門家の手に委ねられていますが、その結末を引き受けるのは生身の生活者です。神のまなざしは、そこにこそ注がれています。
経済を動かす者が「慎重さ」を盾に弱者を見過ごすとき、神は沈黙されません。イザヤは言いました。「わたしに顔を隠すな。」民の罪が大きくとも、主は立ち返る者を赦す方です。「たとえ罪が緋のように赤くとも、雪のように白くなる。」神の赦しは、悔い改める個人だけでなく、方向を誤った共同体にも注がれます。いま日本に必要なのは、経済の「悔い改め」です。利潤のための成長から、いのちを支える経済への回心です。日銀も政府も、過去の緩和策と成長神話から離れ、現実の苦しみに目を注がねばなりません。
テサロニケ書でパウロは言います。「あなたがたの信仰が成長し、互いの愛が増し加わっていることを、わたしたちは神に感謝しています。」信仰とは、理論ではなく、互いの支え合いの中で証しされるものです。教会は社会の経済政策を直接決めることはできません。しかし、神の前に立つ共同体として、「誰も見捨てられない社会」を求めて声を上げる責務があります。金融政策も政治も、神の子らの尊厳を支えるためにあるべきです。もしそれが権力や富の維持のために使われるなら、それは偶像礼拝にほかなりません。
信仰は、現実を直視する勇気を与えます。イエスはザアカイの家に入るとき、群衆の非難を恐れませんでした。「罪びとの家に行った」と囁かれても、彼は一人の人の回心のために歩みました。教会もまた、批判や無関心の中にあっても、弱者の側に立つ道を歩まねばなりません。高齢者、非正規雇用者、子育てに苦しむ家庭、障がいを抱える人々――彼らの声を社会に届けることが、教会の祈りの延長線上にあるのです。
日銀が金利を調整するのは、数字を操作するためではなく、いのちを守るためでなければなりません。政治が財政を動かすのは、権力の誇示のためではなく、共同体を支えるためでなければなりません。経済が人を支配するのではなく、人が経済を正義のもとに置くとき、神の国の徴が現れます。「わたしは犠牲ではなく、憐れみを求める」と主は言われました。その言葉を心に刻み、わたしたちは問われます。わたしは何を優先しているのか。どこに神を見るのか。
冬が迫るこの時、誰もが暖を取り、食卓を囲める国であるように。教会は祈りをもって行動を支え、信徒は生活の場で小さな正義を積み重ねましょう。公正な賃上げを求め、地域の支え合いを築き直し、声をあげる者に共に立ちましょう。神は、力ある者の計算ではなく、小さき者の嘆きを聞かれる方です。わたしたちはその神の民として、この世にあってもなお、「いのちを支える経済」を共に求め続けたいのです。
