聖霊降臨後第20主日 説教草稿「誇りか、真摯か」

聖霊降臨後第20主日 説教草稿「誇りか、真摯か」

【教会暦】
聖霊降臨後第20主日 2025年10月26日

【聖書日課】
旧約 エレミヤ書14:7-10,19-22
使徒書 テモテへの手紙二4:6-8,16-18
福音書 ルカによる福音書18:9-14

【本 文】
雨の止まぬ日々に、預言者エレミヤは民と共に嘆きました。「主よ、わたしたちの背きをゆるしてください。わたしたちはあなたに逆らいました。」干ばつと飢えに苦しむ民の祈りのなかで、彼は神の沈黙に耐えながらもなお、主の憐れみを信じて嘆願します。その声は、罪を認め、赦しを乞う人間の真摯さに満ちています。誇りではなく、へりくだりの祈りこそが、絶望の地に希望の泉を湧かせるのです。

今日の福音書は、ファリサイ派の人と取税人のたとえを伝えます。律法を守り、断食し、献金を欠かさぬファリサイ派の人は、自らの正しさを誇りつつ、罪人を蔑みます。取税人は遠くに立ち、胸を打ってただ「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。主イエスは言われます。「義とされて家に帰ったのは、この人である。」ここに、神の国の秩序の逆転が示されます。誇り高き者は退けられ、心砕かれた者が義とされる。神の義は、力でも功績でもなく、悔い改めのうちに宿るのです。

使徒パウロは晩年、「わたしは信仰を守り抜いた」と記しますが、それは勝利の叫びではなく、弱さの中にあった感謝の言葉でした。彼は孤独と不当な裁きを受けながらも、「主が共に立ってくださった」と告白します。そこにあるのは、自らを誇らず、ただ主の憐れみと導きに生かされる者の信仰です。誇りではなく、真摯。それがキリスト者の姿勢です。

今、この国の政治の言葉に、私たちは何を聞くでしょうか。「強い国家」「強い経済」。それは、力によって安定を得ようとする声です。しかし、力が力を呼ぶとき、弱い者はさらに押しやられます。貧しさのうちにある家庭、職を失った人、声を上げるすべをもたぬ移住者や障がい者、LGBTQの仲間たち――彼らの涙を忘れて、国家を誇ることができるでしょうか。エレミヤが告げたように、「主は、わたしたちを思い出してください。」この祈りは、誇りを沈め、真摯さを呼び覚ますための祈りです。

高市首相の所信表明で繰り返された「強い国」の語は、安倍政治の記憶を呼び起こしました。防衛費の倍増、増税への沈黙、格差への鈍感。そこには「神に頼らず、自らの力で守る」思考が色濃くあります。しかしエレミヤは警告します。「自らの足でさまよう民よ、それゆえ主はあなたを喜ばれない。」神を忘れ、自力の誇りに溺れる民への警鐘です。私たちは、軍備や経済を否定するためではなく、それらが人の尊厳を支えるものであるよう、絶えず問わねばなりません。国が人を守るためにあるのであって、人が国の威信を支えるためにあるのではないのです。

取税人の祈りを思い起こすとき、主イエスの視線がどこに注がれていたかを見失ってはなりません。社会の底辺に生き、罪人とされた人の心に、主は神の国の入口を見たのです。そこには、戦略も功績もありません。あるのはただ、赦しを求める一人の人間の涙と信頼だけです。もしこの国の政治が、誇りと競争を至上とし、弱さと悔い改めを軽んじるなら、私たちは取税人の祈りに立ち返らねばなりません。「神さま、罪人のわたしたちを憐れんでください。」その祈りは、政治批判を超えて、社会全体の魂を回復する始まりとなるのです。

パウロは「わたしは善き戦いを戦い抜いた」と言いました。しかし彼が戦ったのは、敵ではなく、自らの傲慢との戦いでした。信仰とは、他者を屈服させる力ではなく、共に立ち上がる勇気です。教会は、この信仰の戦いに召されています。国のために祈ることは、為政者の誇りを称えることではなく、人々の命と平和を守るために権力を戒めることです。主の民は、祈りと行動によって「平和をつくる人」となるよう招かれています。

主の食卓にあずかるとき、私たちは思い出します。神の国は力によって築かれるのではなく、裂かれたパンと注がれた杯のうちに始まるのだと。そこでは、貧しい者も富む者も、為政者も市井の民も、等しく赦され、共に生かされます。国家の誇りが高まる時代にあっても、教会は真摯に祈り続けます。「主よ、この国に憐れみを。あなたの真理と平和を、わたしたちのうちに満たしてください。」

私たちは誇りではなく真摯を選ぶ。力ではなく憐れみを。分断ではなく和解を。主イエスの十字架が示す道は、常にその方向を指しています。今日もまた、主は語られます。「へりくだる者は高められる」と。

アーメン。

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