聖霊降臨後第19主日 説教草稿「声なき者が聞かれ、見えない闘いに神が応える」

【教会暦】
聖霊降臨後第19主日 2025年10月19日

【聖書日課】
旧約 創世記32:3-8,22-30
使徒書 テモテへの手紙二3:14-4:5
福音書 ルカによる福音書18:1-8

【本文】
夜の闇には、人の耳には届かない叫びがある。SNSやネット空間での誹謗中傷、民族や性的少数者への差別、立場の弱い者への暴力的言葉。法務省が初めて「オンライン上のヘイトスピーチ」に関する全国調査を進めようとしているという報道があった。匿名の影に潜む言葉の棘は、見えぬまま人を傷つける。声を上げれば叩かれ、沈黙すれば消される。だが、聖書は語る――神は沈黙の奥に耳を傾けておられると。

ヤコブはその夜、兄エサウに再び会う前の恐れの中にあった。過去の罪、欺き、逃走――それらが彼の心を縛っていた。彼はヤボクの渡しで独り、暗闇の中で何者かと格闘する。夜明けまで離れず、祝福を求めて叫ぶ。「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」。その執念こそが彼を変えた。神は言われる。「おまえの名は、もはやヤコブではなくイスラエル。おまえは神と人とに闘って勝った」。彼は傷を負い、足を引きずりながらも、朝の光の中へと歩み出す。

この物語は、人が神と向き合うときの真実を映している。神との格闘は、他者との和解の始まりであり、恐れを抱えた自己との和解でもある。神の祝福は、逃避の先にはなく、闘いと涙の中に見いだされる。信仰とは、痛みを避けず、神に問い続ける勇気だ。

福音書のやもめの女もまた、沈黙の中で闘っていた。彼女は不正な裁判官のもとに通い詰め、正しい裁きを求めた。社会的に最も弱い立場にありながら、彼女は諦めなかった。裁判官は神を畏れず、人を人とも思わなかったが、女の粘りに折れて彼女の訴えを聞き入れた。主イエスはこの譬えを通して、「昼も夜も叫び求める人々のために、神は正しい裁きを行われる」と言われた。

神の正義は、すぐには現れないかもしれない。だが、見えないところで働き続けている。やもめの祈りは、社会の片隅で声を奪われた人々の祈りでもある。差別に苦しむ人、誹謗に晒される人、孤立し、希望を見失う人。彼らの叫びは、神の御心に届いている。問題は、私たちがその声を聴いているかどうかである。

使徒パウロはテモテに言う。「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、励まし、戒め、教えなさい」。教会が沈黙するとき、世界の闇は増す。正義を語ることが嘲笑され、偽りが真理のように語られる時代にあっても、教会は福音の光を掲げる召命を負っている。信仰とは、神が遅いと感じる時にも、なお祈り続け、希望を手放さないこと。

今日、オンライン空間や現実社会で、誰かが心の中で叫んでいる。「助けて」と。その声は届かないように見えるが、神はそれを聞かれる。だからこそ、教会は「聞く共同体」でありたい。意見の異なる人を排除せず、痛みを語る人に耳を傾け、沈黙のうめきに寄り添う。それが、祈り続ける共同体の姿である。

祈りは単なる言葉ではなく、神との対話の持続である。ヤコブの闘いも、やもめの訴えも、祈りのかたちをしていた。そこには「答えを得る」よりも、「神とつながり続ける」ことの真実がある。信仰者の忍耐とは、応答が遅れても、神が沈黙しているように見えても、なお神の義を信じ続ける力である。

ペヌエルの夜が明けたとき、ヤコブは新しい名を与えられた。傷を負っても、彼は神の顔を見て生きた。その名は、闘いの印であり、祝福の徴である。教会もまた、傷を負いながら歩む群れである。けれどその傷こそ、神と格闘した証であり、他者の痛みを担う資格である。

主は言われた。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるだろうか」。それは、他人ごとではなく、私たちへの問いかけである。祈りを続ける教会、沈黙の声に耳を傾ける共同体、その中にこそ、神の正義は現れる。

見えない闘いの中に神はおられ、声なき者のうめきの中に福音は響く。祈り続ける民として、私たちもまた立ち上がろう。声を上げ、耳を傾け、隣人の痛みに応える。そこに、神の国の光が差し込み始める。

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