(見解)日本監督派キリスト教会の「監督派」主張をめぐって

2025年10月11日
自由と友愛の独立聖公会
(見解)日本監督派キリスト教会の「監督派」主張をめぐって――使徒的継承と公同的一致を欠いた制度構成上の矛盾について
【はじめに】
本見解は、2025年9月4日に離籍した元伝道師(信徒奉仕職)・溝田悟士氏が主宰する「日本監督派キリスト教会」(同年9月29日設立)の近時の発表内容を確認し、その制度的および神学的構成を検討したものである。
同教会の主張はこのところ、キリスト教諸教派の間に少なからぬ波紋と混乱を生じさせており、教会制度の基本理解に関する整理と明確化が求められている。
本見解は、公開情報に基づく制度的・神学的分析として、監督制の本質的理解を提示し、教会的秩序の正確な把握を助けることを目的とする。いかなる個人や団体を非難・攻撃する意図を含むものではない。
Ⅰ 監督制の神学的意義
監督制(Episcopal polity)とは、使徒的継承を受けた監督(bishop)が、公に承認された信仰告白と祈祷書に基づき、司祭および執事を按手して教会の秩序を保持する制度的構造である。
それは単なる職制上の階層配置ではなく、教会の霊的連続性と公同性(catholicity)を具現する根幹的制度である。この伝統は、カトリック教会、正教会、聖公会、ならびにそれらと使徒的継承を共有する諸教会に共通する。
ゆえに、使徒的継承を欠いた段階で「監督制」と称することは、神学的にも教会法的にも成立しない。監督制の正統性は、監督職が使徒的系譜に連なり、公同的一致の交わりのうちに奉仕することによってのみ保証される。
Ⅱ 「聖公会ではない監督派」という自己定義の矛盾
日本監督派キリスト教会は、自らを「聖公会ではない」と明言しつつ、「監督派(Episcopal)」を称している。しかし、この自己定義は教会学的に看過できない構造的矛盾を内包している。
監督制とは、単に「監督」という称号を持つ指導者が存在することを意味しない。その監督が使徒的継承の中に立ち、公同的一致の下で聖務を執行することによってのみ、監督制は成立する。
したがって、他の監督制諸教会との交わりを欠き、使徒的継承の系譜を確認し得ない場合、その監督職は神学的にも教会法的にも有効とは認められない。「聖公会ではない」との明言は、名称上の独立を超え、監督制の基盤である公同的一致を否定する行為に等しい。
結果として、「聖公会ではない監督派」という呼称は、監督制の形式を模倣しつつ、その神学的実体を欠く制度的自己矛盾に帰する。
Ⅲ 按手に関する不整合
監督制を採る教会においては、聖職の按手および任職に際し、厳格な教会法的審査と、召命・訓練・奉仕を経たうえでの長期的識別の過程が不可欠である。この過程は、単に能力を確認するものではなく、信仰共同体が霊的に召命を認め、教会的責任を委託する行為として位置づけられる。
監督制における按手は、単なる儀礼ではなく、共同体の信仰的承認と、使徒的継承の霊的連続性の中で行われる秘跡的行為である。したがって、執事・司祭・監督(bishop)という位階を順序正しく経ることは、慣例ではなく、神学的および制度的整合性を支える根幹的原則である。
ところが、当該の氏は、2025年9月4日まで「伝道師(信徒奉仕職)」として奉仕していたにもかかわらず、わずか数週間後には自らを「監督(bishop)」と称し、さらに「神父」を名乗るに至った。
この経緯は、監督制を採る教会における聖職位階の秩序および叙任の神学的重みを根本的に逸脱するものであり、正統な按手の有無が明確でないまま称号を用いることは、教会法上も神学上も重大な不整合を生じさせる。
一般に、使徒的継承を保持する教会においては、教会法上の資格を有しない者を聖職に按手することはない。すなわち、所定の執事・司祭の聖務を経ずして「監督」に按手されること、あるいは執事を経ずして「長老」とされることは、制度的にも神学的にも整合性を欠く。
さらに、当該教会の主宰者による按手の説明は時期によって変化しており、当初は「一切公表しない」としていたが、その後「3名の長老」、さらには「聖公会系の福音派牧師・JECAの牧師・バプテストの牧師」と説明している。しかし、この説明には用語・制度・神学の整合性が見出し難い。「長老」は本来「長老制(Presbyterian polity)」に属する語であり、監督制とは統治原理を異にする。
また、複数の教派に属する個人の協働によって行われた按手は、いずれの制度においても正統な聖職按手とは認められない。監督制における按手の正統性は、個人の意志や教派横断的な協力によってではなく、連続した使徒的系譜(apostolic succession)によってのみ保証される。
Ⅳ 新興的疑似監督制
「監督派」という語は、監督という称号を用いること自体を意味しない。それは、監督職の正統性・祈祷書の公性・教会法の整合性という三要素が相互に支え合うことによってのみ成立する。
したがって、「聖公会ではない監督派」という自己定義は、使徒的継承と公同的一致を否定しながら、その語彙と外形のみを援用する構成的矛盾である。その実体は、伝統的監督制との交わりを持たず、使徒的継承の確認を欠く新興的疑似監督制とみなすほかない。
この「疑似監督制」とは、監督制の語彙や儀礼的外形を模倣しながらも、監督職の教会的承認と使徒的継承の連続性を欠くため、神学的にも教会学的にも監督制とは認められない構造を指す。
監督制を理解するすべての教会において、この混同は避けるべき神学的誤謬である。
【結 語】
監督制とは、信仰告白・使徒的継承・典礼秩序の三要素が有機的に連続して初めて成立する。この連続を欠いた時点で、「監督派」と称しても、それは名称のみを残す制度にすぎない。
したがって、日本監督派キリスト教会が掲げる「聖公会ではない監督派」という立場は、神学的にも教会法的にも成立し得ず、監督制を名乗る根拠を欠く構成的誤りである。
【本見解の立場】
本見解は、「日本監督派キリスト教会」およびその主宰者と、いかなる組織的・礼拝的・教義的関係も有していない。
同教会が主張する監督制は、使徒的継承と公同的一致を欠いた新興的疑似監督制に属し、正統な監督制の理解および実践とは本質的に異なる。それは、使徒的継承に立脚して秩序と奉仕を保つ監督制諸教会とは、その神学的基盤および教会的本質において明確に異質のものである。
【公表の趣旨】
本見解は、監督制の理解をめぐる神学的混乱を避け、信徒および関係各位が制度と信仰の正確な区別を保持できるよう、教会的秩序の原理を明示するために公表するものである。
2025年10月11日
※本見解は、公開情報および一般的神学概念の分析に基づくものであり、特定の個人または団体の名誉を損なう目的は一切含まれない。