聖霊降臨後 第十三主日 説教草稿「選び取る自由と責任 ― 分断と排除を超えるために」

【教会暦】
聖霊降臨後 第十三主日(特定十八) 二〇二五年九月七日
【聖書箇所】
旧約日課:申命記 三〇章一五〜二〇節
使徒書 :フィレモンへの手紙 一章一〜二〇節
福音書 :ルカによる福音書 一四章二五〜三三節
【本文】
はじめに 選び取る自由と責任を問われる時
九月の初め、夏の暑さはなお残りながらも、朝晩にはようやく涼しさの気配が漂い始める。台風の襲来が続き、豪雨による被害が各地で報じられるなかで、自然の厳しさと共に生きる現実を思わされる時期である。季節の移ろいは、人間の力では制御できない大きな流れを示す。同時に、その中で私たちが日々行う小さな選びの積み重ねが、未来を形づくっていくこともまた確かである。
本主日、聖霊降臨後第十三主日の聖書箇所は、「選び取る自由と責任」という主題を私たちに突きつける。旧約の日課である申命記三〇章は、ヨルダン川を前にしたイスラエルの民に「命と死、祝福と呪い」を置き、「命を選びなさい」と迫る。使徒書のフィレモンへの手紙は、奴隷オネシモを「もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として」受け入れるようにとパウロが訴える。そして福音書のルカによる福音書一四章は、イエスが群衆に向かって「自分の十字架を背負って従わない者は、わたしの弟子ではありえない」と語る場面である。
三つの聖書箇所に共通するのは、自由が決して自己中心的な放縦ではなく、責任と結びついた選びであるということである。命を選ぶとは、未来の世代の命をも守る責任を引き受けること。兄弟として受け入れるとは、分断や差別を超えて他者を迎え入れること。十字架を担うとは、共生の困難を背負う覚悟を持つこと。
現代社会に目を向けると、この選びがいかに切実であるかを痛感させられる。気候危機は人類の存続を脅かし、格差の拡大は人々を分断し、移民や難民をめぐる緊張は排除の声を高めている。自由の名の下に排除を正当化する風潮が広がる中で、聖書が示す「自由」は責任を伴う選びであることを改めて心に刻む必要がある。
この説教では、三つの聖書箇所を手がかりに、選び取る自由と責任の意味を探りたい。それは決して容易な道ではない。むしろ犠牲と痛みを伴う道である。しかし、その道を歩むことこそが命を選び、分断と排除を超えて神の国の希望を生きることにつながる。
Ⅰ節 命を選ぶ自由 ― 申命記の岐路に立つ人間
一.荒野を抜けて辿り着いた境界
申命記三〇章は、イスラエルの民が約束の地を目前にした場面で語られる。長い放浪の果てに、民はヨルダン川を前に立ち尽くす。荒野の記憶が彼らの背後にあり、未来への期待と不安が胸を満たす。モーセはその境界において、「見よ、私は今日、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く」(申命記三〇章一五節)と語りかける。
荒野を旅した世代は、自由を与えられながらもしばしば偶像に惹かれ、神への信頼を失った。彼らの歩みは、自由の危うさを物語る。自由は贈り物であると同時に、責任を伴う課題である。だからこそモーセは「命を選びなさい」(同一九節)と迫る。この選びは抽象的理念ではなく、生死にかかわる現実的選択だった。
二.「選び取る自由」の本質
ここで語られる「自由」は、近代社会で語られる自己中心的な自由とは異なる。申命記の自由は、神の律法と共同体に結ばれた生の在り方を指す。命を選ぶとは、神の言葉に聞き従い、共同体と共に生きる道を選ぶことだ。逆に、欲望の赴くまま偶像に仕える選択は、やがて死と滅びに至る。
この古代イスラエルの言葉は、現代にも鋭く突き刺さる。私たちは日々、数えきれない選択をしている。だが、その多くは利便や利益を優先した短絡的なものに流されがちだ。モーセの言葉は、人間が根源的に問われている選択――命に生きるか、死に傾くか――を明らかにする。
三.現代日本における「岐路」
今、日本社会もまた大きな岐路に立っている。人口減少と格差拡大、気候危機、移民・難民をめぐる緊張。これらの課題に直面する私たちは、「誰と共に生きるか」を問われている。たとえば、経済の効率を優先するあまり、弱い立場の人々を切り捨てる政策を選ぶのか。それとも、困難を分かち合い、誰も排除しない共同体を選ぶのか。
モーセの呼びかけは単純に「個人の幸福」を選ぶことではない。それは、共同体の未来を決定する選択である。命を選ぶとは、隣人の命をも大切にし、共同体が共に生き延びる道を選ぶことに他ならない。
四.気候と命の選択
この夏、日本列島は記録的な酷暑に見舞われた。各地で農作物が枯れ、豪雨による被害も続発している。地球温暖化の現実は、日々の生活を脅かすところまで来ている。こうした状況の中で、「命を選ぶ」とは環境を守り、次の世代の生存を確保する選択を意味する。
申命記が語る「祝福」は単なる繁栄ではなく、土地が豊かに実り、人々が共に長く生きることを指す。逆に「呪い」は、土地が荒廃し、共同体が分裂することだ。地球規模の環境危機に直面する現代の私たちは、この古代の警告を軽んじることはできない。
五.自由と責任の結合
近代社会はしばしば「自由」を無制約の自己決定と捉えてきた。しかし申命記の自由は、責任と切り離せない。命を選ぶ自由は、神の掟に従う責任を含み、隣人の命を顧みる義務を伴う。自由と責任の結合こそ、聖書が示す選びの本質である。
この視点から現代社会を見るとき、自由を強調しつつ責任を忘れる風潮が浮かび上がる。経済的成功を追い求めるあまり、格差を放置する。安全を優先するあまり、移民や難民を排除する。これらはすべて「自由」の誤用であり、命を蝕む「死の道」へと向かわせる。
六.「命を選ぶ」決断の重み
モーセは民に「あなたもその子孫も生きるために、命を選びなさい」と呼びかけた(申命記三〇章一九節)。この言葉は未来への責任を含んでいる。命を選ぶとは、次の世代に生きる道を手渡す決断である。
現代社会に生きる私たちもまた、同じ責任を負っている。教育、環境、社会制度――そのすべては次世代の命と密接に関わる。今の快適さや利益を優先し、未来を犠牲にする選択は「死の道」に等しい。逆に、負担や犠牲を受け入れても、未来を守る選択こそ「命の道」である。
七.申命記の呼びかけを受けて
「命を選ぶ」という呼びかけは、個人の内面にとどまらない。社会全体に響く問いである。排除ではなく包摂を、分断ではなく共生を選ぶこと。それは簡単な道ではない。むしろ困難で、犠牲を伴う。しかし、その道こそ祝福の道である。
モーセの声は時を超えて響く。「命を選びなさい」。この呼びかけを私たちはどう応えるのか。岐路に立つ現代社会において、その選択はかつてなく切実である。
Ⅱ節 兄弟として受け入れる自由 ― フィレモン書における和解の選択
一.短い手紙の中の深い訴え
パウロがフィレモンに宛てた手紙は、新約聖書の中でも最も短いものの一つである。だが、その短い文の中には、初代教会が直面した根本的な課題――人間関係の和解と新しい共同体の形成――が凝縮されている。奴隷オネシモをどう受け入れるかという問題は、単なる個人間の調停にとどまらない。社会的身分の壁を越えることが、福音に生きる者の責任であることを示している。
二.パウロの言葉の転換
「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟として受け入れてほしい」(フィレモンへの手紙一六節)。この言葉は、当時の社会秩序を根本から揺るがすものであった。ローマ社会では奴隷制が経済と生活を支える基盤だった。奴隷は財産として扱われ、所有者の意志に従属する存在とされた。その秩序にパウロは正面から異議を唱えてはいない。だが、キリストにおける「兄弟」として受け入れることを求めることで、奴隷を単なる「物」ではなく、人格と尊厳を持つ者として認める新しい視座を開いた。
三.和解の自由
ここに示される自由は、社会的立場を無視する放縦ではない。むしろ、自らの権利を主張することを抑え、相手を受け入れることによって生まれる自由である。フィレモンがオネシモを「兄弟」として受け入れるなら、それは彼自身が従来の支配者の立場を超えた自由を生きることになる。
現代社会でも、和解の自由は容易ではない。差別や偏見、格差の壁は依然として厚い。移民や難民を「負担」として排除するか、それとも「兄弟姉妹」として受け入れるか。そこにこそ、申命記の「命を選ぶ」問いが重なる。
四.分断を超える責任
いま日本社会では、外国人労働者や難民の受け入れをめぐって激しい議論がある。労働力不足を補うためには受け入れる必要があると語られながらも、制度は不安定で、差別や排除の声も根強い。オネシモを兄弟として迎えるよう求めたパウロの言葉は、この現実に鋭く響く。彼の訴えは単なる感情的同情ではなく、キリストの体としての教会を形づくる責任から生まれていた。
「彼はわたしの心そのものです」(一二節)。パウロがそう書いたとき、オネシモの存在はもはや個別の問題ではなく、共同体全体の命に関わるものとされていた。今日の私たちにとっても、社会的弱者の運命は個々人の問題ではなく、社会全体の命に関わる責任である。
五.愛の選択としての自由
パウロはフィレモンに命令するのではなく、愛に基づく自由な選びを促す。「強いてではなく、自発的な善意によって」(一四節)。ここに自由と責任の深い関係が見える。強制ではなく、自ら選び取る愛。それが真の自由である。
現代社会においても、排除の論理はしばしば「安全」や「秩序」を口実に正当化される。しかし、愛に基づく受け入れを選び取るとき、社会は初めて命の共同体となる。自由は責任を避ける免罪符ではなく、むしろ愛を実践する責任を伴う。
六.「兄弟」としての新しい関係
パウロの手紙は短く終わるが、その余韻は長く続く。オネシモとフィレモンがその後どうなったかは聖書に記されていない。だが、教会の伝承はオネシモが後に教会の指導者となったと語る。この伝承が史実かどうかを超えて、重要なのは「兄弟として受け入れる」という選択が共同体の未来を開くという事実である。
同じように、私たちが移民や難民を兄弟姉妹として迎え入れるかどうかは、日本社会の未来を決定づける。経済の都合だけでなく、共に生きる共同体を築く責任が問われている。
七.和解の選択を迫られる私たち
フィレモンへの手紙は、現代においてもなお挑戦的な声を発している。分断と排除が強まる時代に、私たちは「兄弟として受け入れる」自由を選び取れるか。パウロが求めたのは、強制ではなく自発的な選びであった。その選びが共同体を新しくし、命を育む。
和解は困難であり、時に痛みを伴う。だが、それを選ぶことが、申命記の「命を選ぶ」呼びかけに応える道である。そして、現代の弟子たちに課せられた自由と責任の核心でもある。
Ⅲ節 弟子として従う自由 ― ルカ福音書における自己放棄の責任
一.イエスに従うという重さ
ルカによる福音書一四章二五~三三節は、大勢の群衆がイエスに従っていた場面から始まる。人々は奇跡や教えに魅了され、イエスを取り巻く。だが、イエスは彼らに厳しい言葉を告げる。「自分の父母、妻子、兄弟姉妹、さらに自分の命であろうと、それを憎まない者は、わたしの弟子ではありえない」(二六節)。表現は苛烈で、私たちの心に強い衝撃を与える。
ここで語られる「憎む」とは、実際に家族を否定することではなく、神の国のためにはあらゆる関係や所有よりも優先して従う覚悟を意味する。イエスは、弟子となることが中途半端な好意や一時の興味で成り立たないことを明確にする。
二.十字架を担う自由
「自分の十字架を背負って従わない者は、わたしの弟子ではありえない」(二七節)。イエスは弟子の条件として、十字架を担うことを語る。十字架は苦難や犠牲の象徴であるが、同時に神の国に生きる者の自由の象徴でもある。
十字架を担うとは、他者のために自己中心を放棄する自由を選ぶことだ。自分の権利や利益を優先するのではなく、愛のゆえに犠牲を受け入れる自由。そこにこそ、福音が告げる逆説的な自由がある。
三.塔と戦いの譬え
イエスはさらに譬えを用いて説明する。塔を建てる人は、完成までの費用を計算する。王は戦いを始める前に、勝てるかどうかを考える。同じように、弟子になるには覚悟が求められる。軽々しい約束ではなく、全存在をかける決断だ。
この譬えは現代にも通じる。社会の課題に取り組むとき、安易な理想だけではなく、犠牲と困難を引き受ける覚悟が必要だ。排除の声に抗して共生を選ぶ道は、しばしば不人気であり、孤立を招く。しかし、それでも歩む覚悟を持つことが、弟子としての責任である。
四.「捨てる」ことの意味
「自分の持ち物を一切捨てないなら、わたしの弟子ではありえない」(三三節)。イエスのこの言葉は、財産や地位を絶対化する価値観への挑戦である。持ち物にしがみつく心は、結局は他者を排除し、分断を深める。逆に、捨てる自由を選ぶとき、人は所有から解き放たれ、隣人を迎える空間を持つことができる。
五.現代社会への問いかけ
現代日本においても、弟子としての自由は問われている。格差や不平等が広がり、経済的安定を守ることが最優先される中で、「持ち物を捨てる」ことは非現実的に聞こえる。しかし、資源や富の分配を見直し、社会的弱者に手を差し伸べることは、まさに所有から解き放たれる実践である。
移民や難民の受け入れを考えるときも同じだ。自国の安全や経済的利益を優先するあまり、排除の選択をするのか。それとも、負担を担いながら共に生きる道を選ぶのか。弟子としての自由は、後者の道にこそある。
六.覚悟としての従順
弟子として従うことは、必ずしも成功や栄光を意味しない。むしろ損失や批判を受けることの方が多い。それでも従うのは、命を選び、兄弟として受け入れる自由を生きるためである。申命記とフィレモン書が示した自由の責任は、ルカ福音書において「自己放棄と覚悟」という形で結実する。
七.従う道の先にある希望
イエスは群衆に厳しい言葉を告げたが、それは人を突き放すためではない。むしろ、本当に自由な弟子として歩ませるためだった。自己中心を捨て、他者を迎え入れる責任を担うとき、そこに神の国の希望が開かれる。
従う自由は束縛ではなく、むしろ人間を解放する。十字架を担う道は苦しいが、その先には復活の命が待っている。だからこそ、弟子としての覚悟は、単なる義務ではなく、希望に満ちた自由の選択なのである。
Ⅳ節 分断と排除の現実 ― 現代社会における自由の誤用
一.社会に広がる「見えない境界」
今日の世界を見渡すとき、分断と排除の現実があまりにも明白である。国境に壁が築かれ、移民や難民の流入を阻もうとする動きが強まっている。日本においても、外国人技能実習制度の下で働く人々が劣悪な環境に置かれ、また難民認定率が極端に低いことは周知の事実である。表面上は「法と秩序」を守るという大義名分が語られるが、実際には人間の尊厳よりも経済的効率や政治的都合が優先されている。
このような現実は、自由を誤用した結果にほかならない。自己中心的な「自由」が強調されるとき、他者を犠牲にする選択が正当化され、社会に見えない境界線が引かれる。
二.格差の拡大と孤立
経済的格差もまた、分断を深める要因である。東京の高層ビル群の輝きの陰で、非正規雇用や低賃金で働く人々が増え、生活の不安に晒されている。教育や医療へのアクセスにも格差が広がり、未来への希望が断たれていく。こうした現実は「自己責任」の名の下に放置されがちだ。
自由競争は成長を生むと称されるが、その背後で多くの人が排除され、孤立している。モーセが語った「死と滅びの道」が、現代社会に再び現れているように思われる。
三.分断をあおる言葉
近年、政治やメディアにおいて「排除」を正当化する言葉が繰り返し使われている。「国民を守るため」「秩序を維持するため」という言葉は一見もっともらしいが、その実、他者を切り捨てるための方便になっている。こうした言葉の洪水は、人々の心に恐れを植え付け、互いを敵視する空気を醸成する。
だが聖書は、人間を恐れによってではなく、愛によって結び合わせる。フィレモンへの手紙が「兄弟として受け入れよ」と呼びかけたように、恐れではなく信頼に基づく関係こそが共同体を生かす。
四.気候危機と新たな分断
気候変動の進行は、さらに新しい分断を生み出している。豪雨や猛暑の被害は、しばしば社会的弱者に集中する。十分な避難手段を持たない人々や農業に依存する地域が、真っ先に犠牲を強いられる。国際的にも、気候変動による被害が南の国々に偏り、先進国と途上国との不公平が拡大している。
「命を選ぶ」ことは、環境政策においても切実な課題である。だが現実には、短期的な利益を優先し、未来の命を犠牲にする選択が繰り返されている。これもまた「自由」の誤用であり、共同体を死に追いやる道である。
五.自由の名を借りた排除
現代の社会において、「自由」という言葉はしばしば誤って用いられている。マスクを着けない自由、税を払わない自由、他者を拒む自由――そうした主張は一見「権利」のように聞こえるが、実際には共同体を破壊し、弱者を犠牲にする口実となっている。
申命記の自由はそのようなものではなかった。モーセは「命を選べ」と言い、パウロは「兄弟として受け入れよ」と訴え、イエスは「十字架を担え」と迫った。これらはいずれも、自由を責任と結びつける呼びかけである。
六.教会に問われること
このような分断と排除の現実の中で、教会は何を選ぶのか。自由の誤用に迎合し、社会の空気に流されるのか。それとも、命と愛を選び取る責任を担うのか。
「分断を超える」とは、単に融和的な妥協を意味しない。むしろ、犠牲を伴ってでも他者を迎え入れる覚悟を持つことだ。フィレモンがオネシモを兄弟として受け入れるように、教会は社会の中で排除される人々を兄弟姉妹として迎え入れる責任を負っている。
七.現代の「命の道」
分断と排除の現実に対して、聖書が示す道は一貫している。命を選ぶこと。兄弟として受け入れること。自己を放棄して従うこと。これらの選びは容易ではないが、そこにこそ祝福の道がある。
現代社会においても、この道を選ぶかどうかが問われている。経済の効率か、人間の尊厳か。排除の安易さか、共生の困難さか。私たちはいま、再び岐路に立たされている。
Ⅴ節 命を選ぶ責任と共同体の希望 ― 三つの聖書の響き合い
一.申命記の岐路と現代の選択
「命を選べ」というモーセの呼びかけは、個人の内面的決断を超えて、共同体全体の未来を形づくる選びであった。イスラエルが約束の地を目前にしたとき、その選択は共同体の存亡にかかわっていた。同じように、現代社会もまた重大な岐路に立っている。環境危機、格差、移民・難民をめぐる課題はすべて「命を守るのか、それとも犠牲にするのか」という根源的な問いに帰着する。
二.フィレモン書の和解と新しい関係
パウロがフィレモンに促した選びは、オネシモを「奴隷」として扱うのか、それとも「兄弟」として迎えるのかという具体的な決断だった。そこには、共同体の新しい在り方がかかっていた。オネシモを兄弟とすることで、教会は単なる宗教集団ではなく、分断を越えて結ばれる共同体となる。和解の選びは個人の心情を超えて、共同体を新しく創り変える力を持つ。
三.ルカ福音書の覚悟と自由
イエスが語ったのは、弟子として従うために必要な自己放棄の覚悟だった。家族や財産にしがみつくことをやめ、十字架を担う自由を選ぶこと。それは人間的計算を超えた選びであり、容易ではない。しかし、そこにこそ神の国の自由と希望が開かれる。弟子の道は犠牲を伴うが、それは人を解放する道でもある。
四.三つの声の響き合い
申命記は「命を選べ」と迫り、フィレモン書は「兄弟として受け入れよ」と訴え、ルカ福音書は「十字架を担え」と呼びかける。三つの言葉は、それぞれ異なる状況の中で語られたにもかかわらず、共通の方向を示している。すなわち、自己中心の自由を超え、他者を受け入れる責任を伴った自由を生きること。この三つの声が響き合うとき、自由と責任の一体性が鮮やかに浮かび上がる。
五.現代社会への応答
現代の分断と排除の現実に直面する私たちは、三つの声にどう応えるのか。命を選ぶとは、環境を守り、次の世代に未来を手渡す選びである。兄弟として受け入れるとは、移民や難民を共に生きる仲間として迎える責任を負うことである。十字架を担うとは、共生の困難を背負う覚悟を持つことである。
これらは容易な選びではない。むしろ痛みと犠牲を伴う。しかし、その困難を担うときにこそ、共同体は新しい希望を見いだす。
六.教会の使命としての自由
日本社会の中で教会は小さな存在であり、しばしば声がかき消される。それでもなお、教会には証しの使命がある。自由の誤用に抗し、命を選ぶ責任を語り続ける使命である。教会が小さくとも、そこでなされる祈りと証しは、社会における希望のしるしとなりうる。
七.希望を開く自由
自由とは、他者を拒むための権利ではなく、他者を迎え入れるための責任である。その責任を担うとき、人間は本当に自由になる。命を選び、兄弟を受け入れ、十字架を担う――その選びの連なりが、分断を越える共同体を形づくる。そしてそこに、神の国の希望がかすかに輝く。
Ⅵ節 現代における弟子の道 ― 自由と責任を生きる実践
一.抽象から具体へ
聖書が語る「命を選ぶ」「兄弟として受け入れる」「十字架を担う」という呼びかけは、単なる理念にとどまらない。むしろ、日々の生活の中で選び取られる実践的課題である。もしこれらが抽象的な言葉に留まれば、現実の分断や排除に抗う力を持たない。だからこそ、現代に生きる弟子の道は、具体的な実践へと結びつかなければならない。
二.家庭における選び
自由と責任の実践は、まず家庭から始まる。家族の中で弱さを抱えた者にどう接するか。高齢者の介護、障がいを持つ子ども、経済的に困難な状況にある家族。そこで「命を選ぶ」とは、効率や利便ではなく、共に生きる道を選ぶことだ。愛をもって担うことは時に重荷だが、その重荷を引き受けるとき、家庭は小さな教会のように変えられる。
三.地域社会での責任
地域においても、自由と責任は問われている。災害時の避難所で外国人住民が孤立することがある。言葉や文化の壁のゆえに支援が届かない現実がある。そこに「兄弟姉妹」として迎え入れる責任を果たすことは、弟子の実践である。単なる「善意」ではなく、制度や仕組みを整え、誰もが共に生きられる社会を形づくること。それが「命を選ぶ」地域の姿だ。
四.職場や学校での証し
現代社会において、分断と排除は職場や学校にも存在する。非正規雇用の不安、過労死、いじめや差別。これらの現実に沈黙せず、声を上げることは勇気を要する。しかし、弟子の道は沈黙を選ばない。小さな声であっても、真理を語ることは十字架を担う実践である。その声は、孤立した人にとって大きな慰めと支えとなる。
五.国際社会における責任
気候変動、戦争、移民・難民の危機は、国境を越えて人類全体に迫っている。日本もその一部として責任を担っている。エネルギー政策や外交姿勢、難民受け入れの判断――それらすべてが「命を選ぶ」か否かを問われている。国際社会の一員として、他国の犠牲の上に成り立つ繁栄を拒むこと。それもまた弟子の道である。
六.教会共同体の実践
教会は、この自由と責任を具体的に体現する場でなければならない。礼拝はただの儀式ではなく、「命を選ぶ」決断を繰り返し確認する場である。聖餐は、分断を超えて一つのパンを分け合う行為であり、そこにすでに「兄弟として受け入れる」共同体が形づくられている。説教と祈りは、十字架を担う覚悟を新たにする時である。
七.小さな実践から広がる希望
弟子の道は壮大な理想から始まるのではなく、小さな実践から始まる。日常の中で排除ではなく受け入れを選ぶこと。孤立した人に声をかけること。環境に優しい選択をすること。そうした小さな選びが積み重なるとき、社会は確かに変わっていく。
聖書が語る自由と責任は、抽象的な理想論ではない。むしろ、日々の小さな行為を通じて現実化されるものである。その積み重ねが分断を超える共同体を築き、神の国のしるしを現す。
Ⅶ節 弟子の自由と責任の神学的統合
一.三つの聖書が示す道
申命記、フィレモン書、ルカ福音書――これら三つの聖書箇所は、互いに異なる時代と背景を持ちながらも、共通の方向を指し示している。モーセは「命を選べ」と迫り、パウロは「兄弟として受け入れよ」と訴え、イエスは「十字架を担え」と呼びかけた。いずれも自由を語りながら、責任と不可分に結びついている。自由とは孤立した個人の特権ではなく、共同体と隣人を生かすための召命である。
二.自由と責任の逆説
現代社会においては、自由と責任はしばしば対立するものと考えられる。だが聖書の視点では、両者は矛盾しない。むしろ責任を引き受けるときにこそ、人は真の自由に至る。オネシモを兄弟として受け入れる選びは、フィレモンにとって重荷であったかもしれない。しかし、その重荷を担うとき彼は所有から解放され、愛に生きる自由を得た。同様に、十字架を担うことは束縛ではなく、神に従う自由の現れである。
三.共同体における自由
自由は孤立した個人のものではなく、共同体の中で実現する。申命記が語ったのは、民全体としての「命を選ぶ」決断であった。フィレモン書が示したのは、教会という共同体が身分の壁を超える選びであった。ルカ福音書が語る弟子の道も、個々人の信仰にとどまらず、群れとしての従順を求めている。自由と責任は、教会共同体のあり方そのものを問う。
四.神学的統合としての十字架
十字架は、この自由と責任の統合を象徴する。イエスは自らの命を捨てることで、すべての人を受け入れる自由を生きた。十字架は強制された苦難ではなく、愛に基づく自発的な選びであった。ここに、自由と責任が矛盾なく一つに結ばれる姿がある。弟子たちもまた、この十字架の自由と責任を分かち合うよう招かれている。
五.終末的希望との結びつき
この自由と責任の生き方は、ただ現世的な倫理にとどまらない。神の国という終末的希望に基づいている。完全な和解と平和はこの世で実現しないかもしれない。それでも、命を選び、兄弟を受け入れ、十字架を担う選びを重ねるとき、神の国の一端が現実に垣間見える。自由と責任は、終末的希望を現在に生きる道なのである。
六.日本の教会に課せられた課題
二〇二五年の日本社会において、分断と排除の声はますます強まっている。経済的格差、気候危機、移民・難民をめぐる緊張。これらの現実の中で、教会は小さな群れとしてどのように応答するのか。自由を誤用して排除に傾くのか。それとも、責任を担って命を選ぶのか。今こそ、聖書の三つの声を神学的に統合し、弟子の道を新たに歩み出す必要がある。
七.統合の中心にある問い
結局のところ、問いは単純である。私たちは「誰と共に生きるのか」。その問いに答えるとき、自由は責任と出会い、命を選ぶ道が開かれる。申命記のモーセ、フィレモン書のパウロ、ルカ福音書のイエスが共に示すのは、その一点にほかならない。
結語 自由と責任を結ぶ道へ
この主日の聖書箇所を通して、私たちに一貫して響いてきたのは「選び取る自由と責任」という主題であった。申命記は「命を選びなさい」と迫り、フィレモン書は「兄弟として受け入れよ」と訴え、ルカ福音書は「十字架を担え」と呼びかける。いずれも、人間に与えられた自由が自己中心の放縦ではなく、隣人と共に生きる責任と結びついていることを告げている。
現代社会は、自由の誤用に満ちている。経済的効率の名の下に弱者が切り捨てられ、国境の名の下に移民や難民が排除され、自己責任の名の下に孤立が広がる。そこでは「自由」が他者を犠牲にする口実となっている。だが、聖書の語る自由はそのようなものではない。むしろ責任を担うときにこそ、人間は真に自由となる。フィレモンがオネシモを兄弟として迎え入れることは、彼にとって負担であり犠牲だった。しかし、その重荷を担うとき、彼は愛の自由を生きることになった。イエスが十字架を担ったのもまた、他者のために自発的に自由を行使した出来事であった。
今、私たちが直面している気候危機や格差、移民・難民をめぐる分断は、まさに「命を選ぶか否か」という岐路である。短期的な利益や自己の安定を優先するのか。それとも、未来の世代と弱き者の命を守る道を選ぶのか。教会はこの岐路において、社会に向かって「命を選ぶ」ことを証ししなければならない。
礼拝に集う私たちは、小さな群れにすぎない。だが、その小さな群れが自由と責任を結ぶ道を歩むとき、世界に向けて大きな証しとなる。聖餐に与るとき、私たちは一つのパンを分け合い、分断を超えて共に生きる共同体のしるしを受け取る。その現実こそ、社会における排除と分断を超える力となる。
弟子として従う道は、安易ではない。持ち物を捨て、十字架を担うことは痛みを伴う。だが、その痛みを通して開かれるのは、真の自由であり、神の国の希望である。申命記の岐路に立つ民に、モーセは「あなたもその子孫も生きるために、命を選びなさい」と告げた。その声は今も私たちに響く。
だからこそ、私たちは選び続ける。命を選ぶこと。兄弟として受け入れること。十字架を担うこと。その一つひとつの選びが、分断を超える共同体を形づくる。小さな歩みであっても、その積み重ねが未来を変えていく。
「選び取る自由と責任」――それは今日の世界にあって軽々しく語れる言葉ではない。むしろ重く、困難で、犠牲を伴う。しかし、その困難を担いながら歩むとき、私たちは真に自由となり、命の共同体を生きることができる。
本主日の聖書の声を胸に刻みながら、私たちは新しい一週間へと送り出される。分断と排除の現実に抗して、命を選び、兄弟姉妹を迎え入れ、十字架を担う道へ。そこにこそ、神の国の希望がかすかに輝き、私たちを導いている。