排外主義という霊的感染──「共生」への責任を問う参院選の後で

構造を暴く「排外主義の台頭と情報戦――誤った『敵』の創出は誰のためか」

2025年の参議院選挙は、日本社会に巣食う深い毒を浮かび上がらせた。それは単なる政治的な変化ではなく、倫理の喪失であり、信仰の視点から見れば明らかに「霊的な感染」である。

「生活の困難の原因は外国人にある」という虚偽の言説が、SNSや動画を通じて拡散され、それが特定の勢力への支持に直結した。この構図は、他国でも繰り返されてきた――事実に基づかず、誰かを「敵」と見なすことで団結をつくろうとする政治の常套手段である。

だが、これは自然発生ではない。誤った「敵」を創り出し、その憎悪に火をつけ、別の責任から目を逸らさせる。制度の欠陥や政策の失敗という本質的な問題を覆い隠すために、標的が必要とされたのだ。

そして今、もっとも深刻なのは「言ってもいい空気」がすでに定着してしまったことだ。「文化が壊れる」「治安が悪くなる」――そうした根拠のない言葉が、政治や制度の議論ではなく、情緒と不安の渦の中で人々を巻き込んでいく。この空気は、やがて制度的な差別や暴力へとつながっていく。

そして、そのただ中で「教会の沈黙」は、見過ごすことのできない罪であrう。

もし教会が「政治に関わらない」という言葉で沈黙を選ぶならば、それは無関心ではなく、「差別の容認」であり、神のかたちに造られた命に対する冒涜に他ならない。

旧約聖書は言う。「あなたが寄留者を虐げるなら、わたしはその叫びを聞く」。これは古代の律法ではない。今日の社会に向けられた、神の怒りの声である。

排外主義は、恐れと無知と制度の歪みから生まれた「現代の偶像」である。そして、偶像はいつの時代も命を差し出すことを求める。だからこそ、教会はこの偶像を見抜き、告発し、拒まねばならない。

信仰からの応答「『寄留者を愛せよ』という神の声に、私たちはどう応えるのか」

「あなたがたは寄留者を愛せよ。かつて、あなたがたも寄留者であったからだ」。これは、旧約に繰り返し登場する神の命令である。イスラエルは被抑圧の民として、自らの経験から「共にあること」「受け入れること」の信仰倫理を託された。

私たちが信じる福音とは、イエス・キリストがあらゆる隔ての壁を壊し、すべての人を一つの体とされた出来事に他ならない(エフェソ2:14、ガラテヤ3:28)。そこには「我々」と「彼ら」を分ける境界はない。にもかかわらず、今の社会で信仰者が排外の空気に沈黙するなら、それは福音の否定であり、神の国を裂く行為である。

「日本人ファースト」と掲げるスローガンは、単なる政治理念でわなく。

命に優先順位をつけるという霊的暴力を含んでいる。それは「ある命は守るに値し、他の命は排除されてよい」とする思想であり、十字架の贖いの完全性を否定することにつながる。

だからこそ、教会は語らねばならない。「排外主義に沈黙しない信仰」を掲げ、恐れではなく共に生きる希望を語る責任がある。

過去、ナチス体制に抗った牧師たちは「神の言葉は人種の選別に与しない」と告白した。現代ヨーロッパでも教会は移民や難民との共生を推進し、信仰による対抗の声を上げている。

日本でも、いくつかの教会がすでに声を上げ始めている。外国人支援に取り組む教会、祈りの場を開く小教区。しかし、その声はまだ小さい。

いま必要なのは、教会全体の霊的覚醒だ。「共に生きる神の国」を大胆に宣言し、選民ではなく「神の憐れみによる連帯」を示す時である。

命の側に立つ信仰「あなたがたも、かつては寄留者であった」

排外主義は、恐れに根ざし、人を敵と見なす。そのとき私たちは問われる――誰の声を信じ、誰の命と共に生きるのか。

「旅人だったとき、あなたは迎えたか」と、主はわtしたちに問われる。

黙っていることが、誰かを排除する手助けになっていないか。

だから、教会は語る。

「この社会の中心にいるのは、誰でもない。神のかたちに造られた、すべての命である」と。

私たちは告白する。

教会は、命の側に立つ。

この信仰をもって、共に生きる社会を祈り求めよう。

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