聖霊降臨後第六主日 説教草稿「主の語りに耳を傾ける時代に」

【教会暦】
聖霊降臨後第六主日 二〇二五年七月二〇日
【聖書箇所】
旧約日課 :創世記 一八章一〜一四節
使徒書 :コロサイの信徒への手紙 一章二一〜二九節
福音書 :ルカによる福音書 一〇章三八〜四二節
【要旨】
本主日は、奇しくも参議院選挙の日と重なりました。社会的には情報があふれ、時に誤情報や陰謀論までもが選択の材料として拡散されています。そのような現代の騒がしさの中で、私たちキリスト者はどのように信仰と社会的責任を両立させていくべきでしょうか。
聖書は、三つの語りを通して私たちに語りかけます。創世記のサラは、信じがたい神の語りに思わず笑ってしまいます。しかし神は、「主に不可能なことがあろうか」と語りかけ、約束を成就されます。ルカ福音書のマルタとマリアの物語では、イエスは多忙に動き回るマルタに対して、主の語りに静かに耳を傾けたマリアの選びを「良い方」と認めます。パウロの手紙は、世の中の騒がしさの中でも、キリストという奥義に生かされる者としての使命を語ります。
信仰とは、沈黙と選びの営みです。騒がしさの中でなお神の語りに耳を傾け、誠実に社会に参与する。そのような信仰の姿勢が、まさに今日という日に求められています。マリアのように、神の言葉の前に沈黙し、祈りから出発する選びを、私たち一人ひとりが担ってまいりましょう。
【本文】
主の日と投票の日が重なる時
今朝、私たちは主日の静かな祈りのうちに招かれているが、同時にこの国においては、参議院議員選挙が行われる日でもある。礼拝と投票所。神の語りと人間の選択。永遠の言葉と時代のうねりが、一つの今日において交錯する。
普段であれば、選挙の日を強調することは避けるかもしれない。しかし今年、この国の選挙に影を落とすのは、正常な議論ではなく、不安を煽る言葉や真偽の不確かな情報、いわゆる「陰謀論」と称される風のような言説である。私たちはそれらが人の心をかき乱し、真理を曇らせ、共同体の信頼を損なう危険を見過ごすことはできない。
だからこそ今日、聖書の言葉に耳を澄ませよう。アブラハムとサラ、マルタとマリア、そしてパウロの語る召命の物語に。そこに、混乱の時代における霊的識別と倫理的誠実さが、静かに、しかし力強く語られている。
笑ったサラと「それでも語られた」主
旧約日課で読まれた創世記一八章の場面は、聖書における最も人間らしい、そして神の真実が強く浮かび上がる物語の一つである。暑い昼下がり、マムレの樫の木のかたわらに立っていたアブラハムのもとに、三人の旅人が現れる。主の使いである彼らは、サラにまもなく子が生まれることを告げる。しかしテントの陰でそれを聞いたサラは、思わず笑ってしまう。
「わたしはもう年老い、夫もまた老人です。こんなことがあるでしょうか。」このサラの反応は、単なる懐疑というより、長い不妊の苦しみの末に得た、「神の約束に希望を持ちすぎることへの恐れ」にも見える。つまり彼女は、語られた約束の言葉に直面したとき、希望そのものが怖かったのだ。
神は「なぜサラは笑ったのか」と問う。「主に不可能なことがあろうか」。この問いは、そのまま現代の私たちにも投げかけられている。神の言葉があまりに現実離れしているとき、私たちはそれを静かに笑って受け流しはしないだろうか。あるいは、「そんな希望はもう信じない」と、自己防衛のために心を閉ざしてしまわないだろうか。
しかし、神は語る。「定められた時に、わたしは来る」。不信と嘲笑、失望の中にさえ、神の言葉は届く。サラの笑いは、のちに「イサク(彼は笑う)」という名に結晶する。人間の限界の中で、なお語り続ける神。それこそが、私たちの信仰の出発点である。
マルタの多忙とマリアの静けさ
福音書の物語は、イエスがマルタとマリアの家を訪ねる場面である。マルタはもてなしに忙しく動き回るが、マリアは主の足もとに座ってその言葉に聞き入っている。姉のマルタはついに「主よ、妹が私ひとりに仕事をさせているのを、なんともお思いにならないのですか」と訴える。
イエスはやさしく、しかしはっきりと応える。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」
この語りかけは、現代の私たちにとって痛烈な響きをもつ。社会的ノイズ、情報過多、SNSの喧騒、政治的感情の波──私たちは絶え間なく「多くのことに心を乱されている」。とりわけ今日のように、選挙報道や扇動的な語りが日常を覆う時、何が本当に「必要なこと」であるのか、識別するのは容易ではない。
マリアの選びは「静けさ」の中にある。しかしそれは、現実からの逃避ではない。むしろ「主の語りに真剣に耳を傾ける」という、もっとも能動的で、もっとも信仰に生きる態度である。
今、私たちはマリアのように、主の語りに耳を傾けることができるだろうか。「騒ぎ」の背後にある真実の声を、識別する霊的沈黙を取り戻すことができるだろうか。
騒がしさの政治、沈黙の信仰
この国において、今日の選挙に際し、私たちはかつてないほどに多様な言説にさらされている。現実の問題への提案や理念の表明だけでなく、科学や歴史に反する扇動、陰謀論、さらには人間の尊厳を脅かす語りまでもが、選択肢の一つのように扱われている。情報の濁流は、民主主義を支える「誠実な判断」をかき乱す危機ともなりうる。
このような時代において、教会は沈黙していてよいのだろうか。私たちは党派に与することなく、それでも「主の語り」と「人の語り」を識別することへと招かれている。使徒パウロは、コロサイ書簡の中でこう記している。「神はこの奥義を、異邦人にどれほど豊かな栄光をもって現そうとしておられるかを知らせようとしてくださった。すなわち、あなたがたのうちにおられるキリストである。」
つまり、教会はこの世の語りと別の言語をもって生きる群れである。キリストにおいてすべてが和解され、真理と正義と平和が一つの体を形づくるという、その「奥義」を預かる共同体である。だからこそ、私たちは「騒がしさ」に加担するのではなく、「主の沈黙に根ざした語り」によって、誠実な政治参与を促し、霊的な冷静さを証ししなければならない。
主の語りに耳を傾けるとは、政治を放棄することではない。むしろ、いかなる時代にも「神のかたちに造られた人間の尊厳」が踏みにじられることがないよう、祈りをもって見張り、声をあげ、選ぶという霊的実践なのである。
誠実に選び、祈りの中に生きる
教会の中においても、時に意見は異なり、信徒たちが投票する政党や政策もまた一致しないことがある。しかしそのこと自体が問題ではない。大切なのは、「それぞれの選びが、祈りのうちに根ざしているかどうか」である。
福音書に描かれたマリアの姿勢は、「主の足もとにとどまる」ことの大切さを示している。これは単なる個人的な霊性の問題ではない。信仰の共同体として、騒がしいこの時代の只中で、祈りに根ざした判断を共に支え合うことこそ、教会の使命である。
使徒パウロは、「私たちのうちに力強く働くキリストの力によって、すべてを忍耐しつつ、告げ知らせる」と言う。私たちは「この世の論理」ではなく、「キリストにあって成し遂げられた和解と希望」に基づいて行動するように召されている。
だからこそ、今日という日、私たちは静かに、誠実に祈ろう。「わたしの判断が、人間としての誠実に根ざし、キリストにある平和と正義に照らされますように」と。私たちの内なるマルタが騒ぎ立てる時、マリアのように主の言葉にとどまることができるよう、教会は互いに支え合う共同体でなければならない。
神の奥義を担う共同体として
教会は、時代の騒ぎを受け流す集団ではない。むしろそのただ中で、「神の奥義を告げる者たち」として召されている。それは教職者だけではない。洗礼を受けたすべての信徒が、そのように召されている。
創世記の物語において、サラは自分が用いられるとは夢にも思わなかった。しかし神は、まさにその彼女を通して、イスラエルの歴史を生み出す。マリアは、人々の中にあって、声高な行動ではなく、静かな傾聴によって、イエスから「良い方を選んだ」と認められた。
今、私たちの社会には多くの問いが投げかけられている。国家と個人の関係、経済と福祉、教育と自由、戦争と平和。そして、それらをめぐる言説が、時に暴力的で、歪められた形で共有されている。
だからこそ、教会の役割はますます重要である。主に耳を傾けるとは、単なる個人の信仰的行為ではない。それは、共同体として、神の真理に聞き従う姿勢を保ち、社会に向けて証しする霊的責任である。
教会は、この時代のために祈るだけでなく、語る使命を担っている。「主に不可能なことがあろうか」。その言葉を信じる群れとして、私たちはあえて希望を語り、あえて和解を選び、あえて誠実に投票するよう勧めるのである。
典礼の祈りと信仰の選びをつなぐ
主の日の礼拝と、国家的な選挙という行為が、まったく異なる性質を持っていることは明らかである。しかし、それらが同じ日に重なるとき、私たちは否応なく自らの信仰と社会的実践との関係を問い直すことになる。信仰は閉ざされた個人の内面にとどまらず、この世界における生き方、選び方、語り方にかかわっている。
主イエスは、マリアのように「一つだけの必要なことを選び取る」姿勢を、良い方と称した。信仰とは、選びの連続である。声高な論争や情緒的な煽動の中でも、なお主の声に耳を傾けるという選び。情報の洪水のなかでも、誠実に真実を探り、隣人の尊厳を守るという選び。
その選びの霊的基盤として、教会の典礼は今、私たちを養っている。聖餐にあずかる者としての共同体は、単に「良い人々の集まり」ではない。むしろ、主の死と復活に結ばれた者たちとして、世に出ていく群れである。
今日、私たちが祈りとともに捧げる聖なる奉献は、票を投じる行為とは異なるようでいて、共に「わたしはこの道を選びます」と神の前に応答する行為である。どちらにも、真剣さと誠実が求められている。
祈りと選び、沈黙と応答。私たちはこの二つを両立させるように招かれている。典礼における「平和のあいさつ」は、社会における「対立を越える誠実な対話」へと私たちを送り出す。そして、聖霊降臨後のこの季節は、そのような派遣のスピリトを、私たち一人ひとりに思い起こさせる。
静けさのうちに語られる希望
サラが笑ったように、時として人は神の語りを信じるにはあまりに現実が重く感じられることがある。マルタが苛立ったように、正しさにとらわれすぎて、本当に必要なものを見失うこともある。パウロが語ったように、私たちはこの世のすべてを完全に理解しているわけではない。ただ、キリストという希望が、私たちのうちに生きている。
だから、今日という日を、主の語りに耳を澄ませながら、静けさのうちに迎えたい。
陰謀論や誤情報、怒りや嘲りの渦が社会を巻き込む中でも、私たちはマリアのように、「主の足もとに座る」者であり続けよう。それは決して消極的な姿勢ではない。それこそが、この時代にあって最も力強い信仰の表明である。
そして、私たちのうちに働く聖霊が、祈りから判断へと、沈黙から証しへと、私たちを導いてくださることを信じよう。
主は言われる。「主に不可能なことがあろうか」。それは、今日の社会においても変わらない真理である。
主よ、私たちの判断を清め、私たちの心を開き、私たちの声を静けさのうちに導いてください。そして、私たちが選ぶときにも、沈黙するときにも、そこにあなたの平和が宿りますように。
アーメン。