
はじめて信仰に触れる方へ、宗教に戸惑いをお持ちの方へ
信仰—それは、静かに歩みを始めること
日々の歩みのなかで、ふと立ち止まりたくなる瞬間があります。思いがけない出来事に心を揺さぶられたり、自分の力だけでは越えられない現実に直面して、戸惑いを覚えることもあるでしょう。
そうした時、ふと「信仰」という言葉が心をよぎることはありませんか。それは、決して誰かに従わせられるものではなく、また押しつけられるものでもありません。
私たち自由と友愛の独立アングリカン教会は、信仰とは—人が自らの歩幅で向き合い、自分らしく、自由に、しかし深く神と出会っていく道であると信じています。それは、心の奥にそっと灯る、小さな「始まり」のようなものです。
宗教に対して不安を感じておられる方も、信仰という言葉に戸惑いを覚える方も、どうか安心して扉を開いていただければと願います。
この教会は、あたたかさと寛容を大切にし、一人ひとりの存在を喜び、共に祈り、歩んでいける共同体でありたいと祈り続けています。
深い悲しみの中で
かけがえのない人を見送るとき、
死という避けがたい現実の前に立たされるとき、
その胸を締めつけるような痛み、ひとり残されたかのような寂しさは、
どんな言葉をもってしても、言い尽くすことができません。
「なぜ、これほどまでに心が痛むのか」
「なぜ、愛する者との別れを免れることはできないのか」
—そんな問いが、心の奥底から、静かに、あるいは叫ぶように湧き上がることがあります。
そしてその問いは、私たちの存在の根底を揺さぶり、
信じていたものさえも見失わせるほどの深い闇をもたらすことさえあるでしょう。
けれど、信仰とは、そうした問いに安易な答えを差し出すものではありません。
むしろ、問いとともに歩み、沈黙の中にとどまりながら、
その痛みに耳を傾け、心に寄り添ってくださる「お方」がいるという確信—
そこに、私たちの信仰の本質があるのです。
「悲しむ人々は、幸いである。 その人たちは慰められる」
—マタイによる福音書 5章4節
この主イエスの言葉が語るように、
神は、私たちの涙を離れたところから眺めているお方ではありません。
むしろ、悲しみのただ中に身を置かれ、
私たちの涙をその御心に深く刻みつけながら、
静かに、確かに、共にいてくださるのです。
その御臨在に支えられ、私たちは、
別れを越えてもなお続く愛の絆を信じ、
死の向こうにも及ぶ希望の光を見出すことができるのです。
不安な未来と向き合うときに
年を重ねるにつれて、私たちは否応なく、からだの衰えや健康の不安、介護の現実、経済的な心配と向き合うことになります。
ふと夜中に目を覚まし、「これから先、自分はどう生きていけばいいのだろう」と思いを巡らせることがあるかもしれません。そんな問いは、決して特別なものではなく、誰ものうちに芽生えるものです。
信仰は、すべての問題を一瞬にして取り去る魔法ではありません。
けれども、混迷する時代と、先の見えにくい現実のなかで、心の歩みが見失われぬよう導く、小さな灯火のような力にはなり得ます。
頼ることのできる誰かがいてくれること。
「あなたは、あなたのままでここにいてよい」と受け入れてもらえる場があること。
そして、自分の存在が、神の御前においても、人の世においても、尊ばれていると感じられること。
—それらは、人生の荒れ野を歩む私たちにとって、かけがえのない支えとなるのです。
私たちの教会は、そのような支え合いと祈りの共同体として、誰にとっても開かれた場所でありたいと願っています。どのような思いを抱えていても、どうか一人で抱え込まずに、共に祈り、共に歩んでまいりましょう。
ゆりかごから墓場まで
— ともに願い、ともに歩む社会のかたち
私たちが生きるこの時代には、あまりにも多くの痛みが満ちています。
貧困、差別、気候危機、孤独、そして支援の手が届かないまま、制度の隙間に取り残される人びとの姿—。
気がつけば、「不安定さ」そのものが、日常の風景になりつつあるようにも思われます。
誰もが、いつ、どのような事情で困難に直面するか分からない。
そんな予測しがたい時代だからこそ、私たちは心から願います。
「すべての人が、安心と尊厳をもって生きることができる社会となりますように」と。
キリストにある信仰は、その願いにそっと灯をともす、ひとすじの希望の火です。
その光は、小さく、静かにはじまるかもしれません。
けれど、冷えきった現実のただ中にあって、真理と憐れみの問いを差し出し、不正に対しては沈黙を破って語り始める力ともなり得ます。
「ゆりかごから墓場まで」—この言葉が、単なる理想にとどまらず、少しずつでも確かなかたちとなっていくように。
もし、私たちの信仰がその歩みを支えるひとつの力となるのなら、それは主からの何よりの恵みです。
疑いも、問いも、そのままで
— 聖公会の信仰における誠実さ
「信仰」と聞いて、すべてを疑わずに受け入れることだと考える方もおられるかもしれません。しかし、私たちはそうは受けとめていません。
「なぜ神は沈黙を守られるのか」「どうして苦しみは終わらないのか」—
そうした問いを抱えながら、それでもなお歩み続けようとすること。その葛藤のなかにこそ、信仰の真実があると、私たちは信じています。
疑いや問いは、信仰の妨げではなく、むしろその深まりのしるしです。
揺らぎのただ中で、確かな答えを持てなくとも、それでもなお、小さな希望の光を求め続ける—その営みこそが、人間としての歩みであり、神に向かう霊的な旅路なのです。
私たちが受け継いできたアングリカン(聖公会)の霊的伝統には、「問いと共に生きる」ことへの深い理解と敬意があります。
即座の解答を求めるのではなく、理性と聖書、そして教会の伝統の声に耳を傾けながら、対話の中に神の御声を聴き、たとえ迷いの中にあっても、誠実に歩み続ける姿勢を大切にしてきました。
答えを急がなくてもかまいません。
問いを抱えたままでも、主はあなたと共におられます。
いつでも、ここにいます
私たちの教会の扉は、いつでもすべての方に開かれています。
信仰をたずさえて訪れる方も、まだ歩み出せずにいる方も、あるいはただ静かに話を聴いてみたいと思われる方も—どなたも、主の招きのうちに迎え入れられます。
信仰は、ごく限られた人々だけのためにあるものではありません。
日々の営みのなかで心が疲れたとき、誰にも言えない思いを抱えて立ち止まりたくなったとき、あるいはただ誰かと静かに寄り添いたくなったとき—
そんな時に、そっと灯をともす祈りの場として
希望は、ときに見えにくく、遠く感じられるものです。
それでも、なお、祈りのうちに、人との出会いのうちに、
そしてともに歩むつながりのなかに、
かすかな光は必ず息づいています。
どうかその光が、あなたの心にも静かに届きますように。
私たちは、いつでも、ここにいます。
「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれか、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って、共に食事をし、彼もまたわたしと食事をするであろう。」
— ヨハネの黙示録 3章20節